2 現場検証

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 現場の惨状は外観を一瞥しただけで見て取れた。

 建物の二階部分は大部分が黒く焦げ、屋根や壁も半分近くが崩れかかっている。ほとんどの窓は割れており、遠くからでも焦げ臭い匂いが漂っていた。

 建物は学園の敷地のほとんど端のほうに位置しているが、校友会顧問のルクルスの案内で迷うことなく建物の出入口へと至ることができた。

 アズマイル・ブーケは妹の件でやるべき事が立て込んでいるらしく、この火災現場には同行できないようだ。いわく、研究室まで訪ねて来てくれたらいつでも応対してくれるらしい。

 出入口に張られた規制線の外に男性警察官がたった一人、後ろ手を組んでいたので、クラリエ・ベールルは懐から身分証を取り出して警察官に提示する。

「お疲れ様です」

「……どうも」

 警察官はさもやる気なさそうに規制線を持ち上げて中へ通してくれた。後に続いたルクルスは彼のほうをチラリと見てから小声で話しかけてくる。

「あの、なんか態度が悪いですよね。昨日の今日なのにあの人以外の警察の方は誰もいないようだし……」

「まあいつもの事ですよ。魔法関係の案件だと判明した途端、我々に丸投げですから、彼らには面白くないんでしょう。昔から警察と魔導監査まどうかんさは仲が悪いんですよ」

 クラリエは淡々と答える。事件資料の提示や出動要請など表向きには密接に連携が取れているが、両者の実態は冷えきった関係にある。この半年間、事件捜査へ赴く度に嫌というほど肌で感じてきたことだ。なおもルクルスは不審そうな表情で話を続ける。

「しかし魔導監査と言いましたか、貴方もたった一人で現場調査に訪れるなんて、本当に大丈夫なのでしょうか?」

 大丈夫か、の一言に込められている棘をひしひしと感じた。

「魔導監査は常に人員不足と言っても過言ではないですからね。ですが私の先輩や上司も外で動いてくれています。ご心配には及ばす、必ず解決いたします」

 ルクルスは「はぁ」と力なく答える。

「しかし、これほどの状況とは……」

 一階の大広間は演劇用のステージと、一段低いアリーナになっており、言うなれば学校の体育館をひとまわり小さくしたような造りだ。

 見上げると天井はところどころ焼け落ち、アリーナには二階の床を突き破って落ちてきたのであろう木箱や舞台用の小道具があちこちに転がっていた。どれも消火活動による水と煤にまみれて使い物になりそうもない。

「火元になった二階へはこちらです、ベールルさん」

 ルクルスが上手側のステージ袖の扉へ手招きする。鉄製の螺旋階段が備わっていた。ここまでは火の手は回っていないようで、ルクルスの後に続いて一歩ずつ踏み締めて昇っていく。

 二階は更に焦げ臭さが鼻につく。スライド扉が一枚あり、その向こうにはメタルラックや木箱が積まれておりいかにも倉庫といった感じだが、そのいずれもが真っ黒に焼け焦げていた。

 部屋の中央付近には白線で人型が記されていた。警察が記したもので、シャノン・ブーケの遺体が横たわっていた位置だ。

 煤汚れた床はところどころ抜けており危なっかしい。見上げると青空が拝めるほどに天井が焼け落ちている。

「この倉庫には出火原因になりそうな物は仕舞われていたのでしょうか?」

「ええ、ありました。舞台演出に使用する魔巧まこう――例えば火柱を上げる装置なんかもありました」

 魔巧。魔法そのものを装置の一部として組み込み、外部から魔力を取り込む機構を備えた道具の総称だ。

 今回の例であれば、舞台演出に用いられていたという装置には炎魔法が直接組み込まれており、電源を入れれば外部から魔力が取り込まれて火柱が上がる仕組みという訳だ。

 基本的には電源を入れるだけで作動するのだから当然、魔法の心得がない者だろうと使用できる。現代ではありとあらゆる生活必需品に用いられている技術で、魔巧を見ない日はないと言っても過言ではない。

 ふと部屋の片隅に見慣れない円盤型の装置が置いてあるのが見えた。直径は三メートル程度だろうか。本体から伸びたコードが壁面のコンセントに刺さっていた。

「この装置もそのひとつでしょうか?」

 ルクルスは頭をかきながら「さぁ……」と申し訳なさそうに呟いた。

「私は魔法が使えない一般教諭なものですから、そういった魔巧にも疎く敬遠しがちで、管理は全て学生に任せていました。……そういった私の監督不行き届きも事故の原因でしょう」

