再会の時

八雲 稔

再会の時

      1


 私は明るい病室で目覚めた。不思議な感覚。

 原子力発電所の爆発事故で大怪我をしたはず。それなのに、すっかり体が治っている。


 原子炉の暴走。自動冷却装置が作動せず、核分裂の連鎖反応が加速した。メルトダウンが起き、周辺地域を巻き込んで核汚染が広がった。

 その中心部にいた私は高温の放射性物質に晒され、意識を失った。

 搬送中に低温処理をされたのを覚えている。治療は無理だという会話も聞こえてきた。

 しかし、今の私は。

 少なくとも、生きている。

 何が起きたのだろうか。


『気分はどうですか?』

 優しい表情の看護師。でも、人間ではない。医療用アンドロイド。

 見たこともないタイプだ。顔に表情もあり、動作もスムーズでほとんど人間と変わらない。工場の組み立てラインで決められた作業を淡々とこなしている機械の眼球や腕とは違う。こんな高機能なアンドロイドが働いていたとは。しかも病院のような危機管理の大切な職場で。私はひどく驚いてしまった。

 私が戸惑っていると、彼女は黙ってモニターに表示されているバイタルの値をチェックしていた。部屋を出る前にもう一度、同じことを尋ねた。気分はどうかと。

 その時、ふと私の口から出た言葉は、事故のことでもなく、自分の体調のことでもなかった。

 ……夫は……

 去年結婚したばかり。夫は同じ職場で働いていた。事故の時にも同じ建物の中にいた。彼も事故の被害を受けたはず。私が重傷なら、おそらく彼も。

 ……私の夫も怪我を……

 アンドロイドは立ち止まって私の方を振り向いたが、返事をしなかった。彼女は私が結婚していることを知らないのだろうか。あるいは彼は別の病院に搬送されたので、ここでは状況が把握できないのだろうか。

 最悪のことも考えておかなければ。死んだという可能性。あれほどの事故なのだ。多くの死者が出たはず。周囲の住人も含めて。

 まだ、現場は混乱しているのだろう。

 それにしても、どうして私の傷はすっかり治っているのだろうか。全身に重度の火傷を負ったのだ。皮膚は剥げ落ち、呼吸器にも障害があった。

 それに、大量の放射能も浴びた。

 私の頭の中にはっきりと残っている声。治療は無理だ、と。もう助からない、と。

 それは何度も聞こえた。誰が言ったのだろう。職場の同僚。搬送中に救急隊員。それとも病院の医師が。記憶が混乱していて、明確なことを思い出せない。

 医療用アンドロイドは何も言わずに私を見つめている。

 窓の外は、不思議なほど明るい。

 あの時は、発電所の上空に真っ黒い煙が立ち上っていた。爆発による灰の飛散。昼間なのに薄暗かった。

 もう煙は消えたのだろうか。風で遠くへ運ばれていったのだろうか。でも、それは核汚染が拡大したことを意味している。国全体へと。地球全体へと。

 どうしてあんなことが起きたのだろう。統合コンソールに表示されている炉心の状態表示は明らかに異常だった。コンピューターも次々に異常値を検知し、アラームが鳴りっぱなしだった。止めても止めても、別のパラメーターが閾値を超えて、再び警告メッセージが表示される。

 何が原因なのか分からない。まるで墜落し始めた飛行機のように、あらゆる計器が理解不可能な値を示していた。

 あれは本当に原子炉の異常だったのだろうか。それとも、単なるセンサーの故障。コンピュータープログラムの何らかのバグだったのかもしれない。

 しかし、炉の崩壊は始まった。

 状況が把握できないまま、一人一人が何とかしようとして。緊急プログラムを強制停止しようとしたり、管理ソフトウェアを再起動しようとしたり。むしろ、あの混乱が状況を悪化させたのでは。あの混乱そのものが、原子炉の暴走の原因だったのでは。

 私が窓の外を見ながらぼんやりとしていると、アンドロイドは出て行ってしまった。


 しばらくして、病室に医師が入ってきた。

 神経質そうな男性だった。もう五十を超えているのだろう。頭は真っ白だ。

 さっきのアンドロイドと同じように、医療機器に表示されている値をチェックしている。私という肉体が目の前にあるのに、機械の方を信用しているようだ。あの時の私が、炉心の近くの制御ルームにいるのに、コンソールに表示されている数値ばかりを見ていたのと同じかもしれない。

 医師は私の体調を尋ねようとはしなかった。バイタルの表示が正常なのだから、私の気分もいいに違いないと思い込んでいる。患者を人間だとは思わない医師は多い。きっとこの男もそうなのだろう。

「蘇生処置は正常だね」

 彼は乱暴な口調でそう宣言した。

 どうして、そんな口の利き方をするのだろう。彼にとって、私という肉体は、調整中の車のエンジンか何かのようにしか見えないのだろうか。

 怒りがこみ上げてくるのと同時に、一つの疑問が。蘇生処理ってどういう意味?

「何があったんですか?」

 混乱した私は、漠然とした質問をした。しかし、医師は私の言葉には何の興味も示そうとせず、

「へ? 二百年前のことを俺に聞くなよ」

 二百年前……。

 どういうことなのだろう。意味が理解できないまま、その無機質な数字は頭の中を浮遊し続けた。そして、その無機質な記号は、〝蘇生処理〟という言葉と結びついた。

 まだ頭がぼんやりとしていたが、それでもある程度のことを想像できた。

 私は事故にあって大怪我をした。でも、それはもう二百年前のこと。私の肉体は何らかの方法で保存されていて、そして今になって、治療や蘇生処置が行われたのだ。

 そんなことを考えながらも、私の精神状態は安定していた。まだ、どれほど大変なことが起きたのか実感できていなかったのだろう。事が大きすぎて、自分の身に降りかかっている事態だとは思えなかったのかもしれない。

 長い時間が過ぎたということより、医師の冷たい口調の方が、私にとっては辛かった。知りたいことはたくさんある。事故の後、何が起きたのか。なぜ今になって蘇生が行われたのか。

 でも、私はそれ以上尋ねなかった。この医師とは話をしたくない。話したところで、何も教えてくれないのだろうから。


 夕方、また例のアンドロイドが来てくれた。

 機械の状態を確認している彼女に、私は言った。

 ……あのね……えっと、気分はいいよ……おかげさまで……

 ……ちょっと尋ねたいことがあるんだけど……もし、今時間があれば……聞かせてほしいことが……

 彼女は私の方へ視線を向けると、にっこり笑った。その頬や口元の筋肉を見ている限り、人だとしか思えない。そして、彼女にも心があるとしか。むしろ、間違いなく人間であるはずのあの医師の方が、本当に自意識というものが存在しているのかどうか疑いたくなる。

 他の患者さんを見てきてからでもいいか、と彼女は応えた。

 もちろん、と私はうなずいた。ええ、大丈夫です。急いでいるわけではないので。

 五分ほどすると、食事が運ばれてきた。

 まだ外は明るいが、もう夕食の時間らしい。さっき彼女は、食事前の患者の体調を確認していたのだ。おそらくそういう決まりなのだろう。症状に応じて違う食べ物をそれぞれ配る必要もあり、丁度今は、看護師たちにとって忙しい時間帯のようだ。私は一番悪いタイミングで彼女に声をかけてしまったことを後悔した。

 ベッドサイドテーブルの食事を見ながら、上半身を起こそうとした時、私は一つ重要なことに気付いた。両足が動かないのだ。足の筋肉に全く力が入らない。神経に異常があるのかもしれない。手で膝や足首に触れてみたが、感覚もなかった。

