閉ざされた塔の中で
@MahoutsukaiSairyu
第1話 塔の内側で息をする
海からの風はここまで届かない。再開発地区の最奥、六十階建ての塔は、ガラスと鋼でできた巨大な保温瓶のように、外気と匂いと音を拒んでいた。真宮遥は、ロビーの消毒灯がつくり出す青白い影の中をまっすぐ進み、数度、指先のグローブを引き締めた。吸い込む空気は冷たいのに、どこか甘い。新築の壁紙と柔軟剤の香りに、もう一滴、知らない蜜が落ちている。
隔離区域。立入許可。研究所の身分証を読ませるバーコード音が、やけに滑らかに耳を撫でた。
エレベーターが上昇する。箱の内側は鏡張りで、遥は自分の顔の輪郭が何度も反復されて遠のくのを眺めた。三十四歳の眠れていない顔。白衣の内側に、葡萄色のシルクのブラウス。首筋の汗は乾いているのに、鎖骨のほぞだけがしめっぽい。今日は意図して色を選んだわけではない。研究者の癖に、と横顔の自分が笑う。だが、この塔では色が音のように響く。深い葡萄が、無機質な壁面でわずかに反射し、見えない誰かの目を探す。
五十階。扉が開くと、廊下はホテルのように静かだった。カーペットは灰と銀の細い縞、壁はミルクを薄めたベージュ。均質。どこにも何も起きないはずの色合い。なのに空気は、肌の上でゆっくりとした舌のように動く。
「すぐ終わるから」
自分に言って、最初の部屋をノックした。502号室。若い夫婦が住むと管理簿にあったはずだ。返事は遅れてやって来た。扉が開いて、女が顔を出す。頬は上気して、髪の根元に細かな汗の粒。部屋着の下から覗くのは、白とピンクのストライプのブラ。肩ひもがわざとではなく滑ったように、外気を吸っている。男のほうはTシャツが湿って、胸もとに水色の地模様が濃くなっていた。二人とも、指先が交わる距離に立ち、互いの息を測るように浅く吐いている。
「医療です。皮膚の所見と採血を」
言いながら、遥は二人の手首の内側に視線を落とした。赤い発疹。隆起は少ない。まだ初期。アルコール綿を開くと、二人が同時に微かにすくむ。その瞬間、遥の腕の産毛が、風もないのに立った。綿の匂いと、二人の肌から立ち上る甘い熱が混ざって、喉の奥に飴の欠片が貼りついたみたいになる。
グローブ越しに手首を押さえる。たったそれだけで、指先から脳まで、ぴり、と一筋、銀色の電光が走った。電気ではない。生理学的には説明のつかない種類の“触れられた実感”。遥は無視して、針を落とす。血液は良い流速でチューブを染めた。標本管に立つ赤の柱が、室内の薄灯にグラデーションを作る。布、肌、血。三つの色階が、妙に調和していた。
「かゆみは?」
「触ると…気持ちよくなって、やめられなくて」
女が恥じて笑うと、ブラのストライプが胸の起伏に沿ってゆっくりたわんだ。白とピンクが呼吸のテンポで押し寄せ、退く。男は女の肩に触れ、すぐ手を引っ込める。触れたか触れていないか、その境目の空気が、部屋に充満している。
「接触は可能な限り避けて。冷却してください。鎮静の外用を置いていきます」
遥は平板な声で告げて、標本管をケースに収めた。背後で扉が閉まる。扉の表面に女の笑い声の残響がわずかに揺れ、金属光沢の上に桜色の波紋を残して消えた。
廊下の角を曲がると、老婦人が歩いていた。杖は持たないのに足音はしない。薄藍のワンピース、襟のレースに淡いラベンダー色の糸。胸の中央に小さな飾り穴、アクセサリーのためのものだろうか――ふいに、ドレスの下の白に、縁取りだけ深紅の糸が見えた気がして、遥は目を瞬いた。老婦人は微笑み、通りすがりざま、指先で壁紙を撫でる。その指の後を、光が遅れて追いかけ、壁紙が一瞬、絹のように艶を持った。
