第15話
銃というものを、実際に目にしたことはなかった。
けれども、その禍々しく黒光りする銃身を見れば、それが何であるかは、知識だけでも十分にわかった。人を殺すためだけにある道具。
或人は、そんなものでさえ、未来への祈りだと言うだろうか。
……言うだろう、という気がした。或人は技術の進歩によって人々が『魔』を祓うこともできるようになっていると言った。今はまだ自分の役目があるけど、というニュアンスで。だから彼は、人々が力を持つことを、決して否定しないのだろう。
たとえその火が人間すべてを焼く日が来ても、彼は、火を生み出したことそのものを、決して否定しないだろう。
けれども──けれども咲は或人ではなく、『神』というものを根本的には理解できていない、ただ或人を愛するだけの、ひとりの人間に過ぎなかった。
咲はそのとき、世界でいちばん愚かな人間だった。
恋をしているとき、人間は、人生で最も愚かになる。
咲はまさしく、今このとき、そういう人間だったのだ。
だから。
「……或人様……!」
咲は走った。男たちのうちの一人に無我夢中でとりすがり、「逃げてください」と大声で叫んだ。或人が人ではないことなど、頭の中から吹き飛んでいた。
男が舌打ちをして咲を振り払おうとし、咲は必死で男にしがみついた。男の手の拳銃が向く方向をどうにか或人から離そうと、己の方に引き寄せて──
そのとき、ぱん、と乾いた音が響いた。
痛みよりも先に熱さがあり、目の前の男の驚愕した顔で、彼が撃つつもりではなかったことがわかった。咲を振り払おうとし、引き金にかけていた指に力が入ってしまったのだろう。続く銃声がないことに、咲はほっと息を吐いた──きっと石動も来るだろうし、これ以上の被害は防げるだろう。そう思ってからやっと、そもそも或人が不老不死であることを思い出した。
「──咲ちゃん!!」
或人の声が遠く聞こえて、頽れた身体、腹部を中心にひどく痛む身体が何か、柔らかいものに抱き上げられるのを感じる。「馬鹿なことを」という声が聞こえて、本当にそうだ、と思わず笑ってしまった。本当にそうだ。或人は死なない。
「……ごめんなさい、或人様……」
「喋るな馬鹿、……応急処置はしてる、君は死なない」
「或人様、どうか」
身体を包む温かいものが、人知を超えた何かであることは何となくわかった。けれども、『死なない』が本当とは思えなかった。温められる端から失われていく体温、流れ落ちていく血が、咲の命そのものであることに間違いはなかった。
どうか。
「……幸せに」
意趣返しのつもりはなかったけれど、もしかしたら、結果的にそうなってしまったかもしれない。或人を傷つけるつもりはなかったのに、と、咲はほんの少しだけ後悔した。
咲は──咲はただ、或人が神であるとか、そういうことは、一つも意識にのぼらなくて。
咲はただ、或人が傷つくところを見たくなかった──彼が守る人々に傷つけられる彼を、ただ、見たくなかっただけなのだ。
* * *
撮ったか、と、男が喚いている声が聞こえた。
複数人による襲撃の目的が、その言葉でわかった。彼らは或人が『死なない』ことを、或人が人間ではないことを確認し、その証拠を最近出回りはじめた持ち運びできる写真機で写真に収め、或人を従わせるための材料としようとしたのだ。
咲が撃たれた瞬間、或人は咲に向かって駆けだして──或人に向けられる銃、あるいは或人を襲おうとする男、そういうものをすべて竜巻で弾き飛ばした、その様子は果たして認識できる精度で写真に残っただろうか。無理だろうな、と或人は冷静に思った。あるいはいつか、動きそのものを残しておける技術が生まれるかもしれないが、そうにでもならない限り或人の力を記録として残すことは不可能だろう。
それでも、男たちは一旦目的は果たしたと見たらしく、そのままこの場から逃げ去ろうとし──ほとんど陰陽寮と同義である朱雀院の館から飛び出してきた陰陽師たちに次々取り押さえられていく。その騒ぎのただなかで、或人は、腕の中で目を閉じた咲をただ呆然と見下ろしていた。
どうして。
最も望んでいなかった結末が、目の前にある。
ましてや咲は、或人を守ろうとその身を呈したのだった。人に守られる必要なんてない、人に守られたことが果たしてあったかどうかさえわからない、人ではない或人のことを。ばかなことを──という気持ちはすぐに、途方もない、どうしようもない、こらえきれない痛みになって或人を襲った。
ばかなことを。
「くそ、離せ! ……我々は、その男の力を暴きに来たのだ! 弾を弾き、人を飛ばし、得体の知れぬ物の怪を消し去るその力……人のものでは有りえない! ……神よ。なぜその力で我々を夷狄からお守りくださらなかったのかは聞きません、ただこれからその力を奮ってくだされば……!」
いつの間にか、或人も撃たれていたらしい。喚く男の声が遠くに聞こえ──或人は、静かに咲の身体を抱きしめた。
迷ったのは一瞬だった。
否、おそらく或人は迷わなかった。ただ呟いた。
「……ごめん」
これは或人の身勝手だ。
耐えられない、という思い一つが或人を突き動かし、或人はそっと、咲の唇に唇を寄せた。
『番』の契約、魂を受け渡すための儀式は、その重さに比べればあまりに単純だった。
唇から、『神』の気を、咲の身体に注ぎ込む。
咲の身体が淡い光に包まれ、腹部の傷が塞がっていく。冷たくなりかけていた四肢が温かさを取り戻し、細く苦しげだった息は安らかな寝息に変わり、白い頬は柔らかな赤みを帯びる。或人は咲を抱いて立ち上がり、石動他の陰陽師が取り押さえている男たちへと歩み寄った。
或人は、男たちを睥睨する。
「神、か。いかにも、僕は神だ。少なくともそう呼ばれるものではある。……それをわかっていてなぜ、僕を『脅せる』と、君たちがそう考えたのかは理解しがたいが……」
或人は穏やかに微笑んだ。
「……そんな君たちに、いいことを教えてあげよう」
それはいっそ『慈悲深い』と言っていい微笑みだった。
「僕の怒りは、決して君たちを焼くことはない──なぜなら、僕の力は、決して人を殺せないからだ」
それは、あるころより、神々が自らの地上における制約として課したもののひとつだった。神の力が人に及べば、人は神の力で人を焼こうとする。神は人を焼く必要はない──神が人を罰したいと思ったとき、神は人を焼かずともいい。ただ人を見捨てればいいだけだ。
その『人』には、当然、彼らが言う『夷狄』も含まれる。或人の力で国を守ることはできない──そもそもその必要はない──『国』の概念は人にのみあるものであり、根本的に、神は人を区別しない。
ゆえに、彼らの願いは、絶対に叶わない。或人はそうして微笑んだまま、静かに断罪の言葉を下ろした。
「そうであることに、感謝しろ」
それは怒りだった。
「でなければ──でなければ君たちは、今頃、その肉のひとかけらさえ、ここに残してはいないのだから」
その声だけで人を焼きそうな怒りを残し──そうして、或人は姿を消した。
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