雨の娘
市街地
雨の娘
閑はうすい唇に笑みを浮かべて、わたしのてのひらが彼女の首筋を包み込むのをみつめている。わたしは手に力を込めて、頸動脈を押しつぶすように、彼女のほっそりとした未成熟な首を絞める。閑の顔は、カーテンのすきまから差し込むあざやかな夕陽のせいか妙に赤く染まっていて、ぼうっとした表情も相まってどこか官能すら湛えている。わたしは頭の隅で自分がひどく恐ろしいことをしていると自覚しながら、同時にいまのわたしたちがなにか途方もなく美しいものに感じられて、永遠にこうしていられたらよいとも思っていた。わたしは彼女の瞳から目を離せずに、じいっと、彼女のおおきな、凪いだ黒目を覗き込んでいる。そのなかには焦燥と興奮の入り混じった表情の自分が写り込んでいて、殺人犯はこういった表情で人を殺すのかもしれないとなんとなしに考える。事実わたしは殺人行為の只中におり、これからただしく殺人者となるわけだけれど。ぼんやりとした、熱に浮かされたように現実味を欠いた心地のままに、とくとくと脈を打つ閑の首を絞め続けると、じきに彼女は意識をなくした。それからしばらくして、わたしは彼女の首筋からゆっくりと手を離す。脈はとうになくなっていた。触れた肌はやわらかく、まだ温度も生きている人間のそれであるけれども、静かに、着実に彼女の身体は熱を失っていった。人の死を目にしたのは、また自分が人を死に至らしめたのは、わたしのそう長くない人生の中で初めてのことであったけれども、思いのほか衝撃はなく、すべてが作り事であるかのような不可思議な浮遊感だけがあった。
わたしはしばらく座り込んで閑の肢体を眺めていたけれど、空が群青色から濃紺に変わったころにようやくけだるい身体を起こした。まずい水道水をひとくち飲んで、閑が生前にわたしに告げたとおり、彼女の身体を処分し始める。閑の身体は冷たく青白く、一条の月光の下でこの世のものと思えぬうつくしさだった。わたしは閑のふくらかな頬を撫ぜると、ひらいたままであった瞼をおろした。そうすると、先ほどまでは生々しさも目だったけれど、もう彼女は一体の人形であるように思われた。素朴ではあるが整った顔立ちをしている閑は、こうして目を閉じているといかにも柔和だ。
ずっとわたしはこんな人形を欲していたのだろう。否、わたしの欲していたものは、正しく閑自身であった。うつくしい少女であればなんでもよかったというわけではけっしてない。わたしは長く望んでいたものと出会えたことに今更のように気が付いて、それをすぐに手放さなくてはならないというわかりきったことが悲しかった。閑の身体をずっと手元において、異臭騒ぎでも引き起こす無思考さがあったら却ってよかったのかもしれない。閑の指示があったことも大きいけれど、ろくに物事を考えることもできない出来損ないのくせ、衝動に任せた行動もできやしない中途半端な理性が疎ましかった。
わたしは幾度目とも知れぬ溜息を吐きながら、閑の身体をゴミ袋に詰め込み、あらかじめ借りておいたレンタカーに載せる。使い古したバックパックに軍手と水筒、昼間に閑のつくってくれた弁当を詰め込むと自分も車に乗り込み、そのまま田舎へと車を走らせた。田舎には祖父の所有する山があり、そこにはめったに人が立ち入らない。閑にその話をしたら、そこに自分を埋めろと彼女は言ったのだった。
高速道路を飛ばして、田舎にたどり着いた頃にはすっかり陽も昇りきっていた。麓に車を止めると、ゴミ袋を抱えてわたしは山を登る。山というのは名前だけで、丘といっても差し支えないくらい低く、傾斜もゆるやかなものだ。ただ木々は鬱蒼として、昼間も光を通さない。季節も時間も問わず、陰気な雰囲気のところだ。重い荷物を持っていることもあって、十数分で中腹あたりに着くと、わたしはビニール越しに、閑の華奢な身体を意識して抱き締めた。生きているころにこうしてみたら、閑は応えてくれただろうか。きっと応えてくれたに違いない。虚しいおこないだとわたしは独りごちた。そしてビニール袋の口をひらいて、閑の硬直した指に自らのそれをして絡めてみた。これも、初めて試みることだった。わたしは思春期の少女みたいに胸を高鳴らせて、閑の指先の、爪のかたちまでもを覚えきってしまおうと自らの指でなぞる。