触れてはいけない夜

 週末の夜。

 私は退屈しのぎに繁華街をぶらついていた。

 同じような金髪や派手な化粧の連中と違って、私は一人が好きだ。

……というより、誰かとつるむと、それだけ面倒ごとも増える。


 アーケード街の端にある古びたビルを通り過ぎたときだった。

 耳に、かすかにピアノの音が届いた。


——あれ?


 足を止め、耳を澄ます。

 低くて温かい和音と、透明な旋律。

 ビルの二階、窓の奥から漏れてくる。

 その響きに、妙な既視感があった。


 私は無意識に階段を上がり、ドアの隙間から覗き込んだ。


 そこにいたのは、紗英だった。


 ステージライトに照らされて、ピアノに向かう横顔。

 背筋を伸ばし、指先は迷いなく鍵盤を駆け巡る。

 髪が揺れ、頬がほのかに光る。

——学校で見る会長じゃない。

 制服でもなく、シンプルな黒のワンピース。

 それが彼女の大人びた雰囲気を際立たせていた。


 数人の客が静かにグラスを傾けながら、その音に耳を傾けている。

 どうやらここは小さなバーらしい。

 カウンター越しにマスターらしき男が、客と小声で話している。


 私はドアから目を離せず、ただ立ち尽くしていた。


 曲が終わると、紗英は小さく会釈し、席を立った。

 そして、ステージ横の扉から控室へと消えていく。


「——お客さん、入るならどうぞ」

 急に声をかけられ、ビクリと振り返る。

 マスターが不思議そうに私を見ていた。

「いや……知り合いが……」

 言葉を濁すと、彼は少し眉を上げた。

「彼女の友達? 珍しいな。学校の子なんて」


 その言葉に、胸の奥がざわついた。

 やっぱり、これは学校に隠してることなんだ。


 帰ろうか迷ったそのとき——

 店の奥から怒鳴り声が聞こえた。

「おい、まだ演奏しろよ!」

 見ると、酔った中年男が紗英の腕を掴んでいた。

 袖口から覗くその手首は細くて、簡単に折れてしまいそうだ。


 私は考えるより先に動いていた。

「離せ」

 男の手を乱暴に振り払うと、相手はギロッと私を睨んだ。

「なんだテメェ」

「客だろうが関係ねぇ。嫌がってんの見えねぇのか」


 酔いが回っているのか、男は何か言い返そうとしたが、

 マスターがすぐに間に入り、外へ押し出した。

  

 控室に戻ると、紗英は少し肩を震わせていた。

「……平気か」

「……はい。ありがとうございます」

 そう言いながらも、笑顔は作らない。

 私の中で、何かがカチリと噛み合った。


「なんでこんなとこで働いてんだ」

 問い詰めるような口調になったのは自分でもわかっていた。


「……学費と、妹のためです」

 短い沈黙のあと、紗英は淡々と答えた。

「母が体を壊して働けないので。父も、もう……」

 それ以上は言わなかった。


 私は、胸の中に何か熱いものがこみ上げてきて、

 同時にどうしようもなく悔しかった。


——あの完璧な会長が、こんなふうに必死で生きてるなんて。

——私なんかより、ずっと傷だらけじゃねぇか。


「……送る」

「でも——」

「送る」

 強めに言うと、紗英は少しだけ目を見開き、

 やがてふっと微笑んだ。


 帰り道、夜風が二人の間をすり抜けていく。

 沈黙は不思議と重くなかった。

 ただ、私の中で何かが決定的に変わった。


——もう、この人を放っておけない。

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