 全身が治ったと思ったのは早合点だったようだ。まだ、私の体には異常が残っているのだろう。足以外にも何か障害があるのかもしれない。

 それでも何とか上半身を真っ直ぐにして、テーブルに置かれた食べ物に手が届く姿勢まで起き上がり、与えられたゼリー状の食べ物をスプーンですくって口に運ぶ。見た目は赤や黄色や緑色に着色されていて、まるでお菓子のようだったが、口に入れてみると、それらは甘くもなく辛くもなかった。舌の感覚はあったから、きっと味覚が麻痺しているせいではない。

 派手な色が付いていても味のない食事。

 おそらく、必須アミノ酸だの炭水化物だのビタミンだのミネラルだのを必要分量ずつ配合すると、こういう状態になるのだろう。これが今の私の体に必要なもの。そう思いながら、柔らかいかたまりを口の中に放り込んだ。

 まるで時計で計っていたかのようにちょうど一時間して、彼女がまた部屋に入ってきた。彼女はベッドの横の椅子に腰掛けながら、尋ねた。

『食事は済みましたか?』

 ……ええ……

 もし、美味しかったですか、と問われたら、不思議な食べ物のことをいろいろ尋ねたり不満を言ったりしようと思ったが、それ以上彼女は言わなかった。アンドロイドの彼女にも味の感覚神経があり、あのカラフルな物質に味が付いていないことは知っているのだろう。

 ……教えてほしいことがあるんです……

 私は何から尋ねればよいのか迷っていた。聞きたいことは数え切れないほどある。私はどういう経緯で蘇生されたのか。どうして私の両足はまだ動かないのか。そして、夫はどうなったのか。

 私が戸惑っていることは彼女にも分かったようだ。彼女が先に質問してくれた。

『事故の時のことをどこまで覚えていますか?』

 ……炉の温度が異常値を示していて……待避指示が出たんですけど、もう間に合わないと思って……

 ……制御室の外に出て、建屋の状態を確認しようとした時……強い光というか熱線というか……その後、爆風が……巨大なコンクリートの塊とか、絡み合った鉄筋とかが、たくさん飛んできたのは記憶に残っているけど……

『あなたは建物の下敷きになった状態で発見されました。吹き飛ばされた時に手足の骨折と脊椎を損傷したのでしょう。でも一番重かったのは、全身の皮膚が失われたことです。生命の維持が難しい状態でした』

 ……それで、私はどうなったんですか……

『治療できないと判断され、冷凍処置が行われました。あなたの場合、頭部に損傷がなかったのです。脳は正常だった。だから、即時に保存プロセスが実行されました』

 ……それで、そのまま放置されていたんですか……

『何度か処置を試みたようですが、あなたの体には火傷以外にも問題がありました。事故時に大量の放射線を浴びたようで、全身の細胞の遺伝子に異常が発生していました。そのせいで、治療が難しかったのでしょう』

 ……だから、そのまま冷凍保存されていたということですか……

『そうですね』

 ……二百年も……

『正確に言うと二百三十年です。あの事故が起きてから二百三十年が過ぎています。今回は、最新の医療用マイクロマシンの技術を使って、あなたの体を再生しました。細胞を分子レベルで内部から修復したので、ほぼ回復していますが、それでもまだ完全ではないです』

 ……足が動かない……両足が……

『はい。脊髄の損傷によるものです。脳と足の神経が接続できていないのです。でもそれは、これから治療すれば少しずつ治ると思います』

 しばらくは車椅子での生活になると彼女は言った。

『それより、体内の細胞の放射能による影響の方が重大かもしれません。ガン化したものはほとんど処置しましたが、それでも、遺伝子の異常が残っています。おそらく今後、幾つかの障害が出るのではないでしょうか。詳細は医師が検査後に説明してくれると思います』

 彼女は丁寧に説明してくれた。

 私は彼女を看護師だと思っていたが、違うらしい。私の介護のために派遣されたスタッフで、退院後も長期的に私と一緒に暮らすことになると。

 私がこれから生活していくためには、いろいろな支援が必要だから。それは体のことだけではなく。

 二百三十年という年月の長さを、私は理解しなければならない。

 フルールという名前だと彼女は言った。出来る限りのことをしますので、よろしくお願いします、と言って頭を下げた。


 翌朝、体細胞の検査結果を携えた医師が病室に入ってきた。相変わらずの冷たい態度だった。しかし、違和感を持つのは私が古い人間だからなのかもしれない。これが現代の一般的な人の接し方なのかも。

 私はあえて話しかけてみた。

 ……おはようございます……治療、ありがとうございます……あのう、私の足は動くようになりますか……自分で立って歩けるようになりますか……

「神経が切れてるからね。バイパス手術をすれば。まあ、歩けなくても大丈夫ですよ。それより……」

 返事はしてくれたものの、医師の話し方はやはり乱暴だった。歩けないことなど、どうでもいいと。そういうものなのだろうか。

「細胞の検査結果は最悪ですよ。遺伝子の破壊がひどいですね。これなら、再生しない方がよかったかな」

 ……どういうことですか……

「これじゃあ、マイクロマシンを投与しても、体を維持できない。生きても、四、五年というところかな。コストをかけて蘇生をしたけど、無駄だったかな」

 この言葉はさすがにひどいと感じずにはいられなかった。

 私を人口冬眠から覚醒させたことが無駄だったと。あのまま、死んでしまえばよかったと。私本人を目の前にして言う言葉だろうか。

 私はふと思い出した。今この世の中では戦争をしている。昨夜、フルールが教えてくれた。この国は戦争中なのだ。国内の治安も悪く、暴動が起きている地域が多数ある。そういう状況だから、人々は心の余裕がないのだろう。この医師自身、精神的に参っているのかもしれない。だから、患者に対して無愛想な態度を取るのかも。

 これもまた、受け入れなければならない現実の一つなのだ、と私は思った。どれほど不満に思っても、過去に戻ることなどできないのだから。

 ……蘇生させない患者もいるんですか……もう治療を諦めてしまって……

「もちろん。蘇生させないケースの方がはるかに多い」

 ……それは治療できないから……

「いや、そんなことは関係ない。治療できても、基本的には蘇生処置は行わない」

 ……どうして?……

「無駄だからですよ。意味がないでしょう。冬眠状態の人間を覚醒させるだけでも大変なのに、わざわざ治療までして。それで、結局はあなたみたいに、どうせ数年しか生きないとか。それだったら、死んだままの方がいいでしょう」

 医師は蔑むような目つきで私を見た。私のことが気に入らないのだろう。

「莫大なコストをかけて何年か生きたって、そんな人生に意味がないでしょう。あなたは知らないかもしれないけど、もう医療は進歩していてね。二百年前とは違うんだよ。医療用のマイクロマシンと遺伝子改変技術で、人間はほぼ永遠に生きられる。基本的にね、寿命がない。そんな時代にね、たかだか二年や三年生きたって仕方ない。昔の人は、人間の遺伝子そのままですよね。自然界の遺伝子のままで生まれた、そんな原始的な人間なんて、もうこの世の中には要らない」

 永遠に生きられるということがどういうことなのか、私には理解できなかった。もし、それが文字通りの意味だとしても、だからと言って、二、三年しか生きない人間に価値がないというのは随分ひどい考え方だと思う。

 ……もう蘇生させないと決めた人たちはどうなるんですか……いつまでも冷凍されたままなんですか……

 私は少し食い下がるような口調で尋ねた。

「いや、たくさんいるんだよ。無闇に未来に期待して、とりあえず冷凍保存してある人間がね。維持するのも大変。それで、政府の方針で、今整理している最中なんだよ。蘇生する意味のある者、ない者。保存する価値がある者、ない者」