「なるほど……」

 電源ボタンがあったので押してみるが、とうに壊れてしまっているようで何も起きない。開閉できそうな蓋があったので開けてみたが、中の基盤もやられてしまっているようだ。中には黒焦げた大きな石のような塊が鎮座していた。これは、と手を伸ばそうとしたところ、背後からルクルスがおずおずと質問を投げかけてきた。

「素人質問で恐縮なのですが、魔法とは、例えばその痕跡から誰が詠唱したものか特定できないのですか? 刑事ドラマはよく見ますが、ピストルなんかは弾についた痕からどの銃から撃ち出されたものか特定していますよね」

「おっしゃる通りです。魔法が使用された痕には肉眼では見えない魔力の燃えかすがたっぷりと付着します。その魔力痕はピストルの線状痕のように、あるいは指紋のように個人によって違いが現れます。人間の肉体を介して魔力を撃ち出しているのですから当然といえば当然なのですが、ただ――」

 クラリエは言葉を飲み込んで辺りを見渡す。そこら中が水浸しだ。

「消化活動に水魔法が使われてしまっているようです。聞いた話によると消防が到着するまでの間、火災を目撃した学生達が水魔法で消化を試みたそうで。複数人の痕跡が混ざり合った状態ではそれも難しいでしょう」

 魔法学園であることが逆に災いしてしまったとも言える。尤も、魔力痕から一発で原因を特定できるなどとは端から期待していなかったのだが。

「ルクルス先生、二階へのルートはこの階段だけですか?」

「いえ、下手側……階段があったのとは反対の舞台袖にエレベーターがあります。主に荷下ろしに使っているやつですが」

 なるほど、と考えを手帳に纏めようとしたその時、一階の方から正面入口の扉の大きく開かれる音が聞こえた。

「――先生、ルクルス先生!」

 階下から聞こえてくる声に誘われるがまま螺旋階段を降り、声の主を探った。一人の男子学生だった。おそらく演劇校友会の関係者だろう。

 規制線を強引に掻い潜ってきたのか、ややあって先程の警察官も「こらこら」と後を追ってきたが、本気で現場から引っ張り出すような気概はみられない。じつに形だけの仕事ぶりだ。

「これはソンク君、どうしてここに」

「先生がここにいるって聞いたもんだから。俺達ザナイェールのために必死で練習して準備してきたのに、こんな事になってどうしたらいいか……」

 ソンクと呼ばれた学生は肩で息をしながら、すがるように顧問へ問いかける。短髪で筋肉質のいかにもスポーツマンといった気風の男だ。

「残念ながら今年の演劇は中止せざるを得ないでしょう。こんな事態になってしまった訳ですから」

 そんな、と落胆を見せるソンクをなだめつつ、ルクルスは改まって言った。

「騒がしくして申し訳ありませんベールルさん、こちらはソンク君。四回生で、校友会の会長を務めている学生です」

「丁度よかった、校友会の方々にも後で話を聞きに行こうと思っていたところです」

 クラリエは彼の後方にいる警察官を冷たく睨み付ける。すなわち彼は重要参考人であるのだから、――この場から引っ張り出す必要はない、と。警察官は小さく舌打ちして外の見張りへと戻っていった。

 さて、と一呼吸入れてクラリエは参考人に向き合う。

「昨日の昼前後、貴方と他の校友会メンバーの様子について聞かせてください。もちろんシャノン・ブーケさんのことも」

「ああ、ザナイェールに向けて本番の舞台セッティングに取りかかっていたんだ。そのためにもちろん倉庫にも出入りしてた。でも昨日はシャノンの姿は一度も見てないぞ」

「この建物の一階にもステージがあるけど、本番の舞台はここではないの?」

「ここじゃ少し手狭だからな。噴水のある広場があるだろう? 毎年、学園に許可を取ってそこに特設ステージを設けているんだ」

 学園の中心付近にある、芝生の整えられた広場で、昼休みにはそこでよく絵描きやボール遊びをしている学生なんかも見られる穏やかな場所だ。記憶を辿るとそういえばクラリエの在学中も確かにそこで演劇をしていたような気がする。

