第7話 病室の花
「なあ、奴は――いつもこんな感じなのか?」
レヴィは呆れ半分に、ジズへ尋ねてみる。ジズが医者のフリをするのは、『生気の回収』という実利のためだろうとまだ納得はできる。許せるかはさておき。
しかしベヘモットは、魔族でありながら人間相手に恋愛ゴッコをしている様子だ。
レヴィにはそれが信じがたい。自分も実際キスまでされているが……人間で例えるなら、家畜に化けて彼らと恋をしているようなものである。
「ははあ?……そうですねぇ?
議会では穏健派と評されていますが、享楽的なところは否めません」
ジズは立ち上がり、窓際へ寄ると――静かにコートを脱いだ。皺をつけぬよう……慣れた手つきで素早く畳み、ひじ掛けの上に置く。
「高級な美術品を買い漁っては、よく面倒な長電話をしてきますし?」
ソファへ座り直すと、長い指で電話を掛ける仕草をする。魔族達もそれなりに、人間の発明した道具を使いこなしているらしい。
「今日もお気に入りの彫刻の脚を眺めて一日優雅に過ごしたー、とか?」
「うっ……なるほど」
確かに、昨日はベヘモットに脚を執拗に撫でられた。思い出すだけで、背筋がむず痒くなる。魔族としては、特別変わった嗜好の個体なのかもしれない……。
「もーっ、二人して僕の悪口言う〜」
ベヘモットは面白くなさそうに肘をつき、口を尖らせた。まるで拗ねた子供のようだ。
「事実なのですが……」
ジズもわざとらしくため息をつく。
「私に毎回妙な通話しないで下さいよ、他に語る相手がいないからって」
孤独な魔族の姿が――ふと垣間見えた気がして、レヴィは複雑な気分になる。強大な力を持ちながら、美術品の感想を語る相手もいない。それは哀れなのか、当然の報いなのか。
だが――ベヘモットへ、軽口のターンが回ってきた。
「君も看護フェチについて僕に語るだろ?!
弱った人間が……ヤブの自分に縋ってきて可愛い〜♡
とかー!」
絶妙な声真似も添えつつ告発を続ける。
「薄幸そうな人間を憐れんで、
今日も一日優雅に過ごした〜……とかさぁー!」
レヴィはベヘモットの言葉を聞き、じわりとジズから距離を置いた。内心ドン引きである。
「ええ?!そりゃあ魔族として普通の感覚では……?
至極全うな話題かと思いますが……」
ジズも弾かれたように反論する。その声色には皮肉など一切なく、本気で虚を突かれたような驚きがあった。
「それに比べたらさぁ?!
僕の脚フェチくらい可愛いもんだよ、
ねっレヴィ」
「そう…なのか…???
うっ、なんだか私も麻痺してきそうだ……」
レヴィもソファの裏で、頭を抱えつつ呟く。
ここ数日魔族の異常な価値観を浴び続け、正常な感覚が狂い始めている気がする……。
「麻痺ですか、それはそれは……お気の毒に」
レヴィの反応を見たジズの声が、急に真面目な医者のような響きを帯びる。そして、まるで思い出話をするかのように、静かに語り始めた。
「私も……かつて診たことがあります。
酷い全身麻痺の患者でしたかねぇ。意識はあれど、終わりの見えぬ絶望に飲まれた人間が――目線だけで救いを求めてくるのです。
……見捨てることなど、できませんでした」
白いマスクが物憂げに俯く。
「他の医者が匙を投げていても、家族すら諦めていても。何か……せめて、してやれることはないのか?
