35輪.溢れないティーカップ
白いテーブルクロスが引かれた丸テーブルの上の皿からは湯気が上っている。
4人が囲むには小さいテーブルだが、1人用にしては少し大きいのだろう。
そして、皿の中の液体は深緑色であまり食欲をそそられない。
イブキはじっと皿を覗き込んで沈黙している。
「シチューを作ってみたんだけど、お口に合わなかったかしら?」
魔女が目を伏せてヘドロのような液体をすする。
耳を疑ったイブキは顔を上げて目の前の魔女を見た。
「シチュー!?これが!?」
「イブキ!」
思わず心の声が漏れ出たイブキをアムが叱る。
しかし魔女は気分を害する様子もなく、笑顔を浮かべている。
「えぇ、イモリとドクダミを煮込んだものに山羊のミルクを加えてみたんだけど。あと、隠し味も少々」
「おーぅ……」
「へぇ……」
「ハハハッ!」
自信満々に笑顔を浮かべる魔女。
口をぽかんと開けて顔を見合わせるアムとイブキ。
その対照的な様子を見たマルスが堪えきれないといった感じで笑い出した。
「1人だと料理も実験って感じで自由なのよ」
魔女は頬杖をついて深緑色のシチューをかき混ぜる。
マルスはスプーンを手に取って、眉ひとつ動かさずにシチューを口に運んでいる。
それを目にしたイブキは見た目に反しておいしいのかもしれないと思い、シチューを掬ってみる。
しかし、スプーンを持つイブキの右手にアムが静かに手を重ねたので、それを口に運ぶことはできなかった。
「花御子サマには刺激が強すぎるかもな」
「マルスの舌がおかしいの」
あっという間に皿を空にしたマルスに、アムが小声で反論した。
「やっぱり、あなたマルスよね。……無事戻って来れたのね」
魔女がティーポットに湯を注ぎ、茶葉の開きを促進させるため、円を描くように白磁を回す。
そして、名前を聞いて確信した魔女がマルスを見つめた。
「あぁ、時間がかかったけどな。……もう全てが変わって、取り返しがつかなくなってるが」
マルスは自嘲気味に鼻で笑い、首を横に振った。
イブキ達にとってはこの会話が何を意味するのかは理解できなかったが、かといって野暮に口を挟むことは躊躇われた。
「懐かしいわ、あの時からもう何年経つかしら。あの子にはもう会えた?」
立ち上がった魔女は3人に背を向けて、戸棚からティーカップを取り出している。
ティーカップはまだ皿の底が見えていない、アムとイブキの前にも平等に置かれた。
次は一体どんなものが提供されてしまうのだろうと、2人の視線はティーポットに釘付けになった。
「いや、これからだ。それよりも」
マルスが語気を強める。
アムとイブキの視線はマルスに注がれた。
ティーポットからも、各自のカップに琥珀色の液体がとうとうと注がれている。
「お前に人間を食べる趣味があったとは知らなかったな、エルファ」
「人間?嫌ね、何の冗談?」
魔女もとい、エルファが初めて“魔女”らしい険しい顔を浮かべた。
彼女の動揺を表すように、ティーポットが音を立ててテーブルに置かれる。
「街の連中がそう言ってたぞ」
「そう、あなたが人間を夜な夜なここに誘い込んでるって」
やっと本題に入れるとアムが2人の世界に割り込んでいく。
「呆れた。本当に失礼な連中ね!」
エルファが目を剥いて立ち上がった。
肩で息をするほど大分興奮しており、立った時に思い切りテーブルを叩いたので、その衝撃でティーカップが落下する。
イブキのティーカップも例外なく、彼女の膝めがけて傾いた。
「……?」
イブキは液体を受け止めようと手を出して構えていたが、不思議なことにティーカップは傾いたまま静止している。
あろうことか、中の液体さえ一滴たりとも溢れていない。
カップの淵ギリギリで、流体の運動が完全に止まっていた。
「……ごめんなさい、少し取り乱しちゃった。悪いけど、机の上に戻してくれる?」
深呼吸してエルファは席に着いた。
そして突然屈んだかと思えば、ヒビ一つ入っていないティーカップとティーポットを机の上に置いた。
イブキもそれに倣って、目の前の傾いたティーカップに恐る恐る触れて机の上に戻す。
すると、液体が大きく波打って白いテーブルクロスに染みを作った。
「フー……」
エルファは精神統一を図るため息を細長く吐き、肘をついて両手で顔を覆っている。
彼女から話を聞き出すには、まだもう少し時間がかかりそうだ。
目の前で起きた信じがたい出来事に、イブキは胸の奥がざわついて震えるようだった、
その不快感を落ち着かせようと、目の前のティーカップに手を伸ばし一口含む。
渋みのある温かい風味がイブキの体内を巡っていく。
――恐らく、さっきのはベゼの力。自分達のイデアには足元にも及ばないが、少し似ているかもしれないとイブキは思った。
ふと、イブキの脳裏にチェリディアの光景が浮かぶ。
エリカと対峙するアム。
そして発せられた、とある言葉。
『僕も、使えるんだ。花御子の“イデア”』
いつか、その言葉の真意をアムに聞かなくてはならない。
イブキは隣のアムを盗み見る。
すると、偶然にも二つの夜空もイブキを見ていた。
真っ暗な虹彩にイブキの姿が映っているのがはっきりと分かる。
もしかして考えを見透かされているのではと、イブキはギョッとした。
アムは薄ピンクの唇を内側に巻き込み、首を傾げる。
「それ、おいしい?」
「……」
ティーカップを指差して、小声で問いかけてくるアムに、イブキは目を伏せて小さく息を吐いた。
アムの間の抜けた雰囲気に、今すぐ問い詰める必要はないのかもしれないと、イブキはどこか安堵させられた。
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