「だけどもう終わりだ。公演は中止。それもこれも全部シャノンのせいで……」

「シャノンさんのせい? 何故そう思うの?」

 どうやら不意に口から漏れてしまった意見だったらしく、ソンクは言葉を濁す。

「この火災はもしかしたらシャノンが起こした可能性はないかって考えてしまったんだ。火元は二か月前、彼女が怪我を負ったその倉庫なんだ。何か恨みがあってもおかしくない。しかも当のシャノンは行方不明ときてる。あいつは八つ当たりで俺らの舞台を台無しにしようとして倉庫に火を放ったんだ。その結果逃げ遅れて自分も焼け死んじまったんじゃないかってさ」

 後ろめたい気持ちでソンクは考えを吐き出す。彼はシャノン・ブーケが付け火の犯人だと考えているらしい。二か月前の事故と今回の事件との関連性、そして状況を考えればその可能性が最も高いことはクラリエも考えていた。

「しかも今まで準備してきた資材も全部燃えてしまったんじゃもう――」

 言いかけてソンクは何かにハッと気がついたようで、ステージ下手の袖へと駆け出していた。何事かと思い、クラリエとルクルスも後に続く。

 彼が駆け寄ったのは先程ルクルスが言っていた荷運び用のエレベーターだった。ソンクは興奮気味にボタンを叩く。どうやらまだ電源は生きているようで、機械音と共に扉がゆっくりと開いた。

「ああ、やっぱり!」

 ソンクは感嘆の声をあげる。エレベーターの中には木箱や書き割り、衣装をかけたハンガーラックなどが詰め込まれていた。それこそ人一人さえ乗れないほどぎっしりと、だ。

「……これは?」

「見ての通り、本番で使う予定だった舞台資材だ。昨日、本番のステージへ運び出すためにエレベーターへ詰め込んでる最中にみんなで昼飯に行こうと声をかけられたもんだから、途中やりで放っておいたんだ。おかげで火事に巻き込まれず済んだらしい。小道具も衣装だって、照明機材も一通り揃ってる!」

 ソンクの表情がみるみる明るくなっていく。だが対照的にクラリエの表情は浮かないものになっていた。

「これは、問題が発生したわね」

 そんな様子を見てか、ソンクも何がどうしたのかと不安を覚え始めた。

「昨日の昼休み前から今の今まで、エレベーターはずっとこの状態だったのよね?」

「そりゃあもちろん、俺はこのエレベーターに荷物を詰めた張本人だからそれは間違いないよ」

「もし貴方が足に怪我をしていて、それでも二階へ行かなければならないとすれば最初にどうする?」

 その言葉にソンクもようやく言わんとすることを察したらしく「あっ」と声を漏らした。

「彼女が一人でここを訪れたのだとすれば、真っ先にエレベーターへ向かうでしょう。でもエレベーターは使用できない状況だった。一体彼女はどうやって車椅子ごと二階へ移動したのかしら?」

 ソンクは大きく息を吐き、ううむと悩むように顔を押さえてその場にしゃがみこんだ。

 クラリエはなおも続ける。

「それにこのエレベーターの資材を放置するはずがない。シャノンさんの目的が貴方達への逆恨みだというなら、これを焼いてしまえば彼女の本懐は遂げられるのだからわざわざ二階へ行く必要すらないのよ」

「……そうだな、その通りだ。変なことを言って悪かった。大切な仲間を疑うなんて俺は会長失格だ」

 己の態度を反省したのか、ひどく落ち込んだ姿を見せる。

 かくいうクラリエも自身が考えていた最も高い可能性――つまり、シャノン・ブーケが校友会への報復のために火を放った説が潰えてしまった落胆は否めない。

 しかし、シャノン・ブーケの目的がそうでないのならば、彼女がここに立ち入る理由もなければ火の手が上がる理由もない。ましてや二階の倉庫まで一人で上がることなど到底できないはずなのだ。つまり何者かに連れられて――あるいは運び込まれて、ここで殺害された可能性が高くなったということだ。

 クラリエは彼に手を差し出し、立ち上がるよう促す。

「ソンク君、捜査協力を頼めるかしら。校友会のメンバー全員に事情聴取したいの」

「お安い御用だ。というか皆、事故の真相が知りたくてとっくに外に集まってると思うぜ」

 ソンクが開け放った扉の向こうには既に十数人の男女が群がっていた。

 例の警察官が睨みを利かせているためか、規制線を越えて現場に踏み込んだのは会長のソンクだけのようだ。

 全員が全員、シャノン・ブーケは本当に死んでしまったのか、そして無事にザナイェール本番を迎えられるか、気が気でない様子だった。

 その姿を見かねてか、ソンクは啖呵を切った。

「みんな、良い知らせがある。俺達のザナイェールに向けて費やしてきた時間は決して無駄じゃなかった。必要な資材の八割方が無事なことを確認した。失ったぶんを残りの期間で補えれば本番に間に合うぞ!」

