霊桜契り抄
朝霧一樹
第一話 契り桜の下で 上巻
春まだ浅い月桜の都は、夜になると空に浮かぶ霊桜が花を散らす。
花片は風に乗って舞い、灯籠の明かりを淡く滲ませ、石畳を霞色に染める。
百年に一度の盛りと謳われる花は、今宵も静かに降り注いでいた。
葦原 澪花(あしはら みおか)は、鏡台の前でじっと座っていた。
侍女たちの手が忙しなく動き、重ねられた白と紅の婚礼衣装が肩にずしりと重い。
髪には桜細工の簪、耳元には淡い紅珊瑚の飾り。
華やかさの中に、彼女の胸の奥はひどく静まり返っていた。
(半年だけ……半年耐えれば、家は救われる)
葦原家は代々、地方一帯の霊脈を統べる家柄だった。しかし近年、霊桜の結界の力が弱まり、不作や怪異が続いたことで財も権威も失われる。
都からの支援を受けるには、朝廷の勅命による縁談を受け入れるほか道はなかった。
その相手は、霊桜を守護する篁家の当主であり、朝廷直属の高位陰陽師——篁 颯真(たかむら そうま)。
都でその名を知らぬ者はいないが、その性格については「冷徹で近寄り難い」と囁かれている。
霊脈を統べる本家と、それを支える守護の家。形式上は嫁入りであっても、澪花の胸には、契約に近い冷たい響きが残っていた——。
「朝廷直属の高位陰陽師様との婚礼……おめでたいことでございます」
背後の侍女の声は、澪花の耳を素通りした。
めでたい、と言われても、胸は何一つ浮き立たない。
輿が屋敷へと向かう道中、夜空に霊桜の花が舞い降りるのが見えた。
降り注ぐ花の下で結ばれる縁は「神に護られる」と古くから言われる。
しかし澪花には、その花びらがまるで白い雪のように、ひややかに感じられた。
屋敷の門前には、白銀の髪を肩で揺らす青年が立っていた。
淡紫の瞳は冷たく光り、どこか人ならぬ気配を漂わせている。
「……葦原澪花殿で間違いないな。俺は朧月(おぼろづき)。主の式神だ。案内する」
式神――陰陽師が使役する霊的存在。
初めて見るその姿に一瞬見入ったが、すぐに頭を下げた。
足音が廊下に響き、やがて広間の奥に座す男の姿が見えた。
長身の体を正し、漆黒の髪を後ろで束ね、黒曜石の瞳が澪花を一瞥する。
その視線には、温もりも興味もなかった。
いや、むしろどこか面倒を押しつけられたような、淡い嫌悪が混じっている。
「篁颯真だ。——契約の通り、半年間、夫婦として振る舞う」
その声音には、祝言の席に似つかわしくない冷たさがあった。
澪花は静かに息を吸い込み、定められた言葉を返す。
「葦原澪花にございます。……よろしくお願いいたします」
婚礼の儀が始まった。
香炉から立ち昇る白檀の香が広間を満たし、祝詞が低く響く。
契約符に二人が名を記すと、淡い金の光が走り、霊脈がわずかに震えた。
その一瞬、澪花の視界に颯真の背が映る。
黒い布越しに、花弁のようであり牙のようでもある黒紋が蠢く。
見たこともない不吉な模様に、思わず息を呑んだ。
(これは……)
問いかける間もなく儀式は終わり、形だけの礼が交わされる。
人払いされた控室で、わずかに二人きりになると、颯真は視線を逸らしたまま言った。
「互いの私室は別だ。……半年、静かに過ごしてくれればいい」
その言葉は命令のようで、拒絶のようでもあった。
澪花はただ「はい」と答えるしかなかった。
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