灯火は遠くに
緤
第一章 路地裏の氷夜
雪が降っていた。
白いものが空から落ちてくる理由は、知らなかった。
痛くはないけれど、冷たい。だからたぶん――“よくないもの”だと思った。
ここにいる理由はわからなかった。
おかあさんも、おとうさんも、大きい声で何かを言っていた。
それで、気づいたら、ここにいた。
薄いシャツの中に入り込む風が冷たくて、身体が勝手に小さく震えた。
今までこんなに冷たかったことはなかったのに。
誰もいない。音もしない。
ただ、雪の落ちる音だけが、耳の奥でひっそり響いていた。
靴は履いていなかった。
足はじんじんしていて、手の感覚もだんだんなくなっていた。
でも、それが“まずいこと”かどうかも、わからなかった。
寒いというのは、こういうことだろうか。
死ぬというのは、こういうことだろうか。
少女は、小さく膝を抱えて、じっとしていた。
時間はなかった。
どれくらいそうしていたのかも、わからなかった。
音がした。
小さな、靴の音。コツ、コツ、コツ、と近づいてくる。
誰かが来る。
そのことを、身体は気づいていたのかもしれない。
でも、少女は動かなかった。
動けなかったわけではない。ただ、動く理由がなかった。
「……こんなとこで、なにしてんの?」
声がした。
知らない男の人の声だった。
足元にしゃがみ込んだその人は、笑っているような顔をしていた。
でも、その笑顔がなにを意味しているのか、少女にはわからなかった。
返事はしなかった。
返す言葉が見つからなかった。
「……寒くないの?」
手が、近づいてきた。
そのとき、胸の奥で何かが固くなった気がした。
のどの奥に、重たい石を詰められたような息苦しさ。
声が出そうになって、でも、出なかった。
近い。においがした。息がかかる。気持ち悪い。
やめて、と思った。けど、やめてとは言えなかった。
触れられる――そう思ったそのとき、
「おい!」
別の声がした。
背後から、大きくてはっきりとした声。
男の人は、はっとして立ち上がった。
誰かと何かを言い合っていたけど、少女には聞き取れなかった。頭の中がぼんやりしていて、よく聞こえなかった。
しばらくして、足音が遠ざかった。去っていったことだけは、わかった。
代わりに、違う人の足音が近づいてきた。
「……大丈夫?」
さっきとは違う声。もっとやさしい声だった。
でも、それが“やさしい”ということも、今の少女にはよくわからなかった。
「寒くない? ……すごく冷たい」
手のひらが、そっと触れた。冷たくなった少女の手を、両手で包んでくる。
あたたかい、と頭が思った。
でも、その温度をどう感じればいいのか、心は黙ったままだった。
「とりあえず……交番に行こう。ごめんね、勝手に触って」
少女は、その手を振り払わなかった。
怖くはなかった。でも、うれしくもなかった。
ただ、その人の声は、雪よりもやわらかかった。
交番の中は、静かで明るかった。
おまわりさんが何かをたくさん聞いてきたけど、少女は何も答えなかった。
名前、わからなかった。
歳も、わからなかった。
書かれた文字も読めなかった。
「名前も言わないし……言葉が出ないのか?」
「どこから来たの?」
「ご両親は?」
何度聞かれても、口は動かなかった。
そのうち、「病院に行こう」と言われた。
知らない車に乗って、白くて広いところに連れていかれた。
光がまぶしかった。体に触られるのは、こわかった。
でも、こわいって言葉は口にできなかった。そういうことを言っていいのかどうか、わからなかった。
夜が明ける前の、医師の一言。
「――深刻な愛着障害の可能性があります。反応が薄く、感情の表出もない。長期的なネグレクトの兆候です」
医師は静かにそう言った。
「でも……一時的にでも、誰かの温もりが必要です。今は特に」
病室の外、廊下でそう聞かされた悠真は、黙ってうなずいた。
「……じゃあ、俺が預かります」
「え?」
「しばらくでいいんです。……自分ができること、やってみたいんです」
夜が明けかけたころ。
病院の待合室には、もう人はいなかった。
悠真は、少女の方を見ていた。
なにか、考えている顔をしていた。
でも、その顔が“こわい”のか“やさしい”のか、少女にはやっぱりわからなかった。
「……名前、ないの?」
静かな声。前みたいにうるさくなくて、少しだけ心に入ってきた。
少女は、目を伏せた。
「……じゃあ、さ。勝手に決めていい?」
答えない少女に向かって、彼はぽつりとつぶやいた。
「君の目、……少しだけ緑がかってる気がする」
少女は、まばたきをした。
それが何かの合図になったのかもしれない。
「“翠”って、呼んでもいい?」
――翠。
その名前に、心がぴくりと反応した気がした。
意味はわからなかった。
でも、どこかでそれが「自分の名前」になるような気がして、少女は、ほんの少しだけ顔を上げた。
そのときから、
彼女は“翠”になった。
その夜、悠真の部屋――3LDKの一室に通された翠は、初めて見るベッドを前にして、黙って立ち尽くしていた。
悠真が「入っていいよ」と声をかけても、反応はない。
熱いお風呂に入ったあとも、きれいなタオルを渡されても、あたたかいご飯が並んでも。翠は何一つ、喜んだり、驚いたりしなかった。
それでも――
彼女の中で、何かが少しずつ動き出している。
それを、まだ誰も知らなかった。
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