肉体は無理でも心くらいは、どうにか救って差し上げたいと――ついそう思ってしまった」
神妙な態度。それは演技なのか、それとも魔族なりの本音なのか。レヴィには判断がつかなかった。
その佇まいが、まるで本物の終末医師のように見えてきて……困惑する。
しかし――
ベヘモットが水を差すように言った。ワイングラスを置き、真剣な表情を作る。
「勘違いしちゃだめだよレヴィ?」
金色の瞳が、警告するように細められた。
「……ジズのくれる救いは、未来のない救いだ」
重い言葉。レヴィは背筋に冷たいものを感じた。
ジズはその言葉を受け、むしろ嬉しそうに身を乗り出す。ペストマスクの下から、熱のこもった声が漏れ始めた。医者の仮面が剥がれ落ちる瞬間だった。
「考えてみて下さいよ」
両手を広げ、まるで演説でもするかのように。
「普通、活きの良い人間を狩ろうとすると――
これが非常に面倒で。逃げ回るわ抵抗するわ、なっかなか死んで下さらない」
黒い手袋が、空中で何かを掴み潰すような動きをする。その仕草があまりに生々しく、レヴィは息を呑んだ。
「こちらも生きるため、やむを得ず狩りをしているだけなんです……空腹でしたが、はぐれていた小さいの一匹で我慢してやったこともあります。
なのに、その後から――大きいのが群れでぞろぞろ湧いてきて!復讐だなんだと、恨み辛みの大喝采!」
ジズは苛立たしげに拳を震わせている。
「あげく『魔族が子供を誑かした!』などと――
子のお守りを怠った、ご自分達の過失は棚上げにしてぇ〜……!先に迫害してきたのはあちら様なのに!」
声に恨めしさが滲む。
「ですが!」
急に声のトーンが上がる。まるで、何か素晴らしい真理に辿り着いたかのような高揚。レヴィは思わず身を強張らせる。
「……病魔に侵され。
最期を自覚した人間というものは、恐ろしく脆弱で――可愛いものです」
可愛い、という言い方が……ぞっとするほど歪んでいる。レヴィの心臓が早鐘を打つ。
「己に残された短い余生……長い苦痛の合間に訪れる――ささやかな微睡みを、ただ夢見ている」
ペストマスクが天を仰ぐような角度になる。陶酔しているかのような仕草。
「そしてそれを永遠に齎してくれる死神に焦がれ……到来を切望し」
声が更に熱を帯びる。まるで、美しい詩を朗読しているかのように。
「振り上げられた鎌へ頭を垂れ、最期の力を振り絞り、まさに今引き取らんとする貴重な息を使い――」
一呼吸置いて、恍惚とした声で締めくくる。
「私へ礼すら述べるのです……!」
黒い手袋の手が、胸に当てられる。感動しているかのような仕草。
「謙虚で美しく、本当に――
……本当に、穏やかな顔をなさるのですよ。
ええ、まるでただ眠っているかのように。ホホホ……」
鳥のような不気味な笑い声が、応接間に響く。
レヴィは、その熱のこもった語り口に悪寒を覚えた。狩りの美学を、まるで芸術でも語るかのように熱弁する魔族。人間としての本能が警鐘を鳴らす。
だが同時に――抗いがたい誘いめいた「魅力」を、一瞬でも感じてしまった自分が恐ろしくなる。ジズの声には不思議な説得力があった。聞く者の倫理観をじわじわと侵してくるような、危うい響きが。
(これが……魔族の本質か)
レヴィは身震いする。美しい言葉で覆い隠された残酷な現実。苦痛から逃れるために――自ら魔族の贄となることを選ぶ……人間の存在。
ジズのやり方を見過ごすことはできない。だが、それとして……苦しむ患者の心理も、レヴィには想像できてしまったからだ。
すると――ベヘモットが軽やかな声音で割り込んでくる。まるで、レヴィを守るかのように。
「……怖がらせるなって言ったでしょ?
