距離の理由
週明けの月曜。
教室に入った瞬間、私は一瞬足を止めた。
窓際の席で、紗英がノートを広げている。
いつも通り、穏やかな表情でクラスメイトに話しかけられ、微笑みながら答えている。
……何も変わってないように見える。
でも、私は知ってる。
その笑顔の奥に、夜のあの必死な顔があることを。
酔っ払いに腕を掴まれて、怯えたあの目が。
——だからって、何もなかった顔して隣に行くのも、妙に気まずいんだよな。
私は窓際とは逆の自分の席に座った。
でも、視線は勝手に彼女を追ってしまう。
ノートを取るときの指先の動き、首をかしげる仕草。
一つ一つが、やけに気になる。
昼休み。
私はいつものように購買のパンをかじりながらスマホをいじっていた。
そこへ、視界の端に白い影が差し込む。
「……隣、いいですか?」
顔を上げると、紗英が立っていた。
昼の光に透ける髪が、妙にきれいに見える。
「お、おう……」
自分でも驚くくらい声が上ずった。
紗英はにこやかに腰を下ろし、ランチボックスを広げた。
中身は彩りよく並んだおかずと、ふっくらした白米。
「……ちゃんと食べてんだな」
「え?」
「いや、あんなに忙しいのに。夜も働いてんだろ」
声を潜めると、紗英は少しだけ頬を染めた。
「……ちゃんと食べないと、体力が持ちませんから」
その一言が、妙に胸に刺さった。
食後、紗英はふと私の缶コーヒーを見た。
「それ、この前も飲んでましたね」
「ああ、眠気覚ましだ」
「苦くないですか?」
「苦いけど……慣れたら、まぁ」
そう答えると、紗英は少し考え込むように視線を落とし——
次の瞬間、私の缶をそっと手に取った。
「おい、それ——」
「……あ、やっぱり苦いです」
小さく笑って、彼女は缶を返す。
その笑顔が、どこか子どもみたいで、不意打ちを食らったみたいに心臓が跳ねた。
放課後。
廊下で紗英を見かけた。
どうやら生徒会の仕事で校舎を回っているらしい。
——送ってやったほうがいいか?
——でも、あれは土曜の夜だけのことだし……。
迷っている間に、彼女が階段を降りていく。
気づけば、私は自然と後をつけていた。
「……莉音さん?」
振り返った紗英が、目を丸くする。
「あー……同じ方向だっただけ」
「そうですか?」
疑わしそうに笑いながら、彼女は歩き出す。
階段を降りる音、靴の小さなきしみ、彼女の横顔。
全部が、今はやけに鮮明だった。
帰り道、並んで歩く。
沈黙が続くかと思いきや、紗英が口を開いた。
「この前は……ありがとうございました」
「別に。放っとけなかっただけだ」
素っ気なく返すと、彼女はふっと微笑んだ。
「……そういうところ、優しいですね」
その言葉が、予想外に胸を熱くする。
優しいなんて、今まで言われたことなんてない。
ただの気まぐれだったはずなのに——。
——これ以上、距離を詰めたらやばいかもしれない。
——でも、離れられそうにない。
家に着くまでの道が、やけに短く感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます