第16話 甘酸っぱい恋の味
私は漆黒の宇宙を、小さなポッドでただ一人、成す術もなく彷徨っていた。
助けは来ないかもしれない――死の恐怖に押し潰されそうになっていたあのとき、目の前に現れたのが、このムラサメという船。見た瞬間に軍艦とわかる威容。だが登録は民間の商船。艦型も形式も、今まで見たことのない船。
間違いなく新造されたばかりの最新鋭艦。
この船にどれほどの価値があるのか見当もつかない。そんな船のオーナーがレイ。掴みどころのない、不思議な男。
ただ、この男はとんでもなくお人好しで、世間知らずの坊やだった。
会社の船を沈められ、父と大切なクルーを失って、私だけが生き残った。この先どうやって生きていけばいいのかも分からない。絶望と混乱の中で、私はつい、ひどく利己的な考えを抱いた。
そう、私はレイを利用しようと考えたのだ。救助された瞬間、私は思ってしまった。この男とこの船があれば……すべてが変わる、と。
私は社長の娘だけど、決してお嬢様なんかじゃない。父の会社はいつも資金繰りに追われ、経営は綱渡り。母は事務と整備、それから私と同じ作業ポッドのパイロットまで掛け持ちし、三年前に他界。長年の無理がたたったのだ。
それからは私が本格的に父と会社を支えるようになり、二人して会社を守るために必死で働いた。
幸い、私は見た目と体つきには恵まれ、母にはない強みがあった。
ときには、融資を引き出すために。
ときには、修理代の支払いを待ってもらうために。
ときには、大手と少しでも有利な取引契約を結ぶために――
私は、自分の身体を使って交渉を進めた。男たちの要求に応えることで、どうにか会社を、父を、生活を守ってきたのだ。父はすべてを知っていた。けれど、何も言わなかった。いや、言えなかったのだと思う。
私たちは従業員を養い、自らも生きなければならなかったから。
そんな中で、事件が起きる。
今まで必死に守ってきたすべてが一瞬で崩れ去り、失われてしまった。突如訪れた悲劇、それによってもたらされた恐怖と絶望。
しかし希望はあった。そう、偶然出会ったフリーの傭兵、ムラサメという高性能艦を操る目の前の男、レイさえどうにかできれば未来が開ける……
これまではただひたすら残骸を漁る日々だった。宇宙に打ち捨てられたゴミの中から、金になりそうな部品を拾い集める。命の保証もなく、たいして儲かりもしない報われない仕事。でも、この船があれば違う。たとえば今回のネメシス。これは、今までと違って自らの手で仕留めた獲物。パーツを売れば、かなりの儲けが出るはずだ。
そう……。レイを抱き込めば、死体をあさって腐肉を貪るハイエナではなく、獲物を狩る獅子になれる。
だから私は、あの甘い坊や――レイを誘惑しようとした。この船と彼を、自分の未来のために“使おう”と、心に決めた。
私のこの体を欲しがらなかった男はいない。この男もきっと、他の男たちと同じように鼻の下を伸ばして食いついてくる。
今さら初心な生娘じゃあるまいし……この男と船が手に入るなら、どんな行為だって受け止めてみせる。
ほんの少し隙を見せてやれば、思った通り、レイは私の体に興味を持った。あと一歩でこの船が手に入る。全てが順調に思えた。
ただ一つ誤算だったのは、あの優秀すぎるAI、ハルの存在だ。
どういう仕組みかは知らない。けれど、あの人工知能は私の企みを見抜いていた。しかもそれを、レイに伝えたのだ。そのことを彼の口から直接聞かされた瞬間――ああ、終わったと思った。
助けてくれた相手を利用する。恩を仇で返す……計算高く、腹黒い女。
そんな私を許してくれる男なんているはずがない。だから私は、抑えていた感情のすべてをぶつけた。怒りも、悔しさも、哀しさも、惨めさも――全部。
どうにでもなれ、そう思った。
……なのに。
なのにレイは、こう言った。
「一目惚れだったんだ。君があまりに美しくて……あのポッドでヘルメットを外して、髪を解いたとき。あの瞬間に、俺は君の虜になったんだ」
