第2話 脱水と寝不足と

 朝日が目に刺さる頃。土の上で寝ていた真白さんがゆっくり起き上がり、猫のように伸びをした。キョロキョロと辺りを見回し、ようやく2階に視線を移して大きく手を振る。


 おはよう、と口を動かしているのが見えた。昼間着ていた綺麗な白い服は土で汚れてしまっている。


 僕はといえば、あれから一睡もできずに、ただぼんやりと窓に映る自分を見つめていた。時折トイレに駆け込んでは嘔吐し、その度に何度も歯を磨いた。おかげで口の中にミントの味が染み込んでいる。


 フラフラとおぼつかない足取りで階段を降りた。庭に、真白さんの姿はなかった。


 帰ってしまったのだろう。あまり長居をすれば、いずれ起きてきた僕の家族にバレてしまう。それに、疲れのせいで僕の服も土で汚れている。全身に汗の匂いが染み込んでいるし、会わなくてよかったのかも知れない。


「なにしてんの」


 ため息と同時に聞こえた声に、心臓が大きく跳ねる。振り返ると、お母さんが玄関から顔だけを出してこちらを見ていた。眠いのか、眉間には大きく皺が寄っている。


「庭、掘り返したりしてないよね」

「……うん。ちょっとペン落としちゃったから探してただけ」


 お母さんは僕の全身を下から上へ、訝しむように眺めた。


「見つかったの?」


 僕は頷く。


「他には?」


 他にって、何? と僕が問う前に、お母さんは眠そうな重たい口を続けて動かす。


「他には何か見つけたの?」


 ぼんやりとした瞳が、僕をまっすぐ見つめている。何か、僕の内側を探るような。心臓を握られているような。


「何もなかったよ」


 石のように固まった体をそのままに、僕は口だけを動かした。思考がロックされたかのように真っ白だ。内側を探る母親の目に、何か知られてはいけないものがある。それを隠そうと、僕は動かない口角を持ち上げてお母さんのシルエットだけを見つめ返した。


 お母さんは「そっか」とだけ言って、玄関のドアを閉めた。庭に僕と沈黙だけが取り残される。小さく息を吸った瞬間、思い出したかのように蝉が忙しく叫び出した。


 全身の力が抜けて、沈むように地面に倒れ込む。土の感触が背中を撫でた。また吐き気が込み上げてきたが、もう胃液すら上がってこない。呼吸が重い。瞼が重い。全身が重い。


 このまま、起きたら土の中かもしれない。そんなことを考えながら、僕は抗えない眠気に沈んでいった。






 じゃり、と土の音が口内に響き、目が覚めた。電気ショックを受けたかのように、びくりと体が揺れる。全身にべったりと汗をかいていて、くっついたシャツが酷く不快だ。喉の奥が痛い。


「あ、起きた」


 耳鳴りの隙間から聞こえた声の方に目をやると、真っ白な肌が目に飛び込んできた。真白さんが僕を覗き込んでいる。その隣で、中原が心配そうな顔でこちらを見ていた。


 おまじないが成功してしまったのだろう。なんとなく、こうなる気がしていた。


 冷静な頭に反して揺れる視界の中、手が小刻みに震えていることに気がついた。全身が鉛のように重たい。


「脱水症状かもしれない」


 中原が呟いた。


「僕、飲み物もらってくるよ」

「私も行く」


 彼に続いて、真白さんは立ち上がる。彼女の一歩目を中原は静止した。


「苗木さんはそこにいて。何かあったら困るし」


 そう言って、彼は僕の方に視線を促した。

 何かって、なんだよ。僕に? 真白さんに? 何かって何。

 答えを言わないまま、中原は僕の家のドアを開け、その中に消えた。


「真白さん」


 僕の小さな声に、「何?」と彼女は少し顔を傾けた。黒い髪がさらりと重力のまま垂れる。


「中原……くんは」


 僕の問いに、真白さんはにっこり笑った。


「中原くんは帰ってきたよ。おまじないは大成功」


 ありがとね。悠飛くん。と顔の前でピースし、少し指を折り曲げた。 


 慌ただしく玄関から中原が出てくる。握られた麦茶のペットボトルの表面についた水滴が、彼の手を濡らしていた。


「朝凪くん、大丈夫……じゃないよね。お茶飲める?」

「……ありがとう」


 重い体を持ち上げ、中原に渡された麦茶を口に運ぶ。まだ手が小刻みに震えていて、口からお茶が零れ落ちた。乾燥した唇が濡れていく。冷たい麦茶が胃に落ちていくのが分かった。少しお腹が痛い。


 震える手で土を踏み、体を起こす。

 目の前で不安そうな顔をしている中原の体に、土がついたような汚れはない。キャリーケースに入っていた時と同じ、皺一つない白いワイシャツを身に纏っている。


「お風呂に入ってきたほうがいいんじゃない?」


 体が動くならだけど、と真白さん。


「無理そうだったら着替えとボディシートを持ってくるよ」

「いや、大丈夫」


 フラフラと立ち上がり、足を引き摺るようにして僕は風呂へと歩みを進めた。







「へえ、凄い。中原くんもう宿題終わったんだ」


 シャワーを浴びて全身の痺れがなくなった頃。3人分のお茶を持つ僕の耳に、いつもの縁側から真白さんの楽しそうな声が聞こえてきた。


「他にやることがなかっただけだよ」

「今度写させてよ。ね、お願い」


 中原が困ったように頷くのが視界に入った瞬間、僕はわざとらしく足音を立てた。


 宿題を一緒にやろうって。それで僕の家に真白さんは来てくれていたのに。僕の家で、僕の場所。彼女の隣に隙間がない。それがどうしても許せなくて、大袈裟に咳払いまでしてみせた。


 そもそもどうして中原までうちに来ているんだ。


「あ、悠飛くん」


 ようやく真白さんが顔を上げた。


「何してたの?」

「中原くんとおしゃべり」


 そんなことは見れば分かる。僕抜きで、何をしようとしていたのかと聞いているんだけど。

 怒りに任せないように、慎重にお盆を床に置く。それでも少し麦茶がこぼれた。


「ありがとう、朝凪くん」


 僕の怒りを知ってか知らずか、中原は申し訳なさそうに言った。


 彼女と約束した夏休みの宿題は、まだ少しも進んでいない。それでも、『宿題』という手札が中原に取られてしまったような気がして。僕は真白さんに目を向けて言った。


「真白さん。明日、一緒に川へ遊びに行こうよ」

「いいね、夏らしくて」


 そう笑った彼女の顔を見て、僕は小さくガッツポーズをする。

 見たか、中原。彼女は僕と過ごすんだ。お前なんかよりずっと楽しく。

 そんな僕と同時に、真白さんは中原に鼻先を向けた。


「中原くんも一緒に行こうよ」

「はあ?」


 真っ先に返事をしたのは僕だった。彼女は聞こえていないふりをして、気にせず続ける。


「いいよね、中原くん」


 彼女の瞳に映る彼はといえば、やはり困ったように僕と真白さんに交互に目をやっている。合間に小さく「ううん……」と声を漏らした。僕に気を遣っているのだろうか。


 真白さんは焦ったそうに眉に皺を寄せる。


「中原くんは私のモノなんだから、来るのは当然でしょ」


 彼女の、鋭く細められた視線の先を追う。中原は、大きく目を見開いて


「うん。そうだね」


 と頷いた。


 僕の夏休みが、崩れていく音がした。




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