冷たい肌はこれまでのどの彼女よりもうつくしく、いとおしく思われた。しばらくわたしは陶然とその行為に耽っていたけれど、ふと我に返り閑の身体をおろして、急ぎやわらかく湿った土を掘り始めた。用がないから立ち入るものはすくないけれど、わたしがしているように、足を踏み入れることは誰にだって可能なのだ。ふかくふかく、わたしのからだも埋めてしまえるくらいの穴ができると、閑のなきがらを袋から出して、その底に横たえた。閑のまっさらな頬には気づくと一匹の羽虫が止まっており、それがわたしにはひどく痛ましく思われた。それだから、いまだ名残惜しさもありはしたのだけれど、すぐに彼女の身体に土を被せて、すべてわたしの視界から消してしまった。
わたしはゴミ袋にスコップと軍手を突っ込み、車に戻った。運転席に座って閑のつくった弁当を口にしながら、こういうときの食事というのはふつう味のしないものじゃあないか、いつも通りに美味しいのはわたしが薄情であるせいか、などと考えていた。
弁当箱を空にしてから、わたしは閑への手向けに、花でもあったらよいと考えた。彼女に似合う花がいい。わたしの実家というのは面積だけがとりえのふるぼけた平屋で、むだに広い庭には母の趣味でとりどりの花の植えられた花壇がある。この時期には朧な記憶によると背丈の低い向日葵が暑さに萎れていたと思う。わたしが名前を知る花はそれくらいしかなかったはずだ。特に興味もなかったから忘れているだけかもしれない。ともかく、実家に行けば何かあることは確かであるはずだ。しかしながら、母はわたしがそれを触るとうるさいため、かといって花屋に行くほどの甲斐性もないわたしは、車から出てすぐに見つかった山百合の一本を手折った。それを助手席の、バックパックの上に投げ出すと、白い大輪は、狭い車内をあまい芳香で満たした。シートに花粉がついたらどうしようとか、そんな懸念が頭を過ったけれど、わたしはすぐに実家へと車を発進させた。思いつきで行動してしまったけれど、花の始末なんて、わたしにはまるでわからない。
庭に車を停め、あざやかで目に眩しい花々を横目に実家の玄関の引き戸を開ける。いまだに鍵をかける習慣を持たないのどかな田舎町だ。両親は日に焼けた赤黒い顔でわたしを迎えた。
「あら! 突然帰ってきてどうしたの? 久しぶり、あんたちゃんとやってるの? 少し痩せた? もう、連絡してくれたら何か用意したのに。」
矢継ぎ早の母の言葉にわたしはたじろいで、うなずいて目をそらした。口調は変わらないけれど、垢じみて皺の増えた顔は、記憶のなかにいる両親のそれとちがっていた。いかにも田舎の老夫婦といった風貌がなにかいたたまれない気持ちを呼び起こすので、わたしは出会い頭から逃げ出したくなってしまった。一晩泊めてもらったら帰ると告げると、両親は二人して似通って残念そうな顔をして、母はそうとだけ言い、父は黙ってうなずいた。子を理解しているとでも言いたいのか、それとも単純に知りたくないのか、近況が尋ねられないことに安心すると同時になにか悲しかったし、ろくでなしの、不孝者の娘にも会いたがるものかとひどく申し訳ない気持ちになった。きっかけは閑でしかなくて、わたしは今でも両親に会いたいだなんて微塵も望んでいないし、むしろ彼らと対面しているのがひどく気まずくて、今すぐにでもこの場を去って、疲れた体で自室まで高速道路を飛ばして帰りたいと思っている。途中で居眠り運転でもして事故をおこしたっていい。地獄を薄めたような日々をいちにちいちにち生きていく苦痛よりも、事故に遭って死ぬ際に感じる苦痛のほうが、ずっと少ないだろう。
結局わたしは実家で一泊して、それから翌日の夜近くにようやく、閑と暮らした、狭くて暗い、じめじめした部屋に帰った。実家での食事は味がしなくて、いわゆるおふくろの味なんかよりもただわたしは閑の手料理が恋しかった。それが親不孝の明確な証左であるような気がして、閑の不在もあいまってわたしはただ悲しかった。しかし瞳は乾ききっていて、涙の一粒も溢れることはなく、一人がすっかり寂しくなったせんべい布団に転がって、ただうす汚れた天井と、オレンジ色にぼうっと光る豆球を眺めていた。
