第6話 失敗失敗

 早足に歩いていたのが、気づけば走り出していた。胸がざわついて仕方がない。


 橋を渡り、田んぼの横を通り、まばらに家の建っている住宅地へと足を踏み入れる。


 早く帰れ、早く帰れと心で誰かが急かしている。どこかの家の中から、楽しそうな笑い声が聞こえた。ビニールプールに入った少年が、パシャパシャと水音を立てた。


 蝉と笑い声と飛行機と風と、僕の呼吸音。全てが夏の暑さに溶けて僕の鼓膜を揺らしている。


 早く帰らないと。早く行かないと。お母さんの元へ——……?



「ねえ」


 今にも消え入りそうな震えた声と同時に、肩が沈んだ。もたついた足が進むことなく地を叩き、視界の端で影が揺れる。


 恐る恐る振り返ると、長袖の黒いシャツに黒いスカートの女性が立っていた。ボサボサの髪を肩まで垂らし、大きく目を見開いて僕を見つめている。彼女の両手は、しっかりと僕の肩を捕らえていた。


 夏の暑さのせいだろうか。いや、それよりも不自然に、女の顔はびしゃびしゃに濡れていた。足元には土がまばらに広がっている。


 僕は彼女の手を振り払うように、さりげなく後ずさった。


「何か用ですか」


 女は口元に寄せた指先を忙しなく動かす。それを見て、ようやく山の近くにいた不審な女を思い出した。


 女は、激しく瞬きを繰り返す。


「用があるから声をかけたにき、決まってるじゃない」


 やばい人だ、と本能的に僕は口を噤んだ。慌てて周囲に目をやるが、先ほどまでいた子供の声も、笑い声も、飛行機の音すら消えていた。女の震える細い声だけが、世界で響いているようだった。


「ほら、あなた。お昼頃にもう1人の男の子と女の子と、山に入っていったでしょ?」


 女は目を細め、続ける。


「そこで、何か見なかった?」


 震える声に、小さな靴とビニールバッグが頭をよぎる。見なかったことにすると決めたのだ。僕は黙って頷いた。


「見てません」

「う、嘘じゃないわよね?」


 女は顔を歪める。奥歯を噛み締める音が僕にまで届いて、思わず顔を顰めてしまう。


「じゃあ男の人を見なかった? 川端弘道って言うんだけど。えっと……26歳で身長が私より少し高いくらい。猫の描かれたシャツを着てる……」


 女は腕を持ち上げ、頭の上で掌を左右に振って見せる。


 聞き覚えのない名前。僕は首を横に振った。本当に知らないのだから、仕方がない。


 女が信じられないとでも言いたげな顔で僕を見つめるので、「見てません」と言葉で伝える。


 それを聞いた女は大きく目と口を開き、勢いよくその場にしゃがみ込んだ。


「そんな。やっぱり1日ズレてたから……。私のせいだ。どうしよう」


 どうしよう、どうしよう……とくぐもった声が繰り返し彼女の腕の隙間から濁った水のように漏れ出している。


「どうしよう……どうしようどうしようどうしよう……どうしようどうしよう」


 絶え間なく漏れ出す声に合わせて、女の体が激しく前後に揺れる。乱れた髪が揺れ、音を立てた。声と動きはさらに大きく、激しくなっていく。周囲には変わらず人がいない。近くの家でさえ、息を潜めたように人の気配が消えていた。


 僕の靴がじゃり、と音を立てる。女の動きと声が止まった。


 代わりに「ううううう」と低い唸り声が聞こえてくる。声の発信源が目の前の女だと理解するのに時間はかからなかった。唸り声に合わせて、再び女の体が前後に揺れだす。


 勘弁してくれよ、という言葉を必死に飲み込んだ。何か小さなきっかけで女が襲いかかってくる予感がして仕方がない。女性とはいえ、僕はまだ子供で相手は大人。身長差もある。


 とはいえ、いつまでもここで女の唸り声を聞いているわけにもいかない。僕は早く帰らねばならないのだから。


 チラリと背後を見やる。僕の家まで走れば五分もかからないが、追いかけられたら家がバレてしまう。が、家には父親がいるはずだ。あんな父親でも、大人の男であることには代わりない。


 僕は大きく息を吸って、足に力を入れる。女がこちらを見ていないのを確認して、心の中で唱えた3、2、1のカウントダウンに合わせて駆け出した。


 女の動きが止まる気配がした。背後から恐怖に追い立てられるようにして、必死に足を動かす。振り返らない。自分の足音がやけにでかい。家のドアを開け、最後まで振り返らすにドアを閉めた。


 心臓が激しく動いている。全身が脈で揺れていた。家の中のひんやりとした空気が汗を冷やし、背筋が震える。


 ふう、とようやく息を吐いた瞬間、鈍く硬質な音が耳を打つ。驚く暇もなく劈くような悲鳴に似た怒声が玄関を揺らした。


 お母さんの声だ。


 声に引っ張られるようにして、まだ少し重い足を持ち上げた。玄関マットに足を取られ、既の所のところで壁に手をつく。勢いで壁に貼り付けられたカレンダーが滑り落ちた。


 視線を逸らすことなく、ただ音のする方へと向かっていく。迷いなくドアを開けたところで、踏み込んだ足に何かの破片が突き刺さる。時計が床に転がり、見当違いな時間を刻んでいた。


「ちょっと、悠飛もなんか言ってやってよ!」


 お母さんは僕を一瞥することもなく、父親を睨みつけた。父親はといえば、困ったように頭を掻いて立ち尽くしているだけ。唯一いつもと違うのは、その手に淡い水色のキャリーケースを持っていること。


「……どういう状況?」

「お父さんが浮気したのよ」


 僕の問いにお母さんは短く答えた。


「浮気じゃない。ただ、好きな人と暮らしたいってそれだけの話だろ」


 気の抜けたように言った父親に、「それを浮気って言うのよ!」とお母さんが怒鳴りつける。状況を理解して、僕はため息をつきそうになった。


 父親が浮気していたのは、周知の事実だと思っていた。お母さんが知らなかったことの方が驚きだ。


 何故離婚しないのかと父親に聞いたことがある。それに対して父親から返ってきたのは「だって、離婚する理由がないだろ?」だった。


「お母さんはどうして欲しいの?」


 僕が聞くと、お母さんは父親を睨みつけたまま「聞いてよ」と机を叩く。机の上に乱雑に置かれた汚れた衣服から、土がパラパラと舞った。


「お父さんがね、好きな人がいるからその人も一緒にここで暮らさせてほしいって言うの。どうかしてるでしょ?」


 僕が頷くのを確認してお母さんは続ける。


「どうしてそんな酷いことができるの? 私のことが好きじゃないの?」

「好きじゃないよ」


 父親は、それが当然だと言わんばかりに平然と答えた。


「はあ?」

「君のことは好きじゃないよ。ただ一緒に暮らしてるだけ。別にそれは当然のことだから不満はない。だから好きな女性も一緒に暮らしていいかって聞いてるんだ」


 唖然とする母親を置いて


「別居して、用があるときに呼び出すと言う形でも構わないよ。離婚も、君がしたいならしてもいいし、したくないならしなくてもいい」


 父親はそう冷静に捲し立て、キャリーケースの取っ手を握る。


 お母さんは結局、父親をどうしたいのだろう。止めて欲しいのか、離婚したいのか、はたまた共感して欲しいだけなのか、父親を責め立てたいのか——。


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