だから――付き合ってほしい、と。たとえ利用されてもいい。君の会社のために働く。このまま別れるなんて、嫌なんだ、と。
いつか、ちゃんと好きになってもらえるかもしれない。だから……一緒にいたいんだ、と。
愛の告白だった。
その瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。気づけば、涙がぽろぽろと零れていた。止めようとしても、止まらなかった。堰を切ったように泣いた。こんなふうに泣いたのは、いつ以来だっただろう。
目の前にいる世間知らずで甘い坊や――レイが、たまらなく愛おしく思えた。
この時、私ははっきりと自覚した。
……私は、この男に落とされたのだ。
生まれて初めて抱いたこの気持ちが恋なのだと、本能が、心の奥底で確かにそう告げていた。
だけど――今はまだ、そのことを教えてあげない。
レイの恋心も、私への執着も、ぜんぶ上手く利用してたっぷり振り回してあげる。だって私は年上で、あんたよりずっとたくさんの修羅場をくぐってきたんだから。
だから、しばらくは私の手のひらの上で、可愛く踊ってなさい。
……でも、安心して。
私の心は、もうとっくに、あんたのもの。そして――この身体も。
今まで何人も相手にしてきたけれど、あんなふうになったのは初めてだった。虜にしてやろうと仕掛けたはずが、あっという間に返り討ち。あの僅かな時間で何度天国を見た事か。
そう、私はもう……身も心も、あんた無しではいられない。
だからもう少しだけ、わがままな女でいさせて。
強がって、甘えて、振り回して。それでも変わらずそばにいてくれるなら……
これからずっと、あなただけを愛してあげるから。
***
目的地へ向かう航行の途中、ブリッジの窓に流れる星をぼんやりと見つめながら、サーシャがぽつりとつぶやいた。
「もし、交際をするのなら……話しておきたいことがあるの」
彼女は俺の方を見ず、視線は前方の宇宙に向けられたままだった。
「ああ、何でも話してくれ」
そう答えると、サーシャは少しだけ唇を噛んだ。迷うように髪を指先でくるりと弄びながら、静かに言葉を続ける。
「もし……やめるなら、今のうちに言ってね」
そう言って彼女は小さく息をついた。
「私はね、あなたが考えてるような……可愛い女じゃないから」
ちらりと横目で視線を向けてくる。強がった口調とは裏腹に、その瞳は不安そうに揺れていた。
美人というのは、幼いころから男たちの好奇の視線や欲望にさらされるものだ。本人がどう思おうと否応なく注目され、その中で自分の魅力を自覚し、やがて――女の武器を使った男の操り方を身に着けていく。
……これは、俺の勝手な思い込みかもしれない。だけど、今まで生きてきた中で自然と抱くようになった、一つの持論だ。
最初は、もう少し落ち着ける場所――たとえば居室で話さないかと提案した。けれど彼女は、少し考えてから首を振った。
「どうせなら、ハルにも聞いてほしい」
そう言って、ブリッジで語り始めた。
彼女が語った過去は、恋愛なんて甘い言葉では語れないものだった。十代の頃から家族の会社のために――いや、大人たちの欲望の犠牲として、その身体を使ってきたのだ。
かなり詳しく話してくれたが、彼女の名誉のために詳細は伏せておく。ただ、普通では考えられないようなことまでさせられていたようだ。それも、かなり歪んだ形で。
もしこの話を二十代の俺が聞いていたなら、到底、受け止めきれなかっただろう。けれど、中身は酸いも甘いも経験した、五十過ぎのおっさんだ。男は夢を見る。女は現実を見る。そして、女が現実に追い詰められて腹を括ったとき、その精神的な強さは男の想像を遥かに凌駕する。
男は女には適わない、これは現実に学んだ真理だ。