閑というのは、わたしの部屋で居候をしていた少女の名である。ついぞその出自について知ることはなかったけれども、初めて会った時の閑は、どこかの中学校の制服を着ていたようだった。艶のある、肌滑りのよい素材でできたカッターシャツには、胸元に校章であろうもようが臙脂いろの糸で縫い取られており、縫製もよいものだったから、おそらくどこかの私立中学校のものだろう。それから察するに、それなりの家柄の出だとわたしは思っていた。その娘が、わたしのようなろくでなしの万年フリーターのもとにいて、捜索願も出されないのは不思議なことではあるけれども。ただ閑についてわたしが正確に言えることというのは、彼女がひどく従順で、物分かりのいい少女であったということ、それだけである。閑に自身のことを問おうとすると、常ならば回る口はぴったりと閉じられ、あの長い睫毛を伏せてあいまいな笑みを浮かべるだけだった。
わたしと閑が出会ったのは、ある肌寒い、雨の日のことであった。
閑はその重たそうな睫毛に雨水を溜めて、雨の街角に佇んでいた。どこかで雨宿りでもすればいいのに、わざわざ雨天の下、亡霊のように棒立ちになっている。シャツは濡れそぼち、肌にぴったりとはりついて細い身体のラインを透かしている。黒髪は艶を増し、首筋から背中のなかほどまでを覆い隠す。わたしはその俯いた横顔に、なにか引き寄せられるように、傘を差しだしたのだった。
「こんなところで、なにしてるの。」
閑は掠れたわたしの声に顔を上げると、ゆっくりと瞬きをした。雨粒が睫毛からぽろりと頬に落ちて、泣いているようでもあった。わたしはほんの少し動揺する。閑の瞳はまっくろで、底の見えない水面みたいだった。
「えっと……。」
「答えられないようなこと?」
閑はなにか躊躇うようなそぶりを見せて、ようやくこくりと小さく頷いた。
「風邪ひくよ。」
閑のいまだまるさを残した頬は青褪めたように白くて、近くにいるだけでこちらまで冷気に浸されるような心地がした。唇はラベンダーいろをしていて、場違いにきれいな子供だと思った。
「そうですね。」
閑は眉を下げた。ちょうど迷子になった子供みたいな、途方に暮れたような表情だ。
「うちで雨宿りしてく? 近いんだけど。」
わたしはそう言った自分に少なからず驚いていた。雨に濡れる子供にも犬猫にも、関心を示したことなんてないはずだった。声をかけること自体想定外なのに、お世辞にもきれいとは言えない自分の室に、他人、しかも子供を通すなんてことを考えるのは、常のわたしのするところではない。
「いいんですか?」
「もちろん。」
「……よろしくお願いします。」
閑はすこし震えた細いソプラノでそう言った。掴んだ手は想像以上に冷たくて、生きていることが不思議に思われるくらいだった。第二次性徴を目前にして、まだ閑の身体は肉付きが薄く潔癖なまでの華奢さだった。
自室に帰り、すぐ給湯器のスイッチをいれた。玄関の三和土で、室内に立ち入ることを躊躇う閑の背を押して、とりあえずタオルを渡す。しとどに濡れた髪から、制服から、水滴が滴り落ち、閑の足跡には水の道ができていた。閑は申し訳なさそうな顔をして、そうっと体を拭い始めた。
「……そういえば、名前、なんていうの。」
閑は手を止めて、こちらに視線を寄越す。睫毛は雨水のせいか自前のものかわからないが依然として濡れ光って重たげである。
「閑です。閑と、いいます。」
閑はうすい唇をひらいてそう言った。
「閑。」
「はい。長閑の閑で、シズカです。」
「そう。」
わたしは重たく息を吐いた。閑、と口の中で呟いてみる。初めて口にしたそれはまるでずっと前から呼びなれた名前であるかのように、奇妙にしっくりと舌に馴染んだ。
給湯器が機械的な音声で風呂が沸いた旨を知らせると、わたしは閑を脱衣所へ追いやった。白くすべらかな、つくりものみたいにつめたい肌がわたしをおかしくしかねないと思ったこともある。むろん、その冷えた身体が、かわいそうであったからでもあるけれど。
「タオルはそこにある。脱いだ服はカゴの中にいれといて。服は抽斗にあるから適当なの着て。……あ、あとそのシャツ、洗濯機じゃだめなやつ?」
「ありがとうございます。えーと、それ、私がやるので大丈夫です。」