 その言葉にザワザワと動揺が広がる。道具が無事だったとはいえ、こんな状況で公演を続行してもいいのだろうか、といった色の困惑だ。しかしそれを遮るようにソンクは言葉を続ける。

「皆の言いたいことはよく分かる。だからこそ今は俺らにできる精一杯のことを成し遂げてやりたいと思うんだ。シャノンとともに作り上げてきたあの舞台を完成させてやりたい。皆、最後の準備でこれから目が回るくらい忙しくなるだろう。だが、どうやらこの火事はただの事故じゃないらしい。どうか解決のため、そしてシャノンのためにも彼女に協力してほしい」

 ソンクは腰を直角に折り、頭を下げる。メンバーは口々に「会長がそう言うのなら」と協力的な姿勢を見せてくれた。会長に対する信用は確かなものらしい。よくできた男だ。

 話を聞くためクラリエは校舎内の講義室を借りることにした。理事長から使用してもいいと事前に了承を得ていた部屋だ。

 メンバーらと部屋へ向かう途中、眼鏡の女学生がしきりにこちらの顔を覗きこんでくるのが目についた。何かやましいことがあって顔色を窺っているのかと思えば、彼女の表情を見るにそうではないらしい。

「あのぉ。失礼ながら、もしかしてあのクラリエ・ベールルさんですか?」

「……そうですけど」

 渋々答える。嫌な予感がした。

「や、やっぱりそうでしたか! 私、貴方の大ファンです! 貴方に憧れてこの学園に入学したと言っても過言ではないです!」

 予感は当たったようで、眼鏡越しに輝く瞳でそうも見つめられては居心地が悪い。

「有名な人なのか?」

 ソンクは呆けたように問う。

「会長、ご存知ないんですか? 学園の生ける伝説、クラリエ・ベールルさんですよ! 成績は常にトップ、教科書に載るあらゆる基礎魔法を使いこなし在学中に騎士の免許まで得て首席で卒業されたというあの!」

 周囲の学生達からもおおっと声が上がった。

 クラリエは周囲に気付かれないよう小さくため息をつく。在学中にもこうして妙に持ち上げられることが多々あった。

「そんなに凄い人ならすぐに解決できるんじゃないか? なんだかちょっと安心したよ」

「変に持ち上げるのはやめてちょうだい。私は多少成績が良かっただけの、普通の人間よ」

 彼女自身、特別な才能があるなどとは考えていない。ただ、自分のできる努力を積み重ねてきただけの結果だと自負している。いくら優れた学業成績を残して卒業したところで、今は社会に出て新たな組織に所属して半年ばかりのひよっ子に過ぎない。

 期待してもらえるのは喜ばしいことだが、そう過度に期待されるような存在でもないのだ。


 クラリエは一人ずつ話を伺うことにし、全員を廊下に待機させてまずは会長のソンクのみを講義室に招き入れた。

 ソンクはやや緊張した面持ちで向かい合わせで腰を掛ける。

「まずは典型的な質問だけど、出火当時――昨日の午後一時頃はどこで何を?」

「さっきもチラッと言ったかもしれないが、あの日はメンバーみんなと昼飯を食いに行ってた。戻ってみたら何やら騒がしかったもんだから、うちらの建物から炎が上がってたと気付いた時は本当に驚いたよ」

「昼食はいつも全員で? それとも昨日だけ特別?」

「メンバーが揃えばほぼ毎日だな。特にザナイェール準備期間に入ってからは全員集まることが多かったから、まぁそれだけ仲がいいグループってことで俺も鼻が高いよ」

 クラリエはペンを走らせ、手帳には次々と文字が埋まっていく。

 そして次の質問は肝心要の、彼女のことについてだ。

「じゃあ次はシャノン・ブーケについて教えて。彼女はどんな子だった?」

「それはもう優秀な人だったよ。どうやら入学前から演劇に興じていたらしく、その演技力には目を見張るものがあった。だから今年のザナィエールで催す予定の演目でも主演に内定していたんだ」

