第4話 仮面の怪鳥

レヴィが勝手にベヘモットの愛人にされてから、数日が経った。


といっても、魔族の棲家の中で過ごしており、時間感覚は定かではない。窓の外の景色はベヘモットの気まぐれで朝になったり夜になったり、季節すら曖昧に移り変わる。本物の太陽を見ていないせいか、体内時計も狂い始めている気がする。


応接間の豪華なソファに座らされ、レヴィは果物を渋々口に運んでいた。


林檎、葡萄、無花果――そして、名前も分からぬ、見慣れない異国の果物。どれも瑞々しく、齧れば自然な甘みが口の中に広がった。高級そうな品々だが、それがまた薄気味悪く感じられる。魔族の巣で供される食事など、普通なら毒を疑うところだ。


しかし、食べないという選択肢もない。


拒否すれば、ベヘモットが嬉々として口移しをしてくる。あの不快な行為を避けるためなら、自分の手で食べた方がまだマシだった。


レヴィは自分に言い聞かせる。いつか脱出するためだ。最低限の体力は維持しておかなければ。


なにより、食事のためという口実で、拘束術が緩んだのは大きかった。最低限、手足は動かせるようになったのだ。その場で立ち上がることもできる。


しかし、歩こうとすると…数歩で力が抜け、膝から崩れ落ちてしまう。そこまでの自由を許す気はないらしい。


「レヴィ?ちゃんと噛んで食べてる?」


ベヘモットが、向かいのソファから覗き込むように尋ねてくる。まるで飼い主が、新しく迎えたペットの様子を観察するように。金色の目は、レヴィの一挙一動を追っていた。


レヴィは軽く睨み返しながら、反射的に悪態をついてしまう。


「勝手に拉致しておいて、今更心配ごっこか?」


「拉致じゃないよー、保護ー」


ベヘモットはにこやかに訂正する。


「野良の魔術師が野垂れ死にしないよう、僕が面倒見てあげてるの」


「……野良ではない。ギルドと契約している。学会にも、定期的に調合品を納めて――…」


「へえ、でも最近はしてないでしょ?」


図星を突かれ、レヴィは口を噤む。確かに……先日魔族狩りの仕事はしたが、ギルドへの討伐報告は未完了だ。学会本部への顔出しもできていない。最悪、行方不明扱いになっているかもしれない。


しかしそれも……もとはといえば、ベヘモットに監禁され、ここから出られないせいなのである。


「そろそろ、解雇通知来るんじゃない?」


ベヘモットは、いけしゃあしゃあと続ける。


「そしたら晴れて野良魔術師かー。路頭に迷っちゃうね」


レヴィは無花果を噛み締めた。プチプチとした食感が、苛立ちを僅かに紛らわせる。


「貴様も……ずっとこの屋敷に居て、息が詰まらないのか?たまには、外の空気くらい吸いに行ったらどうだ」


レヴィは、うんざりしつつ尋ねる。ここ数日。ベヘモットはレヴィを監視するように、常に同じ部屋で過ごしている。必要な物は都度、使い魔らしき金色のコウモリ達へ指示し、籠や手押し車で運ばせていた。


おそらく、知能の低い低級魔族に……餌としての魔力を与え、使役しているのだろう。よく訓練されているものだ。


屋敷は、もっと使用人がいてもおかしくない広さだったが――レヴィの他に、人間らしき者の姿は見ていない。


「ん?お外なら、お庭があるし。別にいいよ」


「……あれはハリボテだろう?」


レヴィは、ベヘモットの意のままに塗り替えられる……不気味な景色を指して言う。あれは本物の空ではない。精巧に作られた、舞台のセットのようなもの。


「ハリボテでも、綺麗ならいいじゃん。常に自分の好きなものに囲まれてたいんだよ。

はぁ、落ち着く……」


ベヘモットは、部屋に並んだ彫刻をぐるりと視線で確かめた後。レヴィを見つめ、満足気に溜息をついた。


レヴィは自分が、まるでインテリア扱いされた気分になり……複雑な感情を覚えた。



すると――…突然、遠くで微かに笛のような音が聞こえる。静かな耳鳴りかと思うほど、小さな音。


それに気づいたのか、ベヘモットは立ち上がる。そして使い魔が持った籠から……いそいそと、何かを取り出し始めた。


「レヴィ?ちょっとお色直し」


嫌な予感がして見上げると、ベヘモットが黒い布地を持ち、穏やかに迫ってくる。


またかと思いながらも、広げられた服を見て……意外に思う。


シックな黒のワンピース。


襟元も袖も、きちんと布地で覆われている。レヴィなら自分では選ばない、愛らしい人形めいたデザイン――。少々背中が開いているのが気にはなったが、今着せられている踊り子の衣装に比べれば、明らかにマトモな服だった。


「お着替えして?」


有無を言わせぬ声音。レヴィは仕方なく立ち上がる。どうせ拒否しても、強制的に着替えさせられるだけだ。


ベヘモットへ背を向け、手早く身体を隠しながら、新しい服に着替えた。フリルやリボンがやや過剰に思えるが、生地は上質で肌触りは悪くない。裾は膝下まである。肌寒さは随分マシになった。


(しかし……何故急に、まともな服を?)