 ……蘇生させるわけでもなく、保存する価値もない人間は、どうするんですか……

「処分します。捨てます。エネルギーの無駄なんで」

 全身に冷たいものが突き抜けるのを感じた。

 処分……。

 保存されている肉体を整理する。要らない人間は処分して捨てる。

 私は間違って蘇生された。だから、本来なら処分されるべき人間。

 どうも、この世界は残酷らしい。戦争中だから仕方ないのだろうか。この国は、現在の問題に対処するだけで精一杯なのだろう。過去の負の資産を背負う余力などないのかもしれない。

 

 その日の夕方、フルールがまた病室に来てくれた。

 彼女の話では明日の朝には、私は退院できるのだと。私は驚いて、もう? と聞き返してしまった。

『ええ。大丈夫ですよ。病院の外に出ても、血液中に投与されたマイクロマシンで体の管理は続きます。もう病院にいる必要はありません』

 しかし、私にはここを出ても行く場所などない。もう、二百三十年もたっている。私のアパートが残っているわけがない。

 彼女はすぐに私の不安を察した。

『大丈夫ですよ。心配しないでください。住む場所などは用意していますし、しばらくは私が一緒にいますから。生活のことは気にしないでください』

 その言葉通りだった。病院を出る手続きから、移動や住居の手配まで全てフルールがやってくれた。

 翌日の朝、私は車椅子に乗って、病院を出た。

 車椅子と言っても小型モーターが付いていて、人が歩くよりはずっと速く移動することができた。両側にそれぞれ独立した大小四つの車輪が付いていて、それらが全て駆動系につながっているので、段差を乗り越えたり、階段を上ったりも簡単にできた。

『基本的に人間が歩けるところなら、どこでも行けます。少し無理すれば山登りとかもできます。まあ、街で暮らすなら困ることはありませんよ』

 フルに充電しておけばバッテリーだけで、二十四時間は走り回れるのだと。車椅子のままタクシーに乗ることもできるので、長距離移動することもできると。

 両足が動かないことに対して、そんなことはどうでもいいと医者は言ったが、それはこういうことだったのかと思った。

 フルールは街の中を案内してくれた。

 首が痛くなるほど見上げても最上階が見えないほど高いビルが、無数に建ち並んでいる。そうかと思えば、ビルが少しもない区域もあった。奇妙なことに、そこはほとんど空き地で、建築工事をしているのはほんの一部だけだ。

『ここは攻撃されたんですよ。最近、爆破されたエリアで、やっと再建が始まったんです。こういう場所が、街の中に幾つかあります。作っても作っても壊されるんです。だから、今は街の主要機能を地下へ移動させようとしています。街全体をシェルター化しようとしているんです』

 すり鉢状に凹んでいる場所も。直径は百メートル以上あった。中には瓦礫や湾曲した鉄骨が散乱している。生々しい爆破の痕跡。建築用の重機が何台も這い回って、撤去作業を進めていた。

 しかも、さっきまでいた病院から、それほど離れていない。

 ……もしかして、ここは危険なの?……いつ、敵に攻撃されるか、分からないとか?……

『そうですね。安全とは言えません。でも、そういう意味では、今は世界中どこも危険ですから』

 世界中が危険なのだから、それと同じぐらいの危険度であれば気にする必要はない、というフルールの表現は妙に納得できた。

 二百年以上も前、私が働いていた時代にも全く同じことが言われていたから。

 当時、原子炉は危険だと考えられていた。いつか大事故を起こすだろうと。いや、すでに何度も事故が発生していた。だから、大事故が起きるのはもはや可能性の問題ではなく時間の問題だった。

 それでも、人々は原子力利用を止めなかった。反対運動が高まるのは、事故の直後だけ。時間が経てば、悲惨な記憶は薄れ、むしろ豊かな電力供給を求め始める。

 よく言われた。放射能は危険だと。確実にガンの発生率を上げていると。でも交通事故にあって死ぬ危険性よりは低いと。

 そうであれば、と多くの人が安堵した。道を歩いているのと同じぐらいの危険なら、と大衆は受け入れた。

 日常生活の危険性よりも低ければ、たとえそれがどれほど確実なリスクであっても、気にする必要はないのだと。気にする意味がないのだと。そして、それはもはや危険ではなく、〝安全〟なのだと。

 フルールの言っていることも、同じ考え方なのかもしれない。戦闘状態が世界に広がってしまえば、誰もがそれを平和と感じ始める。だから、壊れかけた街に住んでいても平気なのだろう。

 私たちはリニア鉄道に乗り込んで、新しい居住区へと向かった。


     2


 退院してから二週間が過ぎた。

 フルールが日常生活を支援してくれるので、何も不自由はなかった。

 しかし、生活の内容は大きく変わった。二百年以上が経っているのだから、当然なのだが。

 食べ物はほとんど合成食品。肉や野菜を手に入れて料理をすることはできなかった。手に入ったとしても、人工合成肉や人工合成野菜だった。それは趣味で料理を楽しむために販売されているもので、極めて高価の商品。健康のために新鮮な野菜を食べようなどという考え方はもはや無いらしい。

 スープやパン以外は名前も分からないような料理ばかりだったが、中華風だとかドイツ風だとか書いたパッケージの商品を買ってきてくれた。フルールの説明も、そこに含まれている栄養素の比率のことばかりで、それのどこが中華風なのかということは話してくれない。彼女自身も理解していないのだろう。そもそもそういう情報がないのかもしれない。

 ただ、栄養素に関するフルールの説明にも少なからず驚いた。タンパク質や炭水化物と言った人間に必要な物質以外にも、私の知らない名前の成分がたくさん含まれていた。そして、その多くが発ガン性物質だった。

『そもそも、空気が放射能で汚染されていますからね。もう人々はあまり気にしていません。それに、ガンになったらマイクロマシンで治療すればいいんですよ』

 ……でも、完全に治療できるわけじゃないんでしょう……もし、治らなかったら……

 不安になって問いかけると、フルールは黙ってしまった。私もそれ以上彼女を問い詰めようとはしなかった。


 私は日常のほとんどをフルールに頼っていた。何もしなくても、衣食住に困ることはなかった。

 一日中暇な私は、部屋に設置されている端末からネットにアクセスして、少しでも現在のことを調べようとした。

 でも、最初に興味を持った記事は、今この国がどこと戦っているのかとか、遺伝子操作によって寿命がどこまで延びたのかとか、そういった現代の話題ではなく、過去の出来事だった。二百三十年前の事故。

 あの原子炉の爆発は事故ではなく、テロだったのだという記事が多く見つかった。

 制御室のコントロールプログラムが改ざんされ、現実には起きていない原子炉の異常を表示するように仕組まれていたのだと。その結果、関連プログラムの誤作動と、人為的なミスが続き、最終的には原子炉の融解という状況にまで至ったのだと。制御システムのOSにレセプターと言われる特殊なプログラムが組み込まれていて、それが後から送り込まれるウイルスプログラムと結合してシステム全体が異常な動作をするように、最初から仕組まれていたのだと。

 ほとんどがメディアによる独自取材に基づいた記事だった。警察の正式捜査や社内の監査の報告記事もあったが、結論は曖昧だった。

 次第に国家全体が戦争へと向かっていき、国内でも武力衝突が発生する中で、そういった個々の犯罪の捜査は中途半端なまま立ち消えになっていったようだ。

 時間の経過に伴って、事故自体が遠い過去の些細な出来事の一部に成り果てていく。

 それでも私はネットをサーチして、痕跡を探し求めていた。事件の後に何が起きたのか。

 この二百三十年における時代の変化、そんなことに興味はなかった。私が知りたかったことは。夫がどうなったのか。夫がどうやって死んだのか。

 どこのサイトを見ても、寿命からの解放だの永遠の命だのという刺激的な言葉が飛び交っている。でも、それは遺伝子操作されて、リスク因子を排除された人々にのみ適用される言葉。つまり、終わることのない人生という恩恵が受けられるのは、新しい世代のみ。もちろん、私も夫も違う。だから、私たちはたとえマイクロマシンの最新医療の治療を受けたとしても、いずれは死ぬ。