「いやだって……遅くなるよ、帰るの。わたしは構わないけど。」
はい、と扉越しに、漏れるように声を聞いた。閑はそれきり黙り込んで、やがて風呂場の扉の開く音がした。シャワーの水音を聞きながら、なにかいけないことに足を踏み入れているという確信が、あいまいながら濃く胸の奥でわだかまっているのを感じていた。結局のところわたしは病気で、わたしの直面する現実だって病んでいるに相違なかった。
閑はわたしのスウェットを着て風呂場から出てきた。襟ぐりが彼女には深いらしく、鎖骨の窪みがよくみえた。さきほどよりは血色もよく、はりつく濡れ髪の隙から覗く耳は、出来の良い、端正な白磁にうすく紅を刷いたようだった。わたしはひそかに嘆息した。
「お風呂、ありがとうございました。」
「うん。髪、乾かさないと風邪ひくよ。」
わたしは閑を座らせて、ドライヤーを持ち出した。閑の髪は子供特有のやわらかさと細さを色濃く残している。わたしとおなじシャンプーを使っているはずが、彼女の髪は妙にかぐわしく感じられた。
「私、自分でやります。」
「いいから。閑ちゃん、帰り道わかるの。」
「呼び捨てで構いません。」
「えーと、じゃあ……閑。迷子だったの?」
閑は口ごもって、迷子ではありませんとだけ口にした。閑はそう饒舌なほうではなかったものの、訊かれたことに関しては明瞭に答える少女だった。たぶん育ちがよいのだろう。だけれど、わたしに出会う前のことにかんして、彼女はひどく歯切れが悪く、口を閉ざしてしまうことが多かった。
「じゃあ、帰ればよかったのに。寒かったでしょ。」
そういうと閑は黙り込んで、俯いた。視線のゆくえを探ると、それは机の上で組まれたいかにも繊細で神経質そうな指先に向けられていた。桜の花弁のような色あいの爪は、そろって深爪ぎみに切られている。そして彼女はおずおずと口を開いた。
「あの。お願いがあるんですけど。」
「うん?」
「ここに、私を置いていただけませんか?」
閑は振り返って、上目遣いにわたしを見上げてそう言った。閑の瞳には蛍光灯の白さが映り込んで、そのせいか、そもそも彼女自身が光っているのか、わたしにはわからないことだけれど不思議に眩しかった。
わたしと閑との同居が始まったのはそれからのことで、それはじつに穏やかに、わたしが彼女の首を絞めた日まで続いていたものだった。時間にしておよそ二年、その間に閑の身体は徐々にその幼さのなかから脱して、成熟した女性へと近づき始めていた。わたしはそれに少なからず安堵して、同時に失望を覚えてもいた。おとなの女は、趣味ではなかったからだ。わたしの女の好みはきっと特殊で、世間様からは石を投げられるようなものだろう。恋情を、あるいは性欲を抱くわけではないと自分では認識しているが、それが何であるかだなんてわかったものではない。ともかくわたしは目にする対象として少女を好んだ。かつそれが動かない、生きていないものであったらなお好ましく思う。わたしが自分の、少女に対する感情にたいしてあいまいな自認しか持たないのは、わたしにとって彼女らと接点を持つ機会がなかったためであり、またわたしが臆病で行動力に欠ける人間であったためだ。
わたしが閑を殺すに至ったのは、ひとえに閑がわたしを唆したためであった。
「閑。わたしがなんで閑に声をかけたか、わかる? あの日。雨の。」
深夜バイトから帰宅して、わたしはてきとうにシャワーを浴び、薄っぺらな布団に腰を下ろした。枕元で安いチューハイの缶を握りつぶす。閑は眠りが浅いらしく、わたしが帰るたびに目を覚ますのだけれど、今夜は布団に身を横たえたまま、寝ぼけたようなとろんとした瞳をうすくひらいて、わたしをみつめたままに黙りこくっている。
「考えてみたらね、わたし、ずっと閑くらいの年頃の女の子が好きで。それだから、あんたと暮らしているんだと思う。」
「そうですか。」
ようやく口を開いたと思ったら、返ってきたのはたった五文字の、静かな声だった。寝起きのそれは、いくらかぞんざいなふうに響く。
「どういうことか、わかってる?」
「わかってますよ。きっとぜんぶ、最初から。」
閑はねむたげにゆっくりと瞬きをする。それが当然の、周知の事実であるかのように、彼女はわたしの推し隠していた欲望を肯定した。すくなくともわたしにとっては、否、きっと彼女にとってもそうだった。
「すべてわかったうえでのことです。ね、早く寝ましょう。」
閑は凪いだ瞳でわたしを見据えて、布団を軽く持ち上げた。強い口調ではけっしてないけれども、なにか強制力をもった不思議な声色だった。彼女の瞳は据わって、底光りする。
「それはつまり……、わたしのことを、許すと言っているの。」
わたしは閑の隣に収まって、彼女から顔を背けてそう言った。口に出してみると、思いのほかみじめな色を帯びていて、わたしはすこし後悔した。ろくなことを言えない、できもしない人間は、じっと黙り込んでなにもせずにいるに限る。きっとわたしのおこなうことはすべて間違いだった。
「お姉さんが望むのなら、私もきっとそう望みます。」
閑はおやすみなさいと言った。静かな声だった。その声が妙になまなましく、耳元で発されたもののように感ぜられて、わたしはわずか息を止めた。しかしそれからすぐに眠りに落ちて、目が覚めたら、太陽は昇りきって、西の空への道を辿り始めたころのことだった。
閑はめずらしく、わたしの隣でねむりこんだままだった。つとめて静かに、わたしが布団から身を起こすと、背中に声が投げかけられた。寝起きとは思えないような、昨夜のぼんやりとした声とは似ても似つかない、はっきりとした声だった。
「お姉さん。」
「……起きてたの。」
「私、来月の今日で十五になるんです。」
「そう。」
ケーキでも買う? とわたしはしいて明るい声を出してみたけれど、閑の思いつめたようなまなざしに口を閉ざす。
「それで、何が言いたいの。」
「……お姉さんに、私を殺してほしいんです。」
閑はすこしの逡巡ののち、きっぱりとした口調でそう言った。彼女の言葉はいつもどおりのやわらかな声色で、わたしに請うかたちをとっていたけれど、その実わたしに決定権はなく、きっとそれはきまりきったことだった。わたしは当然たじろいだけれど、実際そんな予感はずっと、閑に出会ってから胸の奥底で、ときたま危険信号のように瞬いては消えを繰り返していた。きっとわたしは閑を殺す。彼女に出会った際の危機感は、わたしがそんな確信をもっていたからだろう。
わたしは何かに突き動かされるように頷いた。無力だった。そういう意味でなくたんに同居人として、また一人格として彼女を好いていたのにと落胆のような感情を覚えたけれども、同時にうつくしい形をした少女全般に抱く、何らかの執着のような感情を抱いていたことも確かであった。わたしは彼女を殺すことができるということに、確かに興奮を覚えていた。彼女に許された、否請われたということを、免罪符のように心中に掲げながら、それになにか酔っていたのだと思う。
閑はわたしの首肯を受けて身を起こした。ごはんにしましょうかと、いつもどおりに控えめな、やさしい笑みを浮かべる。
食事を終えてから、閑は自身を殺すうえでの計画について話し始めた。できれば道具のたぐいは使わないで、素手がいい。それならば首を絞めてしまうのが手っ取り早いと思う。閑はそんなことを言った。彼女は存外ロマンチストなのかもしれなかった。彼女はいまだ十四の少女なのだと、今更のように気がついた。閑は見目こそ少女そのものだったけれど、年頃らしい、幼い言動をとることがあまりない娘だった。わたしはわかったとだけ短く告げる。少女の死に直接触れることの出来る手法は、きっとわたし自身の望みでもあった。
「ありがとうございます。」
閑はすべてを見透かすように、またうれしそうににっこりと笑った。十四の少女の浮かべるそれにしてはきれいすぎるような、完璧な笑顔だった。わたしはなにもできないで、食卓の前に座り込んでいる。
「閑。」
「はい。」
「わたしは、閑が……、」
わたしは口を開いてから、いうべき言葉を探していた。というよりも、彼女に言いたかったことは閑と名を呼んだ時点で煙のようにかすんでしまい、立ち消えてしまったようだった。好きだとでも言おうとしたのだろうか。わたしの閑に対する感情は、あるいは衝動は、きっとそれだけで収まるようなきれいなものではない。かといって代わりの言葉を見つけることもできず、何を言っても嘘になってしまうような気がした。わたしは不誠実な人間だから、いまさら嘘を重ねることに何の躊躇いもありはしないのだけれど、閑を前にするとなぜか言葉に詰まってしまうことが多かった。