前の世界ではそれなりの人生があった。若いころに長く同棲していた恋人もいた。いつか自然に結婚するものと信じて疑わなかったが、ブラック企業を辞めた後に仕事が不安定になり……結果、彼女はアッサリと他に男を見つけて出て行った。
金の切れ目が縁の切れ目……
その後、水商売の女性と付き合ったこともあった。彼女とも同棲し、生々しい話を聞いているうちに女の強かさを知った。男は金の生る木。指名を得るため、売り上げにつなげるため、押して引いての駆け引きから、小金持ちの世間知らずとみるや一気にたたみかけ、文字通り体を使って抱き込むところまで。
彼女らは女の武器を巧みに使い、男の執着心を利用する。
そんな過去があるからこそ、彼女の話を素直に受け止めることができた。零細企業の身内というのは……本当に大変なんだなと、同情もした。
そして強く思った。
彼女を幸せにしたい。過去の事など吹き飛ばせるほどの喜びを、これからたくさん与えてやりたい。
――今度こそ、本気で。精いっぱい生きる。
そして必ず、サーシャと幸せな家庭を築くんだ。それが今の俺の、この人生で最大の目標になった。
「わかった、サーシャ。今までのことも、全部――俺との思い出で塗りつぶしてやる。だから改めて言わせてくれ。俺と付き合ってくれ。頼む」
そう言って頭を下げた俺の顔を、ふわりと彼女の腕が包み込む。Tシャツ越し、ノーブラの柔らかさが容赦なく頬に押し付けられる……天国かよ。
「ありがとう、レイ。その申し出、受けさせていただくわ。ただまだ、私は……」
「わかってる。今はそれでいい。だからその、真剣に俺と向き合ってほしい」
「ええ、もちろん。よろしくね、レイ」
二人で見つめ合う。
サーシャは泣き笑いの顔で、目に涙をいっぱいに湛えながらも嬉しそうに笑っていた。
その横で、全てを聞いていたハルの声が上から落ちてくる。
「キャプテン。良いお覚悟だと思います。サーシャの今までの行状に思うところがないわけではありませんが、その真っすぐで正直な心根はとても好感が持てます。お二人の気持ちが変わらない限り、不詳このハル、精一杯のサポートをさせて頂きます」
サーシャがパッと明るい表情を見せ。
「ありがとう、ハル。不束者だけど、よろしくお願いね」
天井に向かって、そう呼びかけた。
――と、その時。
「ところでキャプテン。このタイミングで言うのもなんですが……側室を迎えられるご予定などは?」
「はあ?」
あまりの切り出しに耳を疑う。
「お前な、それ、今言うことかよ」
「いえ、誠に申し上げにくいのですが……キャプテンの行為をサーシャ一人で受け止めるのは、物理的にも精神的にも、なかなか大変かと……」
「そ、そうね……たった二時間であれだもん。毎日あれだと、わたし壊れるかも……」
サーシャが顔を真っ赤にしながらも、わりと真顔で答えてきた。
「ちなみにこの国では、合法的に複数の妻を娶ることが可能です」
「そ、そうなのか?」
思わず乗ってしまいそうになったその瞬間、背後からビリビリと刺さるような殺気が突き刺さった。
「……レイ?」
振り向くと、サーシャがジト目で睨んでいた。口元は笑ってるが、目は全く笑ってない。
「あなたの中の“一番”は、絶対に私。それだけは譲らないから。もし、その座を脅かすような雌猫が現れたら――叩き潰してやる」
やべえ、怖っ……。
なるほど、この国では一夫多妻が普通らしい。彼女もその常識の中で生きてはいるが、独占欲が強そうだ。これは確実に尻に敷かれるな、俺。
「い、いや……俺はサーシャが傍にいてくれれば、それで――」
「無理よ。あんた凄すぎるんだから、絶対に一人じゃ無理。だから言っとく。私が“一番”。そして、隠れてコソコソは許さない。いい? 分かった?」
「は、はいっ」
思わず姿勢を正してしまった。
……なんだここ。
未来世界、こんなに居心地が良くていいのかよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます