怪談喫茶モルゲンレーテ
水森みどり
クロワッサンの怪談
吉祥寺と西荻窪のちょうど真ん中、住宅街の入り組んだ小さな路地の行き止まりにそのお店はひっそりとあった。
レンガの壁の小さな2階建て、人形が夢見るような可愛らしい小さなお家。
ドアを真ん中に、両脇には観音開きの窓があり、内側にかけられたレースのカーテン越しに暖かな白熱球の光が漏れていた。時折淡いピンクや紫の光が漏れている、という常連客もいたがそういう時マスターは決まって「やぁね、いつも同じ色だよ」とウインクをした。
真ん中についた茶色いドアの上には小さなブリキの傘をかぶった古い電灯のような明かりが一つついていて、ドアに下げられた『深夜喫茶モルゲンレーテ』の看板を照らしている。この小さな看板はマスターがステンシルのシートから作ったものだった。優雅な金文体を模した文字は「お洒落すぎて読みづらいよね」と常連客から愛されていた。ドアノブの周りにはリアルな髑髏のレリーフが彫られていて、はじめてこのドアを開こうとした者をぎょっとさせていた。
ここは深夜喫茶モルゲンレーテ。
怪談好きのマスターがいる、何処にでもある深夜喫茶。
第一話『クロワッサンの怪談』
大学生の奈央には付き合ったばかりの祐二という彼氏がいた。と言っても、奈央に一目惚れした祐二が約一ヶ月のうるさくて情けないアピールの末、「お試し期間」ということでなんとか手に入れた関係だった。
正直なところ、奈央には祐二を好きになる理由もきっかけもなかった。全然タイプの男性ではないし、カッコ良いところも、スマートなエスコートも、見たこともされたこともなかった。
お試し期間、で終わりにしたいな。奈央はなんとか終わるきっかけを探していた。
「ねえ、今夜空いてる?」
眠たい5限目の必修科目をなんとか終えた奈央のスマホに祐二からメッセージが届いた。
「空いてるけど」
「おもしろいところ、見つけたんだ。オレ一人じゃ怖いから一緒についてきてよ」
またこれだ。祐二のこういう、用件を先に言わずに相手の予定の空きを確認してから用件を言ってくるところが奈央は特に苦手だった。空いてると言った手前断りにくい。断る道を最初に絶ってくる卑怯者の手口、くらいに奈央は思っていた。
「なにそれ。一人で行くのが怖いなら、二人で行ったところで怖いのに変わりある?」
「あるよ! オレの気持ちが!」
一人で行けないくらい怖い場所に好きな女を連れて行く気がしれない、と奈央は内心思ったが言わなかった。どうせなら、うっかり惚れてしまうような素敵な場所に連れて行ってほしいものだ。
「……どこで待ち合わせ?」
「やった! とりあえず吉祥寺の公園口で! オレも今から家出るよ。奈央はまだ大学でしょ、たぶん同じくらいに着くはずだからさ」
今日を審判の夜にするか。
奈央はスマホをカバンに入れて、吉祥寺への道を歩き出した。
吉祥寺の駅で祐二と合流してから目的の店まで結構歩いた。
駅前の繁華街を抜け、ぽっと暗くなった住宅街の中。行き止まりの路地、一軒のレンガの壁の家で祐二は立ち止まった。
「ここ……かな……?」
「ここ本当に店なの? てか何の店なの」
「喫茶店だよ。深夜喫茶」
「深夜喫茶? なんでそんなところに」
「おもしろいマスターがいるんだって」
ドアに小さな看板がかかってるがいまいちなんて書いてあるか読めない。奈央はそのままドアの横にある観音開きの窓から中をのぞき込んでみる。レースのカーテン越しに暗い白熱球の光がぼんやりと漏れてくるだけでこちらもよく見えない。
「こんな住宅街で看板がかかってる家ならお店できっと間違いないでしょ。入ってみよ」
奈央はそう言いながらドアに近づき、ドアノブに手を伸ばす。
「あれ? ドアノブの周りに何か……うわっ」
短い悲鳴とともに奈央は伸ばした手をサッと引っ込めた。ドアノブの周りには精巧な髑髏のレリーフが彫られていたのだ。
「何ここ。きもちわる」
そう言って祐二の方を振り返ると、青褪める奈央とは反対に彼は頬を紅潮させ目を輝かせていた。
「ここだよ! 間違いない! お店のマスターが怪談好きで、ちょっとしたホラー要素が散りばめられてるんだって!」
本当だったんだぁー、と言いながら祐二は幼子のように、まるでウキウキという効果音をつけながらドアを開け、中には入っていった。
「……その情報、先に知りたかったんですけど」
住宅街の暗闇に一人残された奈央は口をへの字に曲げて一人文句を言いながら祐二の後を追った。
足を踏み入れた店内には誰もいなかった。
天井から吊るされた4つの白くて丸い照明は、ぼわんとやさしい白熱球の色で辺りを照らしていたがそもそもの光量が足りないようでどうにも暗い。影が多くを占める店内の六畳ほどのスペースにはおおきなL字のバーカウンターが真ん中で鎮座していた。バーカウンターは普通であればL字の外側に客席を置くのが一般的なはずなのに、この店ではなぜかドアに対して逆さまのLを描くように配置されていて、L字の内側になった客席は4席しかない。カウンターの向こう、左側の壁は一面お酒の棚で、奥側の壁は右奥と左奥にドアが一つずつ、ドアとドアの間には何やら大きな黒い絵が飾られていた。黒い絵は照明のせいか、それとも塗り重ねられてできた凹凸のせいか、時々赤や紫が混じっているようにも見える。振り返ると入り口の右手の隅にも小さなテーブルが置かれていて、低い椅子が二脚添えてあった。
ぽかんとどうしようもなく立ち尽くす二人の鼻先を、ほわん、とウイスキーの香りがかすめていく。店内に流れるピアノのジャズにはガラスを叩いているような不思議な余韻のある音が混じっていて、店ごとぱっくりと異世界に食べられて迷い込んでしまったような、そんな心地がした。
ガチャ。薄闇の何処かで不思議な音に紛れてドアノブが回る音がする。
ぎぃぃ。ゆっくり開いたのは左奥のドアだった。
「わあああ!!」
慌てた祐二が声を上げて奈央の手を掴んだ。どこか遠くに魂が引っ張られる感覚のあった奈央も我に返った。
ドアから出てきたのは縦にも横にも幅いっぱいのおさげの男だった。
鎖骨に届くぐらいの2本の三つ編み。真ん中で分けられた少し長めの前髪は左右でかわいいおばけのピンで留められている。白いワイシャツは肩周りから胸にかけてピチピチパツパツで弾け飛びそうで、その上に着た深緑のカマーベストの面積がなんだか少ないように感じられた。そして手にはアジがいっぱい入った大きな袋を持っている。
「あれ?! お客さん?」
見た目の迫力の割に随分高い声が出るなと奈央はぼんやり思った。
「ごめんね、気が付かなくて。まだ開店まで一時間あるから油断してたんだ」
と言いながらいかつい店員は二人に黒い絵の前のカウンターの椅子を勧めた。
「すみません、オレら初めて来るからなにもわからなくて」
「1時間後に出直しますね」
「いいのいいの! 新しいお客さんとっても嬉しい! とにかく座って。今お水出すから」
はい、と置かれた水の入ったガラスのコップは底が風船のように丸くなっており、ふらんふらんとあちらこちらに揺れながら、しかし溢れず、絶妙なバランスを保っていた。
「はじめまして、ボクの名前はキャロライン。ここ、深夜喫茶モルゲンレーテのマスターです」
店内の暗さを照らすように、マスターのキャロラインは笑顔で自己紹介をした。
「奈央です、はじめまして」
「祐二です。あの、キャロライン、さん? がマスターなんですか?」
釣られて自己紹介をする奈央を横目に、そわそわしている祐二が本題を切り出した。正直なところ、二人には聞きたいことがたくさんあった。
「そうだよ」
「あの、ここ、怪談が聞けるって聞いたんですけど」
「あはは。ボク、怪談好きでね。よく常連さんと怖い話するんだ。そのせいでご近所さんから、怪談喫茶モルゲンレーテ、とか呼ばれたりしててね」
その噂のことだと思う、とキャロラインは答えた。
「でも、窓際のテーブル席で紅茶を飲みながら静かに本を読みに来るお客さんとかもいるから、怪談に興味なくても、怖がりさんでも大歓迎だよ!」
そう言ってキャロラインはニコッと笑った。
奈央は不思議だな、と思った。暗い店内は変わらないはずなのに、キャロラインが笑うとなんだか周囲が明るくなったように感じる。
「むしろ、怪談に興味があるんです!」
キャロラインの笑顔に釣られたのか、祐二が満面の笑みで答える。怖がりのくせに何言ってるんだコイツ、と奈央は心の中で呟いた。キャロラインはおや? とびっくりした顔をした後、手元に視線を落としてメニューを二人に渡しながら
「あら、怪談に興味があるの? ボクの話す怪談に興味があるのかな? それとも怪談を語りたくてここに?」
と尋ねた。
祐二は受け取ったメニューを握りしめて、
「怪談を聞きたくて!」
と答える。奈央はそのまま受け取ったメニューを眺めた。『とれとれぴちぴち新鮮な怪異』とはなんだろう、『あわあわおばけ』はビールだろうか、じゃあ『樽のおばけ』はワイン? いやウイスキーか?
キャロラインからはほんのりウイスキーの香りがするような、と奈央は感じていた。さっきウイスキーの香りがほわんとしたのはキャロラインがドアの向こうで動いていたせいかもしれない、となんとなくそう思った。
「じゃあ、ワンドリンクずつ頼んでくれると嬉しいな。お酒を飲むなら今日のおつまみはアジのなめろうがあるよ」
「あたしは紅茶がいいです。ミルクとお砂糖たっぷり入れたやつってできます?」
「もちろん! 祐二くんは?」
「オレは……弱めのお酒がいいな。なんかあります?」
「じゃあキューバリブレとか、どう? お酒は少なめにするよ」
「じゃあそれで!」
はじめましてだからおつまみのミックスナッツ、サービスするよ。とキャロラインは小鉢を2個取るとナッツを入れて奈央と祐二の前に置き、そのままするりと出てきた扉を戻り、キッチンがあるというバックヤードに消えていった。
「なんかおもしろいマスターだね。怪談よりも普通にマスターの話聞きたいかも」
「オレはちょっと拍子抜け。あのマスターからほんとに怖い話聞けるのかな」
じゃあ帰りなよ、という言葉を奈央はナッツと一緒に飲み込んだ。
キッチンから戻ってきたキャロラインは奈央に温かい紅茶を差し出した。
「はい、奈央ちゃんのロイヤルミルクティー。お砂糖も置いておくから足りなかったら入れてね」
それからラム酒の瓶を取ると、あっという間にカクテルを作った。
「はい、祐二くんにはキューバリブレ。お酒少なめだよ」
「あざっす」
二人にドリンクを出したキャロラインは自分の座る椅子を用意して、あの黒い絵の前に座った。キャロラインの明るい笑顔と黒い不気味な絵が対照的でなんだかちぐはぐだった。
「二人とも、怪談を聞くのは初めて?」
「テレビとかで見るくらいです」
「あたしもそんな感じです」
「ふーん、そうなんだ。じゃあこんな怪談はどう?」
そうしてキャロラインは語り始めた。
「体調が悪いので仕事を辞めます」
その人は静かな声でそういうと、骨と皮しかないくらい細い腕で辞表を差し出した。
その人が辛そうなのはずっと見ていてみんな分かっていたけれど、その人にしかできない仕事があったりして、休んでいいよとはなかなか言えなかった。
そんな健気にがんばる姿を見ていたとある人が「私も一緒にやります」と業務分担を申し出た。みんなそれぞれいっぱいいっぱいなのを知っていたから、「じゃあ私も」「みんなでやれば負担も少ないだろうし」と手を挙げる人が多くなった。
その人は体調が悪いのをなんとか我慢してみんなに業務を教えた。一通り教えた、と区切りがついたのがつい昨日のこと。
社長もみんなもその人を引き留めなかった。ここまでがんばってくれて感謝していたし、ゆっくり休んでほしいと願っていた。
それから半年ほど経ったある日。
会社を辞めたその人が夕方のオフィスに現れた。
「体調が少し良くなったので、改めてお世話になったお礼を持ってきました」
と、焼きたての小さなクロワッサンを袋にいっぱい持ってきていた。
いまだに顔は青白かったけどしゃんと立っていたし、艶々のクロワッサンは見ているだけでそのサクサク具合がわかるようで、ああ、回復できたんだ、よかったなぁ、とみんなほっと息をついた。
その日の夜、オフィスで帰り支度をしながら貰ったクロワッサンをどうやって分けようか、とみんなで話していると、ぷるるる、と電話がなった。
「はい、もしもし」
それは、夕方クロワッサンを持ってきたはずの彼女が昨日の晩に亡くなったという知らせだった。
キャロラインの静かな声が途切れた。
カラン、とキューバリブレの氷が溶けて動いた。その音で二人は我に返った。
キャロラインの怪談は不思議だった。そんなに怖い話ではないのに、まるで後ろの黒い絵の中に入ってしまったキャロラインが、こちらに無念を込めて語りかけてくるようだった。
今の、語りを終えたキャロラインにはその面影は微塵もない。夢を見ていたのかもしれない。そんな感想だった。
キャロラインは奈央を見てニコッと微笑むと