「閑は、死にたかったの。」
暫く考え込んで、ようやく絞り出したのはそんな一言だった。責めるような響きさえ帯びている。
「お姉さんの手で、死にたかったんです。」
閑はわたしの目を見つめてそう言い切った。薄暗い室内で、閑の瞳だけはきらきらとひかってみえた。深い決意があると見え、いくらか冷たい響きを帯びる。
「私が好きですか。」
閑は何でもないことのようにそう訊いた。わたしが気圧されてこくりとうなずくと、彼女はそうですかと笑みを浮かべる。今度はやわらかな声色だった。
「私はお姉さんに好かれたいんです。お姉さんは、おとなの女はお嫌いでしょう。……あと。殺したいんでしょう? 私の死んだところが見たいんじゃないですか。お姉さんが望むのなら、私はすべて叶えたいんです。」
「なんで、そこまでするの。」
わたしの声は情けなく震えた。十四の少女に翻弄されきっていた。か細い少女らしいやさしい声音で、場の支配権を握るのは間違いなく閑であった。わたしは彼女のことを好ましく思っていたけれど、同時にいつだって彼女にたいしてなんらかの恐れを抱いていたような気もする。
「そういうものだからです。私にはこれしか、生き方がない。」
閑は諦めたように、唇だけを笑みのかたちにした。すこしゆがんだ表情もきれいで、わたしはなにか悲しかった。
その夜、寝床でも閑は子供に寝物語を聞かせるみたいなやさしい口調で、それまでしていた彼女自身の死の話をした。わたしがとろとろと眠りにつきかけるたび、閑はくすりと笑って、ひそやかな、囁くような声でいいですよと言った。それを何度か繰り返したのちに、最後にわたしが感覚したのは、閑の小さな手がわたしの頭上に伸ばされて、わたしなんかの頭を、なにか繊細なものに触れるような手つきで撫ぜているところだった。
翌日はなにもする気になれなくて、結局アルバイトも無断欠勤し、一日中閑とすごした。閑はきまじめな顔つきをして、自分の身体の処遇を考えているらしかった。
「わたしの身体はどうしましょう。通報などされたら堪りませんし……。心当たりはありませんか。」
「それなら、故郷の山はどう。おじいちゃんの所有なんだけど。おじいちゃんはだいぶ前から臥せっているから、誰も入らないはず。きっと都合がいい。……わたしとしては、ずっとそばに置けるのがいちばんなんだけど。」
「それは、うれしいことですけど。お姉さんが捕まるのは私としても本意でありません。私のことを覚えていてくだされば、私はそれでいいんです。」
ではそこに、埋めてくださいね。閑はそう言って微笑んだ。
「……わたしは、閑がいなくなったあと、どうやって生きていったらいいのかわからない。」
「それは告白ですか。」
閑は息だけで笑って、なにか台詞でも読み上げるような口調でそう言った。なにも感じていないような、すべて展開が読めているみたいな、機械的に冷たい微笑だ。わたしが閑に迫ったら彼女は受け入れるだろうし、そういった感情を抱いていたほうがまだ健全で、ことは単純だっただろう。
「そんなの、わたしがするわけ…………。」
わたしは泣きそうだった。こんなときに泣けるほど感受性の高い人間だったら、またそれを表現できる人間だったのなら、もう少しは上手く、真っ当に生きられたのかもしれないと思った。そうしたらきっとわたしは閑を必要としなかったし、彼女との同居は正しく保護で、それが終わるのは閑が保護者の元に帰る決断をしたためだっただろう。乾いた瞳に尽きかけの目薬を点して、わたしはひとつ、深い溜息を吐いた。後悔ばかりをしている。わたしの行動はぜんぶまちがいだ。この現状もいずれ後悔することは自明であるけれども、それを変化させる努力をわたしはせず、ただ将来を、現在を、過去を、すべて嘆きながら惰性で生きていくらしかった。