 だから医師も、凍結保存されている古い世代の人間の蘇生が無駄だと言ったのだ。意味がないから、そういう肉体はさっさと処分すべきだと。

 世界は変わってしまった。

 いずれにしても遺伝子操作を受けていない夫が、今も生きている可能性などない。

 寿命。命の終焉。仕方のないことだ。でも、そうであれば、夫がどうやって死んだのかくらいは知りたい。もしかしたら、夫は再婚して、子供や孫がいるのかも。夫と血がつながっている人たちに会えるかも。

 私が欲しかったのは、私という人間がこの世の中で生きている意味。医者の言葉通り、私の蘇生自体が判断ミスなのかもしれない。私は不要な人間なのかも。

 でも、今の私は生きている。そして、私の寿命は限られている。医者の予測では後数年。永遠の命という言葉が出回っているこの世界では、それはとても短いのかもしれないが、そんな私でも生きているのだし、残りの人生を生きる目的が欲しい。

 夫の足取りを追い、夫が残したものを見つける。

 それが私の思いついた、私という人間の存在意義。他の人にとっては無意味なことであっても、私には重要なこと。

 しかし、過去に亡くなった一人の人間の痕跡を見出すのは、単純にネット上の情報だけでは難しかった。二百年以上の時間が過ぎているのだから。

 私はフルールに協力を頼んだ。

 彼女は、可能な限りのことをやると約束してくれた。しかも、すぐに幾つかの情報を見つけ出してくれた。

『個人情報のログを検索してみました。もちろん、私のアクセス範囲も限られています。だから、全てではありませんが。特に政府の管理しているセキュリティ情報にはアクセスできません。それでも、ある程度の情報は。

 事故が発生してから八年間は、かなり詳細な記録が残っています。事故直後は、あなたの病院に頻繁に訪れています。医師と面会し、あなたの治療が不可能であること、冷凍保存し未来に委ねること、それらについて説明を受け、合意のサインをしています。

 あなたの肉体が生体管理センターに移されてからも、何度もあなたに会いに行っています。

 また、その頃、医療関係の情報に頻繁にアクセスしています。再生医療に関する最新情報を検索していますね。世界中の研究機関のサイトを訪れ、論文を調べています。あなたの細胞を再生する方法を調べていたようです。当時はまだ医療用のマイクロマシンがありませんでしたから、あなたのような全身の皮膚にダメージを受けた場合の治療は難しかったようです。

 事故から四年後に、会社を辞めています。その後の足取りはあまりはっきりとつかめませんが、それでも幾つか残っています』

 そこまで説明すると、フルールはなぜか急に黙ってしまった。どうしたのだろう。何か言いにくいことなのだろうか。

 彼女が用意してくれたアパートの部屋は、西側に窓があった。あまり日当たりがいいとは言えなかった。朝日が入らず、昼間も薄暗い。その代わり、日が沈んでいく様子を見ることができた。私は毎日それを見ながら、一日の終わりを実感した。

 もう、床や壁を照らし出す太陽の光の色が変わり始めている。

 フルールは私と目を合わせようとせずに、

『クローンについて調べていたようです』

 ……夫はクローンを……

 私にはそれがどういうことなのか、曖昧な理解しかできなかった。彼は私のクローンを作ろうとしていたのだろうか。私の治療が無理だと悟り、私の代わりを。

 気持ちは分かるような気もする。きっと寂しかったのだろう。一人残された彼は、私を捨てることができなかった。

 すんなり私が死ねばよかったのかもしれない。そうすれば、彼も諦められた。私のことなど忘れて他の人間と恋をすることも。でも、私が中途半端に生きているから。だから、彼の精神もどっちつかずの状態を彷徨うことになったのだろう。

『人間のクローンは特殊な場合を除いて禁止されています。

 生きている人間のコピーを作ることなど許されません。たとえ、植物状態の人間であっても。

 しかし、死んだ人間のクローンを作りたいという需要がかなりあるのは事実です。もちろん、残された幹細胞から死者のクローンを作ることも法的には許されていませんが、それでも違法ビジネスをやっている会社はたくさんあるようです。

 彼はそういった団体にアクセスしていますね。

 おそらく、あなたのクローンを作ろうとしたのでしょう』

 ……それは結局どうなったのですか?……私のクローンを作ったのですか?……

『分かりません。そもそも、そういったことは非合法なので、情報としては残っていないのです』

 ……もし、成功していたとしたら……夫は、私のクローンと一緒に、残された人生を過ごしたということ?……

『可能性としては否定できません。ただ、さっき言った通り、その後のことは、具体的な情報が残っていないので何とも言えませんが』


 フルールが調査してくれた範囲では、夫が再就職した形跡はなかった。働かず、収入を得ないままどうやって生活していたのだろうか。

 IDはどうしたのだろう。たとえ仕事をしていなくとも、IDは必要だ。住む場所を探すにも、買い物をするにも、交通機関の予約をするにも。

 他人とすり替わって生きてきたのかもしれない。それは違法なクローンの生成を隠すために。そして、そのクローンとの秘密の生活を続けるために。

 それが事実だとしても、おそらく簡単なことではなかったはず。長期間使い続けられるような偽のIDは滅多にない。失踪した人間になりすまして生きていたとしても、その人間にも過去があり、いつかは足が付く。いつかは警察なり調査機関なりに見つかる。

 ……どんな暮らしをしてたんだろう……

 私はぼんやりと尋ねた。

『何歳まで生きたのでしょうか。もし、百歳ぐらいまで生きていたとしても、百五十年前にはお亡くなりになっていることになります。その頃はすでに戦争も始まっていますし、かなり国は混乱していました。素性を隠して何らかの活動に参画していたということも考えられますね』

 ……偽のIDを使って軍隊に入っていたということ……

『あるいはこの国でも内乱が起きていましたから、そういったグループに加わっていた可能性も』

 テロ活動を行っていたということなのだろうか。

 私には、夫が好んで争いに参画していたとは思えなかった。根っからの技術屋だったから。科学には興味を持っていたが、政治には関心がなかった。

 そして、人間関係にも。

 人と争うどころか、会話することさえ嫌って、いつも一人でいるような人間だった。そんな人が進んで戦争や政治活動に参加するだろうか。

 私が黙っていると、フルールが、

『そうでないとすると……』

 少し考えているような表情をした。おそらく、可能性が低いので言うべきかどうか迷っているのだろう。

『例えば、スラム地区に身を隠していたということも』

 スラム。私には具体的なイメージがすぐには思い浮かばなかった。思い浮かんだとしても、それは二百三十年前のもの。おそらく、現実とはかなり乖離があるのだろう。

 ……そういった場所は多いの?……

『ええ。この近くにも……』

 どの時代にも貧困による格差は存在しているようだった。むしろ、格差は時代とともに拡大していくのだろう。

 私はなぜか、一度見てみたいと思った。

 もちろん、今のスラム街に行ったところで、彼につながる手がかりがつかめるとは思えない。彼がそこにいるわけではないのだから。彼を見たことがある人間がいるはずがないのだから。

 そうだとしても、何かのヒントになるような気がする。それ以外には彼と結びつきそうなものが見当たらないというのが本音だったのかもしれないが。

 私はフルールと一緒にこの街の中にあるスラムへ、一度行ってみることにした。


 次の日、その場所に着いた私は驚いてしまった。

 確かに、行く前から、私は何度も彼女に警告された。長い時間見て回ることはできないと。危険だから。

 彼女の言う〝危険〟とは治安が悪いという意味ではなかった。そこには仕事がなく貧困にあえぐ人間が集まっていて、暴力事件や犯罪行為が続いているというのは事実らしかった。スラムという場所を隠れ蓑にして、非合法な活動を展開している悪質な組織も多いようだ。