まあ、そのへんにしてね」
穏やかな口調だが、そこには確かな警告が含まれていた。
ジズは我に返ったように、慌ててマスクを下げると……謝罪のポーズをして見せる。
「ああ失敬、貴女はまだ眷属になって……日の浅い方ですしね」
眷属。その言葉に、レヴィは眉を顰める。いつの間に、そんな扱いになったのか。
ジズは続ける。医者が患者を診断するような、観察の視線。
「魔力は十分与えられていながら、魔族の嗜好には染まり切っておられぬご様子――
あまり生き急がれぬよう、ご自愛して頂かねば」
矛盾をはらんだ、妙に親切な忠告。
ベヘモットはレヴィへ向き直る。金色の瞳に、甘い光が宿っていた。
「ごめんねレヴィ〜?退屈だったね?」
まるでペットを甘やかすような口調。
「この鳥頭もうすぐ帰るから。
そしたら僕といっぱいえっちしようね」
しかし、根底の軽薄さは相変わらず。
レヴィはベヘモットを睨みつける。黒い瞳に、怒りの炎が燃え上がった。
「お、おい!客の前でなんて話を……!
してない!しない!絶対しないぞっ!
貴様とは!」
羞恥で頬が赤くなる。思わずベヘモットの首根っこを掴んで揺さぶろうとするが――
「あはは、なにそれレヴィ?くすぐったーい」
ベヘモットはノーダメージな様子。しっかりと首を据わらせたまま、レヴィからの絡みを楽しむようにきゃはきゃはと笑っている。
「おやおや、お邪魔でしたかねぇ」
ジズもわざとらしい口調で続ける。
「しかし――貴方も、退屈させると分かっていながら……レヴィ嬢を下がらせないのですね?」
ジズの指摘を受け――ぴたりと、ベヘモットの笑い声が止まった。少しバツが悪そうに頭を掻くと、視線を逸らす。その仕草が、妙に人間臭い。
ジズはレヴィへと向き直る。ペストマスクをわずかに傾け、同情を示すかのように。
「コココ……お可哀想に」
鳥のような笑い声。だがその響きには、確かに哀れみめいたものが混じっていた。
「一人の時間も、ろくに与えられていないようで」
黒い手袋の指が、膝の上で優雅に組まれる。
「……貴女もたまには、静かな微睡みが恋しくなるでしょうに」
何かを見透かしたような声音。レヴィは、その言葉に僅かに動揺した。確かにこの数日間、常にベヘモットの監視下にあった。一人の時間はおろか、プライバシーも無いに等しい。
ジズは続ける。声に、からかうような響きが混じる。
「……逃げられるのが怖いんですか?
常に目の届くところにいて欲しい――そんなところです?」
図星を突かれたのか、ベヘモットは慌てて言い返す。
「う……レヴィは可愛いから!目の保養になるだろ」
苦しい言い訳。しかし、すぐに開き直ったように続ける。
「僕の側にいれば、いつでも新鮮な魔力をあげられるし……」
おそらくキスのことを指しているのだろう。望んでいない一方的接触を、まるで必要なメンテナンスであるかのように語られ……レヴィはむすっと顔を背けた。
ジズは頷く。理解したような、しかし皮肉を込めた仕草で。
「そうですねぇ。殺風景な病室暮らしには、せめて……視界を慰めてくれる存在が欲しくなるものです」
ペストマスクが、レヴィの方を向く。
「それが身勝手に摘まれた、じき死にゆく儚い亡骸であっても……込められた感情は、新鮮で尊い」
ジズは足元の医療鞄を漁った。
「と、いうわけですので――
貴女にお土産がございますよ、レヴィ嬢」
薄い鞄から手品のように取り出されたのは……
小さな花束だった。
「今朝買ってきたばかりの生花です。
お部屋に如何です?」
目を引く――白い薔薇に、赤い百合。花びらは朝露を纏ったように瑞々しく輝いている。カスミソウやレザーファンが控えめに寄り添い、主役の美しさを静かに引き立てていた。
「えっ……はっ?」
ジズはレヴィの返事も待たず、彼女の手元へ花束を預けた。慌てて抱え上げるレヴィ。
ベヘモットも不思議そうに尋ねる。
「なにそれ?わざわざ擬態して花屋行ったの?」
「行きつけがあるのですよ」
黒い手袋で、マスクの嘴の部分を示しつつ――わざとらしい声音で続ける。
「人間の医者の間では、このマスクに芳しい花々を詰めるのが、最先端防疫技術でしてねぇ……
この擬態で行けば喜んで売って下さいます。太い客に見えるのでしょう」
ベヘモットは、感心した声を上げた。
「へぇ〜!そんな簡単なことで病気が防げるの?