「死んでもお礼に行かなきゃと思える仲間に出会えたことが素晴らしいと思う? でももっと早く仕事を辞めていれば今もまだ生きていたかもしれないんだよ? 人間はある程度わがままにでも生きなきゃ駄目だよ、ボクはそう思うよ」
と語った。
「また来てね」
キャロラインはお店の出入り口で二人を見送ってくれた。
吉祥寺駅までの帰り道を二人は夢見心地でぼんやりと歩いた。相変わらず街灯から街灯までの間が暗く、道には所々ぽっかりと闇が広がっている。
お店から離れるにつれ、道が明るさと人気を取り戻す。そこでようやく二人は深い溜息をついた。
「なんか、不思議な時間だったね」
「そうかも。怪談はそんなに怖くなかったけど、キャロラインさんの話してる時間がなんか不思議だった」
「後ろの絵と一体化してたよね」
「わかる、あれ怖かったよな」
すっかり日常の空気感を取り戻した二人は吉祥寺の駅で別れた。祐二は実家へ、奈央は友達とルームシェアをしているアパートへとそれぞれ帰路についた。
奈央がアパートのドアを開けると
「あ、おかえり奈央」
と同居人の葉月が出迎えてくれた。手には新しくこの辺りにできた人気のパン屋の袋を持っている。
「もー、外にドーバーイーツ届いてたよ。ちゃんと帰りの時間計算してよね」
「え?」
はい、と渡されるパン屋の袋。奈央に頼んだ覚えはない。夕食用にはコンビニでドリアを買って帰ってきていた。
「……頼んでないんだけど」
「え、でも私も頼んでないし」
配達間違えかなぁ、と呑気に言いながら葉月はテレビの音が漏れるダイニングへと戻っていく。
奈央はそっと袋の上から中のパンの輪郭をとらえてみた。手に残る三日月の形。奈央は思わず袋を離してしまった。
「……奈央?」
「あ、ううん、なんでもない。今行くよ」
袋の中に入っているのはたくさんのクロワッサンのようだった。
(これはただの配達間違え、ただの偶然)
そう自分に言い聞かせて自室に戻った奈央は、ベッドに放り投げたスマホに祐二からメッセージが入っていることに気がつく。
「なんか変なこと起きてない?」
そのメッセージに奈央はゾワッと鳥肌を立てた。もしかして祐二にもクロワッサンが届いているのではないだろうか。震える指でメッセージを打って、送信する。
「もしかしてクロワッサン届いた?」
「え、何、もしかして奈央のいたずら? 奈央でもそういうことするんだ。よかったぁ」
オレ、あの話のあとだからちょっと怖くてさ、びっくりしたよ、と言う祐二に奈央は本当のことを言うのを少し躊躇った。でも、食べてしまって何かあったらまずい、意を決して奈央は短くこう告げた。
「あたしじゃないし、あたしの家にもクロワッサン届いてた」
「うそだぁ。オレを怖がらせようとしてるんでしょ」
「本当だよ。ねぇ、クロワッサン食べないでね。あたしもこのまま捨てるから」
「え、わかった、ここまま捨てるよ」
それから奈央は少し悩んで、追加のメッセージを祐二に送った。
「明日、モルゲンレーテ行ってキャロラインさんに聞いてみたほうがいいんじゃない?」
「こんなこと、聞いてわかることなのかよ」
「怪談好きなんだからなんかわかるかもしれないじゃん」
「わかったよ、オレも行く」
そうして二人は次の日も吉祥寺駅で待ち合わせをして、モルゲンレーテへと向かった。
昨日よりも一時間遅く、昨日と同じ道を同じように進む。商店の明かりがなくなり、街灯が減り、ぽっと暗くなった住宅街の行き止まりに深夜喫茶モルゲンレーテは相変わらずあった。
「よかったぁ、お店までなくなってたらいよいよ狐に化かされてたのかと思わなくちゃいけないところだった」
祐二はため息とともにそう言ったが、それが決して大袈裟な表現ではないことを奈央は身を以て知っていた。
相変わらず不気味なレリーフの彫られたドアにそっと手を伸ばし、ゆっくり開いた。
「……こ、こんばんは」
「こんばんは、ようこそモルゲンレーテへ」