 しかし、国同士が戦争をしていて、都市部でさえも時折ドローンによる敵の攻撃を受け、しかも内乱が続き、過激な組織による公共施設の爆破活動が続いている中では、そういった貧困による騒ぎなど大した問題ではなかった。

 危険なのは、治安ではなく、放射能だった。

 その地区は汚染されていた。

 だから、肉体への影響に注意が必要だとフルールは警告したのだ。

 しかし、停車した移動車両の窓から外を見た私が驚いたのは、放射能汚染地域に人が住んでいるという理由だけではなかった。むしろ、被爆による障害など些末なことに感じられた。私が思わず息をのんでしまったのは、そこがよく知っている場所だったから。奇しくもその場所は、私が二百三十年前に事故にあった原子力発電所の跡地だった。

 いや、跡地というのは不正確な表現かもしれない。まだ消え去ってはいないのだから。

 放置された場所。

 原子炉が、文字通り放置されていた。巨大なコンクリートの壁面。高熱でガラス化した岩石。湾曲した分厚い金属の板。

 今でもまだ核物質が残り、放射能が漏れていた。フルールが言った通り、そこは危険な地域だった。

 自動タクシーが止まると、フルールは私が降りるのを手伝ってくれた。自走式の車椅子にも対応した車両なので、一人でも乗り降りできたが、ドアが狭く、まだ不慣れな私は、フロント側の車輪の角度を変えるのに手間取ってしまった。あるいは、期せずして因縁深い場所へと戻ってきてしまい、動揺していたのかもしれない。

 車から降りると同時に、腕に付けてあったバイオモニターのアラームが鳴り始めた。表示が正しいのなら、今すぐここを立ち去るべきほどの高レベルの放射能を検知している。

 フェンスで囲まれた広大な土地は、まるでゴミ捨て場だった。汚染された土砂や瓦礫がそのまま放置されているのだろう。

 そのゴミの間に、汚れたテントやら大きさの違う小屋やらが無数に並んでいる。洗濯物が干してあったり、汚れた食器が転がっていたり、プラスチックの容器に泥水が溜まっていたり。

 大勢の人が住んでいるらしい。

 ……どうして、こんな場所に……

『他に住む場所がないからでしょう。IDを失って居住区に住めない人は、ここに集まってくるしかないんです』

 恐ろしいほど無造作に、かつての原子炉の制御部品だの、折れ曲がった鉄筋だの、冷却装置のパイプの破片だのが散乱していた。

 しかもそれらは、人々の生活に取り込まれている。

 古い建物がトイレとして使われていたり、倒れかけた壁が雨風をしのぐための屋根の一部として利用されていたり、排水システムのフレームがキッチンとして利用されていたり。

 事故直後に比べれば放射能の濃度が下がっているとしても、長い時間ここで暮らせば影響が体内に蓄積し、致命的なダメージを与えるのは間違いなかった。

 それでも、人々はここで暮らしている。しかも、決して暗い雰囲気ではない。三歳ぐらいの子供が無邪気に走り回っていたり、母親が優しい表情で腕に抱えた幼児に母乳を与えていたり、上半身裸の老人が大量の野菜を荷車に積んで運んでいたり。

 むしろ、都心部の人間よりも、ここにいる人たちの方が健全な生活をしているように見える。少なくとも精神的には。

『一応彼らも、マイクロマシンを血液中に投与されています。治療まではしてくれませんが、体調をモニターしています。放射能による影響が出ていないかどうかを常にチェックしているわけです。つまりこんなスラムでも国家の管理下にはあるんです』

 敷地の奥の方へ入っていくと、放射能の汚染度が次第に高まっていった。それでも、人々は平気で走り回っている。子供も年寄りも。男性も女性も。

 鉄塔の支柱のような金属の太い棒が倒れていた。おそらく、原子炉の建屋があった場所なのだろう。

 何本ものレールが引いてある。幅は鉄道などに比べると狭い。炭鉱や工場内で使われているトロッコ用の線路に似ている。私が働いていた頃には、こんなものはなかった。汚染されたものを効率的に撤去するために設置されたらしい。しかし、今ではそれさえも、放置されている。

 小型の電気機関車が倒れていた。さび付いた機関車の車輪の車軸を見ていると、私はなぜここにいるのだろうと思ってしまった。夫を探しに来たのだろうか。でも、こんな場所にいるはずがない。とっくの昔に死んでいるのだ。探しても意味がない。

 ここは単に私が事故にあった場所。私が傷ついた場所。

 私は何をしているのだろう。

 治療不可能だった私の肉体は、長い年月が過ぎた後に、医療用マイクロマシンという高度な技術のおかげで蘇生した。しかし、今の私は。

 私の頭の中にあるのは、医師の言葉だ。必要のない人間を生き返らせてしまった。どうせ数年で死ぬのに。

 誰もが死ぬ、死は不可避、などという時代は終わった。この世界では技術が死を克服した。肉体によって死を強制されるような人間に、生きている価値はないらしい。

 本当にそうなのだろうか。私には分からない。

 分からないから探しているのだろう。何かを。矛盾を解消してくれる万能薬を。

 そう思いながらスラム街へ来てみたが、目の前にあるのは、過去の痕跡でしかない。未来に向かって作用しているものを見つけ出すことができない。

『もう、ここを出ましょう。危険ですから』

 フルールが心配そうに言った。私は黙ってうなずいた。


 危険区域を囲っているフェンスの外に出ようとした時、大きな声が聞こえた。

 スラム地区の、私たちとは丁度反対側の方向から、祭りの山車のようなものがやってくる。大勢の人間で、大きな土台のようなものを担いでいて、その土台の上では炎が上がっている。何かが燃えているのだ。

 それを運んでいるのも、まわりで大騒ぎをしているのも、みんなここの住人のようだった。

 ……もしかして、火事か何か……

 私はびっくりして尋ねた。確かに十数人の男たちが頭の上に担ぎ上げている、大きな板状の物の上から激しい炎が飛び散っていて、周囲のテントだの、店のトタン屋根だの、樹木の枝だのに火が移っていく。そのたびに新たにまた人が集まってきて、大慌てで水をかけていた。

 まるで火の神を祭った神輿が、怒り狂いながら、あたりを燃やしてまわっているようだ。その炎の山車は住人に迷惑をかけながら、貧民の街の中を練り歩いていく。何をやっているのだろう。

『あれは葬式です』

 葬式?