研究用の仮設ラボは、共用ルームを改造したものだった。ステンレスの机、簡易遠心機、冷却ケース。遥は採ってきた血液と皮膚スワブを並べ、基本的な染色をかける。顕微鏡の下で、常在菌とは違う、光沢のある鞘を持つ構造体が見えた。繊毛のような微細突起が、神経終末にからみつく図像が脳裏に浮かぶ。皮膚から侵入して、末梢で電位を上げる。これなら、神経伝達阻害で“鈍く”できるかもしれない。
遥は手帳に、急いで式を書いた。塩基性の鎮静、皮膚表層の親和性、冷却下で安定、投与から三十分のウィンドウ。仮説の解毒剤は、効く。おそらく。だが不安定で、体温に触れるとすぐに分解する。冷やした状態で皮膚に含浸させ、短時間に神経終末を覆ってやれば、波形は落ちるはず――波形。脳波。さっきのぴり、は波形の立ち上がりだったのだろうか。
「遥?」
背後のドアが軽く鳴って、低い声が呼んだ。振り向くより先に、胸の奥の何かが前に倒れそうになるのを、彼女は白衣の裾で支えた。加賀谷慎。三年の同居人。出張の多い映像屋。今日は塔にいるはずだ、とメッセージで知らせてくれていた。
彼はいつも通りの黒いカットソーに、オリーブ色のジャケット。カットソーの下に、白のタンクトップが細くのぞく。なぜだか、その白がやけに瑞々しく見えて、遥は息を整えた。彼の指が上がり、挨拶のための軽い握手を求める。
グローブの上から、遥は慎の手を取った。その瞬間、グローブが薄い絹に変わってしまったかのように、指先の感覚が濃くなった。触れている面が、境界ではなく、通路のように思えた。電気に似た刺激は、さっきの夫婦のそれよりも、ずっと、静かに深い。遠くの海の潮が、床を通して足裏に上がってくる。離した。一拍置いて、呼吸をする。
「まだ大丈夫だよ。熱もないし、かゆみも。ほら」
慎は笑って、自分の手の甲を見せた。皮膚は平らで、色も悪くない。遥は頷いて、しかし採血の準備をした。
「念のため。あなたのサンプルが必要。解毒剤の試作に、基準を取っておきたい」
「解毒剤?」
「仮説だけど。神経の入り口を一時的に凍らせる。体温に弱いから、低温で含浸させて、短時間で」
慎は素直に腕を差し出した。袖が上がり、肘の内側の静脈に薄青い線が浮く。カットソーの黒と、肌の色が、実験室の白の中に美しく並ぶ。遥は針を刺し、管に立つ赤を見ながら、さっきの夫婦の部屋の色の層を思い出した。白とピンクのストライプ、水色の地模様、桜色の笑い。塔の中の色は、どれも、少し湿っている。
「夜までに、初期版をやってみる。あなたに使う前に、パッチで自分の腕で試す」
「危なくない?」
「危なくないとは言えない。でも、時間がない」
標本管を冷却ケースに入れる。銀の蓋が落ちる音が、妙に甘く響いた。
彼女は彼との大学時代からの知り合い。そして、彼女の一番最初の人でもある。しかし今はそんなことにかまってられない。
塔の空気は夕方になるほど柔らかくなる。廊下のライトは段階的に落ち、住人の部屋の隙間から漏れる照明が、カーペットの縞に色を落とす。遥がラボから出た時、エレベーターホールで二人の少女がすれ違った。片方は制服姿で、純白のシャツが夕光で薄水に変わっている。もう片方はスポーツウェアで、レギンスの上からラベンダー色のショートパンツ。二人の肩が触れたか触れないか、境界の空気がきらんと鳴る。どちらも振り向かなかった。振り向かないのに、頬だけがわずかに赤い。
503号室の前を通ると、ドアが半分開いていた。老婦人が、薄いガウンの紐を結び直している。ガウンの下に覗くのは、淡いベージュと薄桃の刺繍。腰骨の位置に、細いリボン。老いた体は、透ける。夜が近いからだろうか、皮膚の奥の血管が水彩のように見え、骨も薄く形を主張する。老婦人は目だけで遥に会釈し、指先で空気を撫でた。撫でられたはずの空気が、遥の手の甲で微かに温かくなる。
