第三章 桜の影に潜む

夜半、胸の奥がざわめくような感覚で目が覚めた。

 障子越しの月明かりは淡く室内を照らし、外では霊桜が花びらを絶え間なく落としている。

 耳を澄ますと、風に混じって微かな水音が聞こえた。

 庭に池はなかったはず……そう思いながら、澪花は身を起こす。


 寝衣の裾を踏まぬように障子を開けると、白砂の庭の中央に、水面のような揺らぎが広がっていた。

 月明かりを映すような淡い光の糸が、そこから幾筋も伸び、まるで生き物のように澪花の足元へと寄ってくる。

 花びらの一枚が糸に触れた瞬間、すっと溶けるように消え、冷たい空気が頬を撫でた。


「——やはり、目覚めていたか」


 背後から声が落ちてくる。

 振り返れば、颯真が廊下に立っていた。黒い羽織の裾が夜風に揺れ、その手には封を切っていない護符が数枚。

 月光が彼の輪郭を際立たせ、端正な顔はいつも以上に冷ややかに見えた。


「これは……何?」


「地脈が揺れている。お前の“生き霊脈”が影響している」


 低い声は夜の空気と同じく張り詰め、感情を滲ませない。

 彼は庭へ降り立ち、指先で印を結ぶと、護符を水面の揺らぎへと投げた。

 ぱん、と乾いた音がして、揺らぎは霧のように散って消える。

 残ったのは、花びらの匂いと月の光だけだった。


「……危ないものだったの?」


「今は兆しに過ぎない。だが放置すれば、昨夜の小妖より厄介なものを呼び寄せる」


 その言葉に、昨夜の灰色の腕と影のない少年の瞳がよみがえる。

 胸の奥でざわりとした不安が広がった。


 颯真は戻ってくると、すぐそばで立ち止まり、澪花を見下ろした。

 彼の瞳は月光を宿し、冷たさの奥にわずかな色を秘めている。


「覚えておけ。生き霊脈は、力でもあり呪いでもある」


「……どうして私が……?」


 問いは空に溶けるように途切れ、答えは返ってこない。

 颯真はわずかに視線を逸らし、「もう休め」と低く告げた。

 声は冷たいのに、袖がほんの一瞬だけ、彼女の手の甲をかすめた。

 それが意図か偶然か、澪花には分からない。



――――――




 翌朝、屋敷はどこか張り詰めた空気に包まれていた。

 廊下を行き交う使用人たちは足早で、声を潜めて何かを囁き合っている。

 その中で、昨夜見た少年の姿がふと脳裏をよぎった。——あの影のない足元。あれは夢ではない。


 ふと庭を見ると、霊桜の根元に淡い光の糸が絡まっていた。

 それは風も触れぬのに揺れ、やがて土の中へと沈んでいく。

 まるで地の底が澪花を呼んでいるかのようだった。


 その瞬間、背後から柔らかな声が降る。


「また会えたね」


 振り返ると、昨日と同じ少年が立っていた。やはり影はなく、その瞳の色に一瞬、何かを思いそうになった。

けれど、その“何か”は霧のように掴めず、すぐに意識の底へ沈んでいった。


「……昨日の……」


「君の足元は、深い水脈の上だ。生き霊脈は、ただ生きているだけで世界を揺らす」


 言葉の意味を測りかねていると、少年はふっと笑った。


「その揺らぎを喜ぶ者もいれば、恐れる者もいる」


 その声は春風のように柔らかく、けれど底には冷たい流れがあった。


「君を守ろうとする者も、奪おうとする者も、どちらも近づいてくる」


 澪花は息を呑む。守る者——それは聡真のことだろうか。

 だが問いかける前に、少年の姿は花びらと共に淡くほどけ、空へと消えた。


 残されたのは、舞い落ちる花と、胸の奥のざわめきだけだった。

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