 誰か死んだのだろうか。こんな汚染地域に住んでいれば、病で命を落とす人も多いはずだ。フルールの話では、ここの貧民の体内に投与されているマイクロマシンは監視専用で治療はしないらしい。だから、病気になっても、そのまま死んでいくだけなのだろう。そんな人たちの葬式なのだろうか。

 でも、みんな楽しんでいるように見える。燃える山車を担いでいる人も、まわりで騒いでいる人も、大急ぎで水を運んでいる人も、決して悲しんではいない。大声で歌を歌ったり、手を振り回して踊ったり。小さな子供が奇声を上げながら走り回っている。みんな笑っている。どういうことなのだろう。

『あれは火葬なんです』

 巨大な炎は、死んだ人を燃やしているのだと。

 大きな山車の上で死体を焼却しながら、人々が敷地の中を歩きまわっている。そして、それは悲しい別れではなく、何かを祝っているようにしか見えなかった。

『ここに住んでいる人は、死をいいことだと考えています。生からの解放だと』

 ……どうして……

 ……だって、今の医療技術を使えば、治療さえすれば、人間は永遠に生きられるんでしょう……もちろん、私みたいな遺伝子操作を受けていない人間はダメなのかもしれないけど……でも、そんな時代にどうして死を喜ぶの?……

『分かりません。私にも分かりませんが、今、この世界には二種類の人がいるようです。

 生命に固執し、永遠に生きようとしている人。

 全てを諦め、死を牢獄からの開放だと喜ぶ人。

 どっちが正しいとか、どっちが間違っているとか、そういうことは私には分かりませんが』

 確かにフルールが言うように、火葬しているようだった。そして、それは喜びの儀式のようだ。

 山車の上に大きな人が立っている。最初はそれが人形だと思っていたが、どうも死体らしい。柱に体を固定されて死体が立っている。死体を加工して、体の姿勢を固定しているのだろう。顔を上に向けてしっかりと空を見上げ、片方の手をすっと伸ばして遠くを指さしている。

 疲弊した放浪の民を新たな場所へと導こうとするリーダーのようだ。彼は生前そういう人だったのだろうか。だから。

 フルールは違うだろうと言った。ここで死ねば、誰もあのような立派な姿にして、燃やされるのだと。みんなが、死んだ魂が勇ましく天国へと駆け上がっていくことを願っているのだと。

 死は彼らにとっての希望なのだと。いつかは自分も死んで、天上の世界へと向かうことができると信じているのだと。

 ……私には理解できない……死ぬことが希望だなんて……

 それが私の本音だった。

 私は彼女の言葉に拒絶反応を起こしていたのだろうか。どうしても否定せずにはいられなかった。

 ……死に期待するなんておかしいと思う……

『そうかもしれませんね。おかしいのかも』

 フルールも私と同じ疑問を感じているようだった。

『確かにおかしいですよね。死ぬことが希望だなんて。

 でも、人間の歴史って、矛盾だらけのような気もします。人間に作られたアンドロイドが言うのも変かもしれませんが。

 人間は常に何かを創造し続け、常に何かを破壊し続けています。

 人間は常に肉体を生かそうとし、常に肉体を殺そうとします。どうすれば長生きできるかを考えながら、どうやれば大量に命を処分できるかを研究しています。

 矛盾しているような気がします。それが人間なのかもしれませんが』

 私はもう否定しなかった。否定したところで、何の意味もない。なぜなら、私という人間も、その矛盾の一部でしかないのだから。

 二百三十年前に働いていた原子炉は電力を作り出すためのもの。人が生きるためのもの。それなのに、何らかのテロ行為で破壊された。そして、その原子炉は放置され、今も尚、ここで放射線をまき散らし、人を殺し続けている。

 原子炉の暴走によって私は傷ついた。長い年月の冬眠を経てやっと蘇生できた。でも、不完全な人間として。もはや生きる価値のない人間として。私は病院から放り出され、当てもなくスラムを彷徨っている。

 私自身が矛盾している。


 私は何も得るものがないままアパートに帰った。

 もう私は、一言もしゃべらなかった。

 フルールも私の心の状態を把握しているらしく話しかけようとしない。ただ、一人でコンソールに向かって、何かを調べていた。

 きっと、私の夫のこと。

 彼女が見つけようとしているのは私の生きがい。


 それは深夜だった。

 眠っている私をフルールが揺り起こした。突然のことに私は驚いた。もしかして、敵のドローンによる攻撃が始まったとでも言うのだろうか。あるいは、国内のテロ組織による爆破予告でもあったのだろうか。

『どうしても話したいことがあるんです。夜中にすみません。でも、どうしても、今、話したいんです』

 私は彼女の目をじっと見ていた。

 彼女は明らかに動揺している。それは初めて見る表情だった。

 本当にそれは、人為的に作られた顔つきなのだろうか。計算に基づいて調整された筋肉の収縮なのだろうか。あたかも心があるかのように模倣しているだけなのだろうか。

 私には分からない。でも、それは人間も同じ。私は自分の中に心がある。でも、他人の意識の中にも、自分が自分であると思っている自我が存在しているのかどうか、確かめるすべなどない。そういう意味ではアンドロイドも人間も同じではないか。

 だから、私は信じている。彼女の中にも、私と同じように、自分の内部の奥深い部分を見下ろすような感覚があると。そう考えないと、あまりにも孤独だから。

 彼女は不安そうな表情で言った。

『見つけたんです』

 彼女は、私の夫を見つけた、と。

 でも、その〝見つけた〟という言葉が何を意味しているのか、私には判然としない。夫の何を見つけたのか。

 夫が使っていた偽のIDを見つけ出したのか、夫が死亡した時の検死報告書を見つけ出したのか。あるいは、夫が暮らしていた街を。あるいは、住んでいた家を。あるいは、夫が埋葬された墓を。

『あなたの御主人を見つけたんです』

 彼女の口調に迷いはなかった。何十年も前に死んだはずの夫を見つけた、と。だから、明日の朝、会いに行こう、と。


    3


 街から十キロ以上離れた場所にある、おそろしいほど厳重な建物。周囲には、間違って触れただけで即死してしまうような高エネルギーのシールドが張り巡らされていて、人間どころか小型のドローンでも侵入は難しそうだった。

 私たちが乗っていた近距離用タクシーもゲートの中には入れなかったし、自走式の車椅子さえも係官に預けなければならなかった。

 運が良かったのはフルールの入館が却下されなかったこと。

 彼女の体は政府のデーターバンクに登録されていたので、私の歩行を支援する機械という名目で付き添いを許可された。

 規則は厳しかったが、対応してくれる刑務所の管理官たちは、決して悪い人間ではなかった。規則ですから、と何度も説明し、申し訳ありません、と何度も謝った。そして、私たちが移動しやすいように、施設内専用の小型ヴィークルを貸し出してくれた。いつもは荷物の運搬や囚人の輸送に使っているのだと。

 私とフルールはそのヴィークルに乗り込んで、施設の中心部へと向かった。ショックアブソーバーが壊れているのか、あるいは初めから乗り心地など無視して設計されているのか、振動が激しく、内蔵が上下に叩きつけられて幾度も吐きそうになった。それでも広い敷地内を効率的に進むことはできた。

 フルールが事前に申請をしていたようだったが、面会の手続きは複雑で、何度も私は自分の素性を説明しなければならなかった。

 私はまだ理解できていない。一体自分が誰に会おうとしているのか。あるいは何に。

 もしかしたら、見知らぬ人間が出てきて、夫を知っていると主張し、得体の知れない昔話をしてくれるだけかもしれない。それとも、それが本当に夫なのかどうか明確には断定できないような曖昧な囚人の記録が、どこかの管理システムの内部に残っているだけかもしれない。

 私はあまり信用していなかったし、期待もしていなかった。それはフルールのことを疑っていたからではない。彼女が私を欺したりするはずがないのだから。

 私の心の高揚を抑止していたのは、一種の恐怖だった。目の前に現れるものが、もし信じていたものではなかった場合に、もし期待していたものではなかった場合に、その時に自分が受ける精神的な痛手。それを考えると、恐ろしくなったのだ。

 今の私の心は弱っている。不安定な世界で蘇生し、仲間のいない孤独な生活を強いられ、しかも余命も長くない。私は辛い。きっと、これ以上の苦難には耐えられないだろう。そう思っていた。だから、期待するのが怖かった。絶望するくらいなら、初めから期待したくなかった。

『まず、最初に会っていただきたいと思います』

 四度目のゲートを通り抜けた後、フルールは私に言った。

『最初に……事実を自分の目で確かめていただきたいのです』

 私はうなずいた。

 私も同じ考えだった。あれこれと言葉を投げかけられて右へ左へと意識が揺れ動くよりは、まず自分の心の中に確固としたものを作り上げたい。それが良いものであっても、悪いものであっても。