疑問を抱きながら振り返ると、ベヘモットが満足げに眺めてきた。


「うん、可愛い」


そして首を傾げる。


「でもなあ、うーん……」


煮え切らない反応。レヴィは一応尋ねる。


「なんだ?不満か?」


「悪くはないけど……ちょっと控えめだね」


ベヘモットの表情に、ぬるい不満が滲む。どうやら彼の好みとしては、踊り子の衣装の方がストライクだったらしい。顔に書いてある。


「今日は来客があるから。それ着といて」


「来客?」


「まあ、古い友達みたいなもの」


ベヘモットは肩を竦める。


「レヴィの話をしたら、一応見てみたいって言うからさ」


まるで、新しく迎えたペットを友人に自慢する……飼い主のような物言い。レヴィは顔を顰めたが、同時に興味も湧いた。外部との接触は、脱出の手がかりになるかもしれない。


「よく出入りする奴だから。レヴィにも、紹介だけはしといたほうが、後々面倒もないし」


ベヘモットがそう言い終えてしばらく。足音と気配が感じられ、扉がノックされる。使い魔が応接間の扉を開けた。


長身の人影が、ゆっくりと部屋に入ってくる。


……ペスト医師?


レヴィの第一印象は、それだった。白いペストマスクが顔全体を覆い、目元には赤いレンズが光っている。黒のシルクハットにロングコート、ベストに革手袋と、肌の露出部を全て包み隠すような服装だった。


過去、ペストの流行は幾度となく繰り返されてきた。中世の大流行ほどではないにせよ、根絶には程遠い。


今でも時折……集団感染が発生しては、辺境の村が一夜にして、廃村と化すこともある。黒死病の脅威は、未だ人々の生活に影を落とし続けているのだ。


市民から見ても……ああいった装いは最早、医者の一般的な職業着として定着しており。街中で、似たような格好の医師を見かけることは珍しくなかった。


国家認定医師。国命で防疫業務に従事する彼らには、政府からそれなりの特権も認められているのだという。レヴィもその点について、特に疑問はない。


「やあやあ、ご足労さまー」


ベヘモットが、医師に向けて親しげに声をかけた。気心の知れた友人を出迎えるかのように、わざとふざけた調子だった。


「いえいえ、言うほど脚は使いませんのでね。ホホホ……」


ペスト医師は肩を竦めた。その瞬間――


彼の背中から、巨大な翼が現れた。


白い羽毛に覆われた、猛禽類のような翼。一瞬だけ大きく広げられ、軽く伸びをするような動作をした後、器用に畳まれていく。


レヴィは確信した。魔族の古い友人とあらば、それ即ち魔族。あの翼。見るからに……人間ではない。


外の来客から……情報を探り。あわよくば脱出の糸口を掴めるか、と期待していたが。少し気落ちしてきた。魔族同士の馴れ合いを見せられるだけかもしれない。


ペスト医師はレヴィの姿を確認すると、赤いレンズを不思議そうに傾けた。


「おや、これはまた……品の良いお嬢さんですね」


声は意外にも穏やかで、丁寧な口調だった。しかし、その慇懃さがかえって不気味に感じられる。

レヴィは半歩後ずさり、身構えた。


「こちらが……?」


ベヘモットへ確認のアイコンタクト。正確には、ペストマスクのレンズが不気味に光った。


「そう。レヴィって言うの。可愛いでしょ」


ベヘモットの紹介は、まさに新しく飼い始めたペットを友人へ披露する……飼い主そのものだった。


ペスト医師は一歩前に出て、恭しく一礼した。


「それはそれは、ごきげんよう。

私……ジズと申します」


長い指を胸に当て、芝居がかった仕草で自己紹介を続ける。


「まあ、彼とは腐れ縁でして。たまに……茶飲み友達ゴッコなどをさせられている、憐れな者です」


「お前なー、僕のワインセラー何度荒らしたと思ってんだよ」


ベヘモットが即座に反論する。


「憐れなのは僕だよ、僕。コレクションを穴だらけにされた!」


友人の軽口に、ジズは愉快そうに笑った。ペストマスクの下から漏れる笑い声は、どこか鳥の鳴き声めいている。


「あれは……この御大層な結界のメンテナンスと、各種抜け道工事の手間賃ですよ。正当な報酬です」


レヴィの耳がぴくりと動く。

結界と、抜け道工事?


「それに、工務店へのお手当をケチると……ロクな事になりませんよ?」


ジズの声には、脅しとも冗談ともつかない、どこか不穏な響きがあった。

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