「彼女は一回生なのに主演に選ばれていたのね。それは凄い事だけど――」

 ――だけど、それを面白く思わない人もいるだろう。それで恨みを買った可能性もある。

 ソンクは話を続ける。

「そんな彼女があまりにも不憫だから、今年は特別にチャリティ公演にしようって話になったんだ。ほら、あの車椅子は手で漕がなきゃならないだろ? 募金を呼びかけて、ハンドル操作ができる魔力駆動の車椅子をプレゼントしようってことに決まっていてな」

「そこまで仲間を思いやれるなんて素敵なことよ。貴方達は本当に仲が良いのね。その意見に誰も反対しなかった訳ね」

「あー、いや……うん」

 不意に煮え切らない返事が返ってきた。

「反対した人がいたの?」

「いや、あはは……何でもないよ」

 何かがあると言っているようなものではないか。きつく睨みを利かせてみればソンク観念したかのように溢した。

「反対というよりは無投票が一件、って感じかな……」

「反対も賛成もしなかった人がいた、って意味? それは誰?」

「副会長を務めてくれている女学生だ。名前はサブリナ。三回生で、よく気の利く優秀な人だよ」

「さっきのメンバーの中にいるかしら」

「いや、彼女は休学中なんだ。だから実質無投票ってこと」

「休学? それはいつから……」

「二か月前、シャノンの事故があったその翌日からさ。仲間が大怪我を負ったショックで病んでしまったらしい」

 責任感の強い人なのだろう。身近でそのような事故があったのでは気に病んでしまうのも分かる。

 だがそれに関してソンクはまだ話すべきことがあるらしい。部屋には他に誰もいないがソンクは極力声を落としてこう告げた。

「あの日以来、そのサブリナについて嫌な噂が流れるようになったんだ」

「噂?」

「……」

 ソンクは黙りこくってしまう。話すべきか悩み、露骨に目を背けていた。

「安心して、守秘義務は守るわ。広く流布している噂ならどのみち他の学生にも尋ねることになる」

「……サブリナがわざとシャノンに怪我させたんじゃないかって噂だよ」

 シャノンが倉庫で荷物の下敷きになった二か月前の事故、それがサブリナの仕業であるという噂。

「サブリナは去年とその前の年も、ザナイェールの舞台で主演をやりたいと強く望んでいた。だが今年入ったばかりの新人に主演をかっさらわれたんだぜ」

「嫉妬による犯行だと?」

「その可能性は多いにあると思う。現に事故が起きた時、倉庫内にはサブリナもいたらしいからな。本人は休学しているんだから当然それを否定する人もいないまま、噂はどんどん広がって公然の秘密のような状況になってしまった。もちろん俺もそんな噂はデマだと思いたい。だけど一概に否定できない自分もいる」

 大きくため息をついたソンクは身体を仰け反らし、天井を見たままぼそりと呟く。

「そりゃあ俺も大切な仲間が大怪我を負ったのは悲しかったし悔しかったさ。でも同時に『わざわざ自分が休学するほどのことか?』と思ってしまうんだ。やましいことがあるから、サブリナはずっと顔を出せないんじゃないのか? それって俺が冷たい人間なのかな……」

 確かに彼の言い分にも一理あった。少なくとも自分ならわざわざ休学まではしない。そうでなければよほど繊細な人物なのだろう。

「一度そのサブリナさんにも話を聞いてみたいわ。彼女の住所は知ってる?」

「いや、悪いが会長と言えども流石に住所までは把握してないんだ。たぶん顧問のルクルス先生なら知ってるかもだけど」

 そこまで訊いてソンクへの聞き取りは終了した。

 その後入れ替わり立ち代わり順番に話を伺ったが得られた情報はほとんど同じであった。

 出火当時は皆で食事に出ていた。

 シャノン・ブーケは誰もが認める優れた人物だった。

 サブリナはずっと休学しており、彼女に関する悪い噂を耳にしたことがある。

 といった具合で、新たな情報を得られぬまま全員の事情聴取が終わった。収穫もなく思わずため息が出てしまう。

 そんな姿を見かねてか、最後の一人である、クラリエのファンだと言っていた眼鏡の女学生が退室しようとする間際にこう言い告げた。

「シャノンちゃんについてもっと知りたいのでしたら、ミレイアちゃんを当たってみてはどうでしょう?」

「ミレイアちゃん?」

「シャノンちゃんのルームメイトの方です。校友会のメンバーではないんですけど、今の時間ならきっと――」

 眼鏡の女学生は壁に掛けられた時計をちらりと見る。時刻は間もなく正午になろうとしていた。

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