 廊下ですれ違う管理官たちはみんな、大口径の自動小銃だの、グレネードランチャーだの、不自然なほどの重火器を手に持っていた。おそらく、それを使えば、ここにいる囚人全員を殺すことができるだろう。ここに収容されているのは、それほどまでに厳しく監視しなければならないような犯罪者なのだろうか。

「もうすぐここも閉鎖されます」

 私が驚いているのに気付いたのだろうか。前を歩いていた管理官の一人が、振り返りもせずに話しかけた。

 もしかしたら、私がゆっくりとしか歩けないので、無言に耐えきれなくなり、声をかけただけかもしれない。いや、こんな場所で働いているのだから、沈黙には慣れきっているはずだ。きっと何か言いたいことがあるのだろう。

 ……閉鎖……どういうことですか……

「もうここの囚人のほとんどが戦場に送られました。健康な人は残っていません。今収容されているのは利用価値のない人間ばかりです」

 価値がない人間。それは、この世界でとてもよく聞く言葉。医師も私に同じことを言った。でも、そういった考え方は、私が働いていた頃からあった。人間の価格が計算できるようになったのはずっと昔のこと。

 ……残っている人はどうなるんですか……

「さあ、私たちにもよく分かりませんが、何らかの方法で処分されるのでしょうね」

 簡単な話だった。要らない人間は捨てる。

「それが終わったら、この施設は閉鎖されて、私も別の仕事に就くことになります。おそらく、戦争に行くことになるんでしょうね」


 私とフルールは面会用の部屋の前に立っていた。

 中に入れるのは私だけだ。管理官の一人がドアを開けてくれる。施設の入り口はあれほど厳重だったのに、建物の内部のセキュリティはそれほど厳しくなかった。

 その証拠に、私は今から、囚人の一人と一対一で面会しようとしている。一つの部屋の中で。そこには仕切りすらもない。

 誰も立ち会わない。

 もし何かがあったらどうするのだろう、と思った。その囚人が凶暴だったら。私に襲いかかってきたら。私を殺そうとしたら。

 誰が助けてくれるのだろう。それとも。

 私も価値のない人間だから。

 そんなことを考えながらも、私は部屋の中に入った。

 そこは面会室というより、簡易治療室のような場所だった。部屋の隅にベッドが一つ置いてある。そして、入り口近くに椅子が一つ。おそらくそれは、私のために用意されたもの。

 でも、私は座らなかった。

 ベッドの方に一歩一歩と近づいていく。

 そこには人が横たわっている。動けないようだ。彼が囚人なのかどうかは分からない。囚人だったとしても、どんな犯罪を犯したのか、重罪の判決を受けて服役しているのか、そういった経緯は分からない。その男について、一切説明を受けていないから。

 フルールはまず事実を自分で確認してほしいと言った。

 私はベッドのそばに。

 男が仰向けに寝ていた。

 一目見て、フルールが言った〝事実〟という言葉の意味を、私は理解したような気がした。

 その男を私は知っている。

 それは間違いなく、

 私の夫だ。

 長期間に及ぶ人工冬眠や蘇生処置の影響で、私の記憶に曖昧な点があるのは否定できない。でも、そこにいるのは間違いなく夫だった。

 しかし、どうして夫が目の前にいるのか、一体何が起きているのか、全く理解できなかった。

 あの事故から二百三十年が過ぎている。もう彼は二百六十歳を超えているはず。我々のような遺伝子操作による延命処置を受けていない世代の人間にとっては、自然界で発生した純粋なホモサピエンスの肉体にとっては、生き続けることができない年齢。もうとっくに限界を超えている年齢。

 幸運な要因が重なることで、奇跡的に生きていたとしても、著しい老化現象を防ぐことはできない。皮膚の衰え、脱毛、筋力の減退、そういったもろもろの変化から逃れることなど不可能だ。

 それなのに、そこに横たわっていたのは、事故があった時と同じ夫の体だった。若々しく、つやつやとした肌、豊かな頭髪、しっかりとした筋肉。

 ただ、手足は動かないようだった。何かの病気なのだろうか。

 そうだとしても、彼は若い頃の夫だ。確信を持って断言できる。でも、どうやって。そんな延命技術はこの世にないはず。たとえ医療テクノロジーが神を凌駕するほど進歩した時代であっても。

 私は彼の名を呼んだ。そして、彼のそばに寄り添い、彼を抱きしめようとした。

 その時、私はもう一度驚いた。

 その驚愕は、若い頃のままの夫の肉体を見た時よりも大きかったのかもしれない。無表情のまま私を見ている彼は、返事をしなかった。

 彼は私の声を聞いても何の反応もしなかった。耳が聞こえないわけではないようだ。聞こえている。聞こえているのに認識できないのだ。私が言っていることを。自分自身の名前を。

 何かが変だと思った。確かに、私が部屋に入ってきても、彼は驚かなかった。じっと私を見ているだけだった。単に管理官が一人入ってきたかのように、私を。

 夫は私を認識していない。私が誰なのか分かっていない。

 私は何が起きているのか理解できないまま体の動きを止めた。そして後ずさった。とにかく、部屋から出たかった。

 あれは夫だ。

 私が大怪我をして凍結される前の夫。それは事実だ。

 しかし、それと同時に私は確信した。あれは夫ではない。別の人間。


 私は違う部屋に案内された。

 窓はなかったが明るい部屋だった。テーブルと椅子が置いてあった。

 私は勧められた椅子に腰掛けた。むしろ、力が抜けて崩れ落ちたというような状態だった。フルールが慌てて駆け寄り、もう一つの椅子を引き寄せ、私の体を支えるように抱きかかえながら、横に座った。

 管理官の一人がテーブルの上に温かいコーヒーを置くと、私たちに気を遣って部屋から出ていった。部屋の中には、私とフルールだけが残された。

 ……どういうこと?……

『ごめんなさい。あなたを動揺させるつもりはなかったんです』

 気が動転していたせいか、私は曖昧な返事しかできなかった。彼女に悪意があったとは思いたくないが、彼女は何かを私に隠している。何か大切なことを。

 どういうことなの? と、私はまた同じ言葉を繰り返した。

『はい』

 フルールは説明し始めた。やはり彼は私の夫であると。遺伝子検査の結果、本人であることが確認されていると。

『でも……』

 彼女は私の様子を注意深く見ながら言葉を続けた。

『……正確には、彼自身ではありません。遺伝子の配列が一致しているだけです。つまり、彼はクローンです』

 私はほんの少しだけ理解した。だから、彼は夫と同じ姿をしているのだと。だから、若い頃の夫の姿を。

 まだ生成されたばかりのクローンなのだ。

 そして、彼が私を認識しない理由も。クローンなのだから、たとえ同じ姿をしていても、同じ記憶を持っているわけではない。

 夫の名前を知らなくても、私のことを覚えていなくても何の不思議もない。きっと、夫の遺伝子情報を悪用して、誰かが勝手にクローンを生成したのだ。だから、私のことを何も知らない。

 ……でも、誰が……誰が何のために……

 私は矢継ぎ早に質問した。

『誰がクローンを生成したのかは分かっています。それは彼自身です』

 私の夫が、自分のクローンを作っていた。そのクローンが今も残っていると。

 それは意外な答えだった。

 確かに、事故の後の彼の足取りを追った時に、彼がクローンを培養する組織とコンタクトをとった形跡があった。当時も今も人間のクローン生成は違法なので、はっきりとした証拠があるわけではない。

 でも、彼が何らかの方法で人間のクローンを作ろうとしていたのは事実だ。

 最初は、私のクローンを作っていたのだと思っていた。大怪我をして命は取り留めたものの、目覚める見込みのない私の代わりを作ろうとしたのだと。そして、どこかへ姿をくらませて、もう一人の私と一緒に暮らしたのだと。