それから閑の望み通り、閑の誕生日前夜にわたしは彼女の首を絞めた。とくとくと打っていた脈は動きを止め、もとよりおとなしいほうであった閑は完全に、なにひとつ音を発さなくなった。土の下に埋められた彼女の身体はいまごろ腐って、かつての美貌は見る影もなくなっているのだろう。わたしがそれを見届けないのはひどくずるいことに思われて、なにか罪悪感に襲われた。そんなことは閑の望むところでないということを、わたしは知っていたけれど、それでも自責の念はわたしを苛むことをけっしてやめなかった。
わたしはいつまでも、そうやって鬱々としたくらしを続けていくかと思われた。そもそもが陰気な人間であるし、そう長くは続かないけれど塞ぎ込むのはそうめずらしいことではない。わたしが定職につけないことには、わたしが能無しであるというのはむろんのことであるけれども、そういった情緒の不安定さも少なからず関係していたと思う。以前よりも睡眠も食事も減って、生活は荒んでいく一方だった。わたしは奇妙な冷静さで、こうしてずっと、飽きずに落ち込むことができたのかと自分自身に感心してもいた。とうに花としての時期を終えた山百合も、わたしを苛む一因として、一人の部屋で、腐臭を放ち続けていた。
だいぶ頻度を減らしたアルバイト帰りのことで、ひどい雨降りの朝だった。わたしはビニール傘を差して、ふらふらとした足取りで家路を辿っていた。活動量が極端に減っていたわたしは、数時間の立ち仕事でも疲労困憊していた。息苦しい浅い呼吸の合間に、はあ、と重たい溜息が自然と口から漏れる。途端、なにか冷たいものが、手持無沙汰にだらりと下されていた左腕に巻き付いてきた。雨水に濡れ光る。青褪めたように白い両の手だ。この手の持ち主はかなり華奢なのだろう、手自体も小さいけれど、それ以上に細く、よわよわしさが際立っている。しかし。突然腕をつかまれるのはなぜだろう。わたしはようやくその疑問にたどり着いて、緩慢な動作で後ろを振り返った。ここいらは治安が悪くはないはずだけれど、けっして良いとはいえないから、貧困児のひったくりでもおきるのだろうか。よりにもよってわたし選ぶだなんて、運のないやつ。わたしは深爪ぎみの、淡いピンク色をした指先に強い既視感と、同時になにか出所の知れない恐怖感を覚えながら、それをようやく視界にとらえる。
「お姉さん。」
少女だった。彼女は、囁くような声量でそう言った。それだけで、わたしの身体は悪寒からか強い喜びからかぶるぶると打ち震え、自分の吐く息の熱さに、現実味を持って気が付いた。少女の額には濡れた黒髪がはりついて、しかしその表情は、じゅうぶんすぎるほどによく窺える。長い、密に生えた睫毛の奥の、凪いだ水面のような瞳が、静かにわたしを見据えている。
「お久しぶりです。私です、閑です。覚えていますか。」
彼女はわたしが出会った当初の閑であった。わたしは言葉も発せずにそのほそい身体を力任せに抱き締めると、閑がくすりと笑い、空気の動く気配がした。生きている彼女を抱き締めるのは初めてのことであって、これが動くのか、熱をもっているのかということに不思議に感動した。そのままの体勢で閑はわたしの背をやさしい手つきで撫ぜると、おさない子供に言い含めるように言った。
「お姉さんがこうしたかっただなんて知りませんでした。ずいぶん情熱的なんですね? 人目につきますよ、帰りましょう。」
わたしは早口に謝って、閑の胴にまわした腕を離すと、閑を傘の内にいれた。そうして傘をもっていない左手で、閑の手をしっかりと握りしめる。冷たいけれど、たしかに彼女はここに存在していて、呼吸をして、その声でわたしを呼び、わたしの抱擁を甘受する。そしてきっと、これからもう一度彼女はわたしの手によってわたしの望むものになる。冷たい空気のなかで、わたしの脳味噌ひとつがとうに茹だって使い物にならず、これからの閑とのふたたびの生活と、閑のあの静謐な冷えた身体にもういちど触れることだけを思い浮かべていた。ひとつ傘の中だけが世界で、雨音に紛れて雑踏は遠い。ひそやかな声は反響して、すこしの身じろぎによりおこる湿気た空気の揺れも、皮膚には鋭敏に感じられる。わたしの手をぎゅうと握り返す閑の指先は、全き少女の繊細さで、わたしの血流を止めるほど、つめたく強く、わたしの指に絡みつく。
雨の娘 市街地 @shesuid
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