最後の夏の、秘密の約束

こむぎこちゃん

第1話

 振りぬかれたバット。

 甲高い金属音。

 青空に吸い込まれていく白球。

 二対一、九回裏、ツーアウト二塁での、サヨナラツーランホームラン。

 何度も何度も、このシーンが頭の中で再生される。

 自販機の駆動音だけが響くホテルのロビーのソファーに座りながら、私、木ノ下光莉は興奮で叫びたいのをこらえて、代わりに買ったばかりの冷たいペットボトルを抱えて大きく息を吐いた。

 やっぱりかっこいいな、松川太陽先輩……!

 松川先輩は、我らが星南大附属高校野球部のキャプテン。

 名前のとおり太陽みたいな人で、中学からの私の、あこがれの先輩。

 私は先輩がいるから、この高校に進学して、マネージャーとして入部したんだ。

 今日行われた、甲子園初戦。

 先輩のサヨナラホームランで、見事二回戦進出を決めたの!

 もう就寝時間はとっくに過ぎているんだけど、昼間の興奮がまだ冷めずに、なかなか寝付けなくて。

 こんな調子じゃ同室の先輩に迷惑かなと思って、部屋を抜けてきちゃったんだ。

 そろそろ部屋に戻らないと、とは思うんだけど――

「まだ寝てない悪い子はだーれだっ?」

「ひゃっ!?」

 突然背後から声をかけられて、私は小さく悲鳴を上げた。

「ま、松川先輩……!」

 振り返った私の前にいたのは、松川先輩その人だった。

「木ノ下さん、もうとっくに就寝時間は過ぎてるよ~」

「せ、先輩こそ、試合のあとなんですから、早く寝た方がいいんじゃないですか?」

 私は赤い顔を隠そうと、前に向き直って言う。

「木ノ下さんだって、今日は疲れたでしょ? 早く寝ないと持たないよ」

「……まだ興奮が冷めなくて、なかなか寝付けないんです」

「おっ、もしかして俺のサヨナラに惚れた?」

 後ろから顔をのぞかれて、カアッと頬が熱くなる。

「べべべ、別にそういうことではっ!」

 あわてる私を見て、先輩はあははっと笑った。

 こんな時だけど、その人懐っこい笑顔にきゅんとしてしまう。

「まあ、俺もおんなじなんだけどね。まだあの時の感触が残っててさ」

 そう言って、先輩は自分の手のひらをぐっぱぐっぱと握ったり開いたりする。

「負ければ、俺たち三年は引退だからさ。まだ、俺たちの夏は終わらせない」

 ニッと笑って先輩は言うけど、わたしは『引退』という言葉で胸がぎゅっと苦しくなった。

 わかってはいたけど、考えたくなくて頭の隅に追いやってた。

 だけど、負けたら先輩はもういなくなっちゃう。

 この夏が、私が先輩といられる最初で最後の夏。

 その事実は変わらないんだ。

「……だから、まだ負けないって言ってるでしょ」

 しゅんとなった私に気づいたのか、先輩はそういってポンポンと手のひらを私の頭の上に置いた。

「今日の最後の打席に入ったとき、木ノ下さん、俺の名前叫んだよね?」

「えっ?」

 た、確かに叫んだけど……聞こえてたの?

 スタンドの、あんなに遠いところから?

 うれしいような、ちょっと恥ずかしいような……。

「背中、押されたよ。ありがとう」

「……はいっ!」

 先輩の言葉でうれしさが勝って、私ははにかみながら返事をした。

「自分の名前ってさ、呼ばれるとすごくはっきり聞こえるんだよ。それに、木ノ下さんは俺の――」

「俺の?」

「……いや、なんでもない」

 先輩は珍しく言葉を濁してちょっと視線をそらした。

 なんて言おうとしたんだろう。

 俺の……好きな人、とか?

 いやいやいや、さすがにないって!

 あるとしても、中学からの後輩とかそれくらいだよ!

 でも、じゃあなんで先輩は言いよどんだの?

 ……そんなのわかんないよ~っ!

 自分の考えていることが恥ずかしくなって、じたばたしかけた私の手から、ずっと抱えていたペットボトルが滑り落ちた。

 その音で、先輩と私は二人ではっと我に返った。

「……そろそろ、寝よっか」

 照れ隠しなのか、頭をかきながら先輩が言った。

「おやすみ、木ノ下さん」

 そう言ってロビーを去っていく先輩を、

「あのっ、先輩!」

 気づいたら私は引き留めていた。

「えっと、その……」

 だけど後に言葉が続かずに、私は伸ばした手とともにうつむいた。

 あれ、今私、なんで声をかけたんだろう。

 背中を見たとたん、なんだか急に心細くなって……。

「大丈夫だよ。俺たちはまだまだ勝つから、絶対に」

 先輩の強い言葉で、私ははっと顔をあげた。

 その表情が、さっきまでとは違ってすごく真剣で。

 私はその空気に吸い寄せられるように、先輩の顔を見つめた。

 だけど先輩はその表情をすぐに崩して。

「また秘密のおしゃべり、しようね。約束だよ」

 そう言った先輩はいたずらっ子みたいな顔で小指を立てて、小さく振って見せた。

 せ、先輩、それってどう意味ですか……?

 先輩の背中を見送った後、私はソファーの背もたれにもたれて、あぁぁーっと一人で身もだえた。

 こんなの絶対、寝られるわけないです~っ!


   〈おわり〉

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