そこに居たのは左目を長い前髪で隠した、年齢のよくわからない男性だった。若く見えるが、中年と言われればそうかもしれないと思ってしまうような風体だった。袖口と襟元にレースがあしらわれた黒いブラウスを着て、あの黒い絵の前に立っている。まるで暗闇の中に白い顔だけが浮かんでいるようで不気味だった。バーカウンターに隠れて足元は見えないが、本当に足があるのか二人は不安になった。
「あの、キャロラインさんは……?」
「ああ、マスターは今」
その時、ガッチャーーンと昨夜キャロラインが出てきた左奥の扉の向こうから大きな物音がした。
「……少々お待ちください」
黒い男はすーっと滑るようにドアの前に移動し、ドアを開けて「キャロラインさん、大丈夫ですか?」と静かに声をかけた。すると奥から「大丈夫だよ! ちょっと手が滑っちゃった。怪我はしてないから心配しないで」という元気で明るいキャロラインの声が響いた。その声を聞いてようやく二人は深く呼吸をすることができた。
「という訳で、マスターは仕込み中ですので少々お待ちいただくか、よければ俺がお話お伺いします」
振り返った黒い男は、そう言うと二人に席を勧めた。二人はなんとなく黒い絵の前には座りたくなくて、昨日とは違う左側の酒の棚の方に座った。
「あなたは?」
「深夜喫茶モルゲンレーテの一介のアルバイト、石谷悠です。どうぞよろしく」
ほとんど動かないその表情に、奈央は昨夜のクロワッサンと同じくらいの寒気を覚えた。
ところが、奈央の予想を大きく裏切り、悠は丁寧に話を聞いてくれた。
「なるほど。ここでクロワッサンにまつわる怪談を聞いたあと、家に帰ったら出所不明のクロワッサンが届いていた、と」
「そうなんです」
「不思議なことがあるものですね」
「不思議というより不気味で。あたしたち怖くなっちゃって。ねえ、キャロラインさんの怪談って怪異を呼ぶんですか?」
こわごわ尋ねた奈央に、悠は顎に手を当てのんびりと「そうですねぇ」と言った。
「これはキャロラインさんの怪談に限った話ではなく、怪異の話は怪異を呼ぶ、という怪談好きの間では常識とされることですね」
常識、という言葉が出て奈央と祐二は呆気にとられた。これが、常識? こんなに不思議で不気味な世界が日常の近くに潜んでいるとは思ってもみなかったことだった。
「オレもう迂闊に怪談聞くのやめる」
「あたしも。いつか本当に死んでしまうくらい怖いことが起こるかもしれないのは無理」
そんな二人の言葉を聞いて、悠は薄く笑った。
「この世には怪異から逃れられない人たちもいます。モルゲンレーテはそんな人たちの憩いの場でもあるんです」
そう語る悠を見て、あれ? この人よく見るとイケメンだな、と奈央は余計なことを思う。よく見ると悠は、不気味さがスパイスになる、冷たい美人の顔をしている。
怪異を語る儚くて美しい姿に思わず二人が見惚れていると、ガチャ、っと左奥のドアが開き、キャロラインが現れた。
「おや? 昨日のお二人さん、また来てくれたんだね!」
嬉しいよ、と顔を綻ばせるキャロラインに祐二は元気よく
「はい、でももう来ません。怖いので」
と答えた。
「あら、二人とも悠に揶揄われたりした?」
「からかう……?」
粗方話を聞いたキャロラインは豪快に笑った後「やあねぇ」と言った。
「悠は小説家志望だったから、本当と嘘を混ぜ込んで一つにするのが上手いんだ。全部信じちゃ駄目だよ。まあ、一部のお客さんにはそんな悠の怪談がおもしろい、という人もいるんだけどね」
「じゃあ、あのクロワッサンは」
「海峡を越えてお届けします、のドーバーイーツがお届けしてくれる焼きたてクロワッサンって最近流行りだよね。近所の人が住所間違えたんじゃないかな。注文する人も多いだろうし、配達側が間違えた可能性もあるよね」
「本当にそうかなぁ?」
「そうかなぁ、と言いつつ、ちょっとホッとした顔してるよ」
ふふっ、と笑うキャロラインは奈央の方を向いてこう続けた。
「ボクの語る怪談に不思議な力はないよ。だから安心して、また聞きに来てね」
こうして、この一件は落着となった。
が、奈央と祐二の不思議体験はこれがはじまりだった。
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