掌編小説「糸繰りの人形」
マスターボヌール
前編
舞台の上で、マリは今日も踊っていた。
スポットライトが眩しく頬を焼く。観客席からは拍手と歓声が聞こえてくるが、その音はまるで遠い海の底から響いてくるようで、現実感がない。足は勝手に動き、腕は宙を舞い、表情筋は完璧な笑顔を作り上げる。
「美しい」「素晴らしい」「天才だ」
そんな言葉が飛び交う中、マリの心は空っぽだった。
楽屋に戻ると、メイクを落としながら鏡の中の自分を見つめる。そこに映るのは、疲れ切った二十五歳の女性の顔。華やかな舞台衣装を脱ぎ捨てると、まるで魂も一緒に脱ぎ捨てたような気分になった。
「マリちゃん、お疲れさま!今日も最高だったよ」
マネージャーの田中が満面の笑みで近づいてくる。彼の手には次の仕事の資料が握られていた。
「明日は朝九時からテレビ収録、午後は雑誌の撮影、夜は─」
「田中さん」マリは静かに口を開いた。「私って、人形みたいですね」
「何を言ってるんだい。君は最高のエンターテイナーじゃないか」
マリは苦笑いを浮かべた。最高のエンターテイナー。そう、彼女は完璧に操られる人形だった。事務所の意向通りに歌い、踊り、笑い、時には涙まで流す。感情さえもスケジュールに組み込まれた商品だった。
マリの本名は鈴木真理子。北海道の小さな町で生まれ育った彼女は、子供の頃から歌と踊りが好きだった。純粋にそれが楽しくて、心から愛していた。
十八歳の時、スカウトされて上京。最初は夢に向かって走っているつもりだった。しかし、いつの間にか走らされているだけの存在になっていた。
事務所の社長である黒木は、マリを「完璧な商品」だと評していた。美しく、才能があり、そして何より従順だった。彼女は文句を言わず、どんな無理難題でも笑顔で受け入れた。
「マリは本当にいい子だ。最近の若い子は我儘で困るが、彼女は違う」
黒木がそう語るのを、マリは廊下の向こうで聞いていた。いい子。従順。完璧な商品。彼女を表現する言葉はいつも同じだった。
しかし、マリ自身が何を望んでいるのか、誰も聞こうとはしなかった。いや、彼女自身でさえ、もうそれが分からなくなっていた。
ある雨の夜、マリは一人で街を歩いていた。
仕事を終えて、運転手付きの車で送られる途中、突然車を降りたくなったのだ。運転手は心配したが、マリは「一人で帰ります」とだけ言って、雨の中に消えていった。
歌舞伎町の雑踏の中を歩きながら、マリは自分がこの街の一部になったような気がした。ネオンサインが作り出す偽りの光、酔っぱらいたちの虚ろな笑い声、風俗店の客引きの甘い言葉。すべてが嘘っぱちで、すべてが彼女と同じだった。
コンビニで買った缶コーヒーを片手に、小さな公園のベンチに座る。誰もいない深夜の公園で、マリは初めて声を上げて泣いた。
「何やってんだろう、私...」
涙と一緒に、長い間押し殺してきた感情が溢れ出した。悔しさ、虚しさ、そして名前のつけられない絶望感。彼女は糸で操られる人形ではなく、血の通った一人の人間だった。痛みを感じ、悲しみを知り、そして何かを求めている存在だった。
翌日、マリは事務所に辞表を提出した。
「何を考えているんだ!」黒木は激怒した。「君がどれだけの金を稼いでいると思っているんだ。契約違反金だけでも数千万になるぞ」
「構いません」マリは静かに答えた。「お金なら働いて返します」
「働いてって、君に何ができる?芸能界以外で何の価値がある?」
その言葉は胸に刺さったが、マリは微笑んだ。
「それを見つけるのが、これからの私の仕事です」
契約違反金を返すため、マリはアルバイトを掛け持ちした。昼はカフェで働き、夜はコールセンターで電話を取る。時にはイベントの裏方としてステージを支える側に回ることもあった。
収入は芸能界時代の十分の一以下。住むところも高級マンションから古いアパートに移った。それでも、マリの心は少しずつ軽やかになっていった。
一年が過ぎた頃、マリは小さなライブハウスで歌うようになった。
客は多くて二十人程度。ギャラは交通費程度だったが、彼女にとってそれは最高の舞台だった。なぜなら、そこで歌う歌は、彼女が心から歌いたいと思った歌だったから。
「今日は聞いてくださって、ありがとうございました」
ステージから降りると、一人の中年男性が声をかけてきた。
「素晴らしい歌声でした。もしよろしければ、うちの店でも歌っていただけませんか」
彼は小さなジャズバーのマスターだった。そこから、マリの新しい人生が始まった。
五年後、マリは自分の音楽教室を開いていた。
昼間は子供たちに歌とダンスを教え、夜は数軒のライブハウスで歌う生活。決して裕福ではないが、充実していた。
ある日、教室に一人の少女がやってきた。歌手になりたいと言うその子の目は、かつてのマリと同じように輝いていた。
「歌手になるって、大変なことよ」マリは優しく語りかけた。「でも、一番大切なのは、自分が何を歌いたいかを忘れないこと」
少女は真剣にうなずいた。
「時々、操り人形になってしまうこともあるかもしれない。でも、糸を切る勇気があれば、きっと自分だけの歌を見つけられる」
窓の外では夕日が沈みかけていた。マリは小さく鼻歌を歌いながら、教室の片付けを始めた。
「るらりらら...」
それは、彼女が初めて作った歌だった。糸を切り、檻を出て、自分自身を生きると決めた日に生まれた歌。今でも時々、一人の時に口ずさむお気に入りの歌だった。
壊れた命で瓦礫の街を歩いた日々は過去のものとなり、今の彼女は自分の足で、自分の意志で歩いている。痛みは相変わらずあったが、それすらも自分のものだった。
底でくたばるより、痛みを感じながらでも這い上がる方がずっとマシだ。
マリは最後の椅子を片付けながら、心からそう思った。
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