『俺はただ、家で寝ていたかった』

志乃原七海

第1話『せっかくの三連休』



小説・第一話



小鳥のさえずり。カーテンの隙間から差し込む、完璧な角度の朝日。ああ、休日だ。それも、三連休の初日。俺はベッドの上で固く、固く誓っていた。この三日間、テコでも動かん。Netflixの視聴リストはパンパンだし、読みかけの小説も山積みだ。これぞ大人の正しい休日の過ごし方。そうだろう?


「あなたー、起きてるー?」


階下から聞こえる、やけに弾んだ声。うちの嫁さん、由香(ゆか)の声だ。

その声には聞き覚えがあった。何かを企んでいる時の、ご機嫌な声だ。俺は狸寝入りを決め込む。聞こえない、俺はまだ夢の中だ。


「温泉、行きたくない?」


ほら来た。

寝室のドアがそっと開き、由香が顔を覗かせる。手にはご丁寧に、温泉地のパンフレットまで握りしめている。


「……おれは、せっかくの休みだし、のんびりしたいなあって」

しぶしぶ目を開けて、最大限に気怠そうな声で答える。これが俺のささやかな抵抗だ。


「だったら温泉に行こうよ!」

由香はベッドサイドに腰掛けると、満面の笑みでパンフレットを広げた。まるで俺の言葉が、温泉行きに賛成する最強の根拠だとでも言うように。


「いやだから、話聞いてた? のんびりしたいの。家で。この、最高の城で」

「温泉でのんびりするの! 広いお風呂で手足伸ばして、美味しいもの食べて、それが最高のリフレッシュじゃない!」

「そこに行くまでが重労働なんだって。運転するのも嫌だしさ」

俺はわざとらしく笑ってみせた。冗談だよ、とでも言いたげな、大人の余裕というやつだ。


「大丈夫! 私が隣で全力で応援してあげるから!」

「応援されても渋滞はなくならないんだよ」

「旅行に行って疲れてどうすんの? って思うおれ!」と、心の中でプラカードを掲げてみるが、彼女のキラキラした瞳の前では、そんな抵抗は無意味に等しい。


結局、一時間にわたるプレゼンの末、俺は根負けした。いや、正確に言えば、彼女が勝手にもう予約していた旅館のキャンセル料が惜しいという、最終兵器を出されたからだ。まったく、用意周到な嫁さんである。


かくして、俺の「一歩も動かない三連休」計画は、開始わずか一時間で頓挫した。



そして案の定、という言葉は、こういう時のためにある。


「うわー、すごいねー、みんなお出かけするんだね!」

助手席の由香は、目の前に広がる真っ赤なテールランプの連なりを、まるでイルミネーションでも見るかのように楽しんでいる。


時刻は、午前8時。

夜明け前の薄暗い中、眠い目をこすりながら家を出て、すでに3時間が経過している。それなのに、俺たちの車はまだ、県境を越えたばかりの高速道路の上で、カタツムリのような歩みを続けていた。


「なあ、これ、いつ着くの?」

「んー? ナビだと、あと4時間だって!」

スマホを覗き込みながら、由香が屈託なく答える。

4時間。今から、4時間。絶望的な響きだ。


ラジオから流れる交通情報が「〇〇インターを先頭に、渋滞は30キロです」と、無慈悲な現実を告げている。ハンドルを握る俺は、アクセルとブレーキを交互に踏むだけの機械と化した。旅行で疲れてどうする、という出発前の俺の言葉が、ブーメランのように頭に突き刺さる。


進んでは止まり、進んでは止まり。

そんな単調な地獄が延々と続いた末、旅館の駐車場にようやくタイヤを滑り込ませた時、時計の針は午後2時を指していた。


「着いたー! 疲れたけど、景色見たら吹っ飛んだね!」

車から降りて大きく伸びをする由香の横で、俺はぐったりと空を見上げた。


日が暮れるぜ、まったく。


心の中で悪態をつきながらも、まあ、温泉に入ればこの疲れも取れるか、なんて思い始めている自分もいる。なんだかんだ、俺はうちの嫁さんに甘いのだ。


たぶん。

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