「接触を、控えてください」
言葉は自動で口から出た。返事はこない。塔は、言葉よりも肌の言語を好むようになっている。
夜、塔備え付けの臨時ラボに戻ると、冷却ケースの蓋には霜が白く付いていた。遥は初期版の解毒剤を作り、パッチを左前腕に貼る。冷たさが皮膚から骨へ小さな音を立てて沈み、やがて何も感じなくなった――のに、皮膚の周りの空気にだけ、薄い刺激が残った。触れていないのに、触れられている錯覚。感覚の輪郭が、皮膚の外側へ広がっていく。
塔の床が、低く鳴った。誰かの足音ではない。建物の骨の音。廊下の照明が一段落ち、窓の向こうの都市が、ガラスを通して水槽の中のネオンのようにゆらいだ。遥はパッチを外し、冷却ケースに戻した。効果はある。感覚の波形は下がる。けれど、完全には消えない。皮膚の外に“皮膚”がもう一枚生成されたような、薄い膜の覚醒。
ドアが、ひとりでに開いた。慎が立っている。カットソーの黒に、さっきより深い影。目の下に薄い青。彼は笑って、言い訳めいた顔で肩をすくめる。
「廊下がうるさくてさ。人が歩く音はしないのに、息の音だけ大きい。変だろ?」
遥は頷いた。二人の距離は五十センチほど。安全な距離。だが、息を吸うと、相手の体温の色が肺に入ってくる。慎の喉元の白が、葡萄色のブラウスと補色で反発し合って、目にちかちかする。
「初期版、効きそう?」
「効く。たぶん。あなたに使うかは、明日判断する」
「明日まで、持つかな」
冗談の調子。けれど目の底に、熱の薄膜が見える。遥は視線をそらし、机上の器具を並べ替えた。ピンセット、スパチュラ、遮光瓶。器具の金属光沢が、何かを正しい順番に戻す。彼女は呼吸を整えて、言った。
「慎、しばらく、触れないで。……研究のためにも」
「わかった」
彼は素直に頷いて、片手を上げる。上げた手が、空気の中に薄い水輪を作り、その輪が遥の頬まで届く。冷たくも熱くもないのに、頬の内側が甘くなる。夜の塔は、触れていない触れ合いに満ちていた。壁紙の模様が呼吸し、カーペットの縞が脈打ち、各戸の扉が、心臓の鼓動と同じ速度でほんのわずか開閉する。
遥はパッチの貼った跡を見た。皮膚は白く、少し縁が赤い。そこに今も、空気の指先が触れている。解毒剤は効く。波形は下げられる。明日、慎に。そう決めるだけで、脳の彼方から、薄い反論が帰ってくる。「明日」という語の輪郭が、塔の空気の甘さでふやけて、指の間から零れそうになる。
廊下の遠くで、二人分の笑い声が重なった。若い、少し息の上がった声。エレベーターが開き、誰かの足首がカーペットを撫でる音。別の階からは、窓を開ける音。開けた窓の向こうは海風でなく、塔の内部の風で、塩の匂いはなく、柔軟剤と、蝋燭の芯の匂いと、見たことのない花の匂いが混じっている。
遥は冷却ケースに掌を当てた。蓋の上の霜が薄く曇り、葡萄色のブラウスの袖口が、霜の白の上で大人しく呼吸した。ここまで来て、いくつも選べる道があるように見えて、実際にはひとつしかないのかもしれない。塔の中の色は、みな、甘い方向へ傾いている。真っ直ぐ歩けば、その方向へ滑っていく。
「明日、必ず」
独り言は空気に溶け、冷却ケースの銀の肌に薄く吸い込まれた。塔の骨組みがまた低く鳴り、遠くの部屋のドアがゆっくり閉じる。触れず、触れ合いながら、この建物は夜を深くしていく。
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