 それが法的にどれほど悪いことなのか私には分からない。しかし、法律上許されないことだとしても、そういうことをやろうとした夫の気持ちは理解できるつもりだ。それはある意味で、私に対する思いなのだから。たとえ、クローンだとしても、私と一緒に生きたいという彼の気持ち。

 だから、私はうれしかった。

 でも、そうではなかったのだ。彼が作っていたのは、私のクローンではなく、彼自身のクローン。それに何の意味があるのだろう。私が目覚めた時に、私のそばに彼のクローンがいると喜ぶとでも思ったのだろうか。

 自分の名前や私のことすら知らなくても、姿が同じ人間がいることで、私が喜ぶとでも。馬鹿馬鹿しい。夫は狂っていたのだろうか。

 ……何のために?……

 フルールは私の質問に答えなかった。

『あなたが見たのは、彼のクローンです。でも、自分の名前やあなたの姿に反応しなかったのは、クローンだからではありません』

 ……どういうこと?……クローンなんだから、私のことが分かるはずないでしょう……

『自分の名前やあなたに反応しないのは、彼がクローンだからではなく、忘れてしまったからです』

 忘れた?

 フルールは何が言いたいのだろう。忘れたというのがどういうことなのか。夫はクローンに情報を残したのだろうか。クローンに演じるべき役を教えたのだろうか。つまり、夫はクローンに自分の真似をさせようとしたのだろうか。それなのに、一度は習得した役を、あのクローンは〝忘れてしまった〟のだと。

 しかし、フルールは私の理解を否定した。そうではないと。

 彼女ははっきりと言った。

 脳移植。

 彼はクローンを生成し、そのクローンに自分の脳を移植していたのだと。そうすることで、永遠に生き続けようと。そうすることで、少なくとも私の蘇生処理が行われるまでは生き続けようと。

『これまでに、七回クローンを生成して、そこへの脳移植を実施しています。七回目は最近なので、あの体はまだ若いのです』

 ……どうして、そんなことを……

 私は何度も同じ質問をしてしまった。本当は尋ねる必要などなかった。尋ねなくても理解していたのだから。でも、その答えを受け入れることができなかった。だから、フルールの口から言わせたかったのだろう。自分を納得させるために。

『おそらく、それはあなたと再会するため。肉体の老化は避けられない。それを回避するために、新しい体を作り続け、そこに自分の脳を移植し続けた。

 クローンを作成するときに、長く生きるための遺伝子の改変をしなかったのはなぜか分かりません。クローンの生成を請け負った組織に、それほどの技術力がなかったのか、あるいは、遺伝子を改変することに何らかの不都合があったのか』

 ……何らかの不都合って、どういうことですか……

『目的は脳を移植することです。同じ遺伝子の肉体だと、移植が容易なんですね。免疫による拒絶反応が出ないから。そういった免疫システムへの影響が理由で、遺伝子の改変できなかったのかもしれません。あるいは、自分が自分であるということに、こだわったのかも。完全に自分と同じ肉体で、あなたを待ちたかったのかも。

 本当の理由は分かりませんが……。いずれにしても、クローンで生成された人間は不完全ですから、寿命も短かったようです。だから、この二百三十年を生き延びるために、七回も生成しなければならなかった』

 ……それはやはり違法なことなんですか……

『そうですね。違法です。人間のクローンを生成すること自体が違法ですから。もちろん、今では軍用目的では認められていますが、商用のクローン生成は違法です。それに……』

 フルールは一呼吸を置いた。

『生成されたクローンにも脳があります。つまり、意識があり、自我があるわけです。クローン人間だとしても、人間なんです。そこに自分の脳を移植するわけですから、移植される側からすると、それは、殺されるということです。

 簡単に言うと、彼は自分のクローンを殺害しながら、生き延びてきたわけです。だから、彼は重罪に問われています』

 今の夫は犯罪者なんだ、と思った。でも、それは私に会うためにやったこと。その気持ちは理解できるような気がした。

 私にとっては、豊富なエネルギーや永遠に生きるテクノロジーを持ちながらも、戦争をして殺し合っているこの世界の人々に比べると、はるかに理解しやすいものに感じられた。

 ……じゃあ、あのクローンの中には、夫の脳が……でも、私を見ても、名前を呼びかけても、反応しないのはどうしてなんですか……

『忘れてしまったんです』

 彼女はまた同じ言葉を使った。忘れてしまったのだと。

 ……忘れたって、どういうこと?……

『彼があなたに反応しない理由は二つあります。一つは反応できないんです。

 そもそも、移植手術自体が不完全だったということ。脳を移植することはできても、脊髄の神経を正確につなぐのは非常に難しいのです。脊髄の中には肉体のほとんど全ての神経が走っています。たとえクローンでも、それらの対応関係を厳密に把握して、脳と肉体を再接続するのは難しい。

 だから、脳を移植しても、体の機能は一部しかつながっていません。今は手足を動かすことができないようです』

 ……寝たきりということなんですね……

『そうです。だから、あなたを見ても体を動かすことができなかった。それともう一つあって。……おそらく、このことが本質的な理由なのですが。

 たとえ、肉体はクローン技術で再生できても、脳はオリジナルの体から移植するわけですから、脳自体は老化していきます。彼の体は若くても、彼の脳はすでに二百六十歳を超えているわけです。記憶力は著しく劣化しています。

 はっきり言うと、もう記憶はほとんど残っていないでしょう。もし脳内に一部の記憶が残存していたとしても、それを思い出すことは不可能でしょう。つまり、彼はあなたを思い出すことができないんです』


 刑務所の管理官が部屋に入ってきた。

 クローンを殺害した犯罪者として刑務所に入れられている彼も、もう危険性がないということで、引き取り手がいれば、解放されるのだと。

 そして、その役目を引き受けるかどうかを、私は問われた。

 そもそも、この刑務所はもう閉鎖しようとしている。動ける人間は戦場に送り出す。兵士として利用価値のない人間は処分する。

 だから、彼をどうするのか、私は問われたのだ。


 全ての説明を受けた後、もう一度彼と会わせてほしいと私は願い出た。それはすぐに許可された。

 私がさっきの部屋に入ると、彼はやはりベッドの上で寝ていた。

 でも、少しだけ眼球を動かして、私の方へと視線を向けた。

 私はベッドのそばの床にひざまずいて、彼の手を握った。何の反応もしなかった。手の神経もつながっていないのだろう。握り返すこともできなければ、私が触っているということを感じることさえもできないのだろう。

 違法なクローンを生成し続け、そこへ自分の脳を移植するという恐ろしい行為を繰り返してきた彼を、私はどう受け止めればいいのだろうか。分からない。

 でも、私は私自身に対しても同じことを感じている。二百三十年という長い時間を経て再生したものの、数年しか生きられない自分をどう受け止めればいいのか。やはり、分からない。

 分からないけれども、私は生きている。そして、彼も。

 私たちは生きている。

 私は彼のほほに触れた。顔の皮膚の感覚はあるのだろうか。彼は目の下の筋肉を少し動かした。うれしいのだろうか。それが彼なりの微笑みだったのかもしれない。

 この状況を、彼を、自分自身を、どう受け止めればいいのか、今の私には分からないけれども、彼の存在が、残り少ない私の命に存在価値を与えてくれたというのは事実だろう。

 私は不思議な気持ちだった。

 それは共感でもなく、怒りでもなく、感謝でもなく、憎悪でもなく、ただ漠然とした祈りのような気持ちだった。私は誰に何を祈っているのだろうか。

 じっと私の顔を見つめている彼の目から、涙が流れ落ちていた。


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再会の時 八雲 稔 @yakumo_minoru

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