みんなやったらいいのに」
しかしジズは肩を竦める。
「ん、んまあ、いい匂いはしますね。
別に病は退きませんが……」
ペストマスクが、意味ありげに傾く。
「患者の手前、避けられぬ死臭と――恐怖を、少々忘れることはできるかと?
悲しいかな、消毒液臭い医者よりは、花の匂いのする医者のほうが……患者様にもウケが良いので」
揶揄しているのは明白だった。
「ああ……でも、そういうの大事かな。人間って繊細そうだもん」
実情を聞き、苦笑いを浮かべるベヘモット。
(なんの変哲もない、普通の花だ……)
一方レヴィは、花束に目を奪われていた。甘く爽やかな生花の香りが、鼻腔をくすぐる。
五感には心地良いが、劇的な効能を持つわけでもない。ただの『何の魔力の込もっていない花』――……
脱出の役に立つわけでもない。観賞用の花だ。
しかし、魔族の棲家の中……外の世界との確かな繋がりを示すそれは、不思議と輝いて見えた。
「その……なんだ、
貰っていいなら貰うぞ。これ」
レヴィからすれば、ジズは誘拐犯のベヘモットと仲良く談笑している同じ穴のムジナである。魔族へ素直に礼を言う心境になどなれない。
しかし……罪のない花束を、当てつけとして廃棄するのも憚られた。
ジズは恭しく頭を下げる。
「いえいえ。お気に召したなら、毎日差し上げてもいいですよ」
そして、意味深な言葉を付け加える。
「どんなに手入れをしても……
いつか枯れてしまうものですので、ねぇ」
その言葉に含まれた暗喩を、レヴィは理解した。花も、人間も、いつかは枯れる。それを見届けるのが、この魔族の楽しみなのだろう。
「レヴィ?お花好きなの?
なら僕が買ってくるよ」
ベヘモットが急に張り切り始める。金色の瞳が、子供のように輝いた。
「リクエストくれれば――
ああ!いっそ温室ごと建てちゃおっか?」
大袈裟な思いつき。しかし、この魔族なら本当にやりかねない。
「そうすれば花瓶に生ける手間もないし。
そろそろ新しいインテリア……悩んでたんだよね。
いい機会かもー」
「待て、植物の世話は言うほど楽ではないぞ……?」
レヴィは眉をしかめた。一応、魔術師として薬草類の栽培経験もある。温室を建て、ただ放置しておけば良いという話でもない。
「水やりは使い魔に頼めばいいし。
どんな形にしよっかなー?レヴィにゃんが映えるやつがいいなー」
しかし、ベヘモットは気楽に考えている。そして妙な呼び方も相変わらず。レヴィは溜息を吞み込んだ。
ジズも便乗する。
「私も〜……
そろそろ自分の棲家をリフォームしたいんですが、
今のスッキリした景色も捨てがたいんですよねぇ」
ベヘモットが皮肉を込めて言った。
「君の家、まるで患者全滅した病院みたいだよね。
白くて物悲しくてスッキリしてる」
ジズは乾いた声音で笑う。
「ホホホ……あれがまたいいのに」
その笑い声に……皮肉に内包された、確かな寂しさが混ざっているような気がして――
レヴィは、花束を抱えつつ……複雑な表情を浮かべた。
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