第4話 転

 それから数日は、朝から規則正しく過ごした。たまっていたバイトの添削もし、追試の勉強もし、自炊もして。試しに一回あそこにも行ってみたが、やっぱり彼女たちはいなかった。ま、いないということは、危険な目に遭うこともないということで、万一奴らが訪ねて来ても鈴木さんが撃退してくれるだろと、目の前で起こっている超常現象をもうあまり探る気にはならず、鈴木さんと天使さんたちは共存出来ないことを受け入れている自分が少し可笑しかった。それに、心も体も少し健康になってきた気がした。もうこのまま、あの人たちと関与しないままでもいいんじゃないのか、という気にもなった。元々、向こうからしつこく誘われているわけでもない。俺が行くのをやめれば何も起こらない。ついでにあのオジサンもあれ以来訪ねては来なかった。まあ来てももう二度度ドアは開けまいと思っていたが。

そして三日目の夜、少し改まって、俺はみゆきちゃんに電話した。月末に上京すると言っていたし、そろそろ連絡入れた方が良いという予感から。

「ああ、森くん」

予定はまだ決まらず4月にずれ込むらしく、またいつもの、世間話に終始しかけた。優等生ではなかったけど擦れたところもなく、どこか品があって、感じの悪い人ではなかった。しかし明るい割に遠慮しているのかアプローチは極度に控え目で、この人は俺に少しでも気があるのだろうか、といつも疑問に思っていた。LINEやメールも、出せば必ず速攻で茶目っ気たっぷりの返信が来たが、向こう発信で来ることはほぼ無かった。だいたいいつまでも俺を“森くん”呼ばわりすること自体、親密さに欠けているように感じられた。

「あの、まあ、今スマホ無いからアレだけど、この固定電話の番号も、知ってるよね?」

「うん」

「その、いっつも俺の方から掛けてるけど、その、いや、迷惑?」

「え?全然…嬉しいけど…」そんな問いが来るとは思っていなかったか、いや、いつかは来ると思っていたのか、彼女は曖昧な戸惑いの口調で、困っているのは伝わった。

「あ、ごめん、変なこと言っちゃって」追い詰めてはいけないと思いつつ、いや、それはお互いのタイミングを見計らって見逃し三振を何十回も繰り返している俺の決断力の無さの裏返しだと葛藤しながら、言葉を濁した。でも、これまでにないもう一つの感情もあったことは間違いない。

「みゆきちゃん、何か宗教信じてたっけ?」

「え?何?信じてないよ、森くん何かやってるの?」

「いやいや、何も、ちょっと聞いてみただけ」

「そうだよね、でも教会とかの雰囲気嫌いじゃないけど。昔そういうとこ出入りしている知り合いいたし」

「ああ、そうね、何か厳かで良いよね、そこに来ている人も品良さげで」

そこで見透かされたように言われた。

「森くん、東京で誰か、気になる人出来た?」

「は?まさか、みゆきちゃんこそ、誰かいい人いるの?」動揺して咄嗟に返してしまったが、しまった、この返しは良くない。お互い疑い合っているようで話が悪い方向に行ってしまう、と思っていたら想定外の答えが返って来た。

「え、いないことないけど・・・」いないことない?そこで急速に心が折れ始め、何だか急に謝りたくなった。そんな人がいるのに俺からの連絡にはいつも気持ち良く答えてくれて、しかも何でそっちからかけて来ないんだなんて筋違いなことを言って。でもみゆきちゃんは焦ったように言葉を続けた。

「ちゃんと来てね!決まったら連絡するから」そう言われてますます意味が分からなくなった。

「ああ、でも何かそのぉ」”いい人”を追求することでさらに深みにはまるのも嫌だったし、ま、彼女の”いい人”でないからと言って、引越しを手伝わないとしたら了見が狭すぎるのか。

「そういえば何かこないだ、同い年くらいの知らない男子に不自然に道を聞かれて中々離れてくれなくて」

「そ、そうなの、気を付けないと、ストーカーかもしれんよ、それ」

「そういう感じじゃなかったけど、ま、大丈夫っしょ」おかしな奴でないにしてもそういう男子が彼女の前に現れる可能性は十分にあって、でもそれを全力で阻止するような心の燃え上がりも“いないことないけど”で吹き飛ばされた。何となくギクシャクしたやり取りの中、俺は少しの傷心のまま、でも頭には、あの夕日で黄金色になった天使さんの顔が浮かび、必死にそれをかき消そうとしていた。


しかしその晩、またアレが来た。体が動かない。頭はハッキリしているし目も開けられる。でも中々治らない。また変な、何を言っているか分からない呟きが聞こえるが、前回俺を解放したお経のような言葉では無い。深く恨めしい、不満のような怒気を含んだ呟きだった。だんだん大きくなるが、耳元で話しているのではない。頭の中にわんわん響くような声。暗闇で、必死にそれが行き過ぎるのを待った。いつの間にか、気を失ったように寝てしまったのだろう。その後の記憶が無い。

翌日起きてみると、既に昼だったが、流しでコップが割れていた。ただ水を入れてシンクに置いていただけのコップが、真っ二つに割れていた。血の気が引くように頭の辺りがサーッと涼しくなり、やがてジンジンして来たが、敢えて特に何も考えず、俺はそれを事務的にレジ袋に入れて不燃ゴミ箱に入れ、出がけの支度をした。それにしてもちょっとうますぎるタイミングだな、次々に。俺に機器を買わせるためにあいつら何か仕込んだか?俺は数日前に見た駐車場の三人の姿を思い浮かべた。でなけりゃ、本当に邪悪なものが俺をロックオンしたか?胸の奥から何かが染み出て来て目の前が回るような感覚に襲われ、部屋にいるのも落ち着かず、どこか人の多い雑踏に紛れたくなった。ふとカレンダーを見たら、もう彼岸の入りだった。数日後に叔母さんのところに行く約束はしていた。今日にすれば良かったと思いつつ、俺はとにもかくにも部屋を出た。


駅前の小さな川沿いの道を西に向かえば、水源である大きな池のある公園があり、その先に宮地を誘った焼き鳥屋のある馴染みの開けた街があった。公園を抜けて階段を上ると、焼き鳥屋の前には昼前から客が並んでいる。都会で知らない多くの人たちとすれ違うと、直接的な会話が無くても妙な安心感があった。これは田舎では味わえない感覚だった。世の中にはこんなに多くの人が暮らしていて、きっと自分とは全く違う世界を生きている。何か世の中全体が自分を追い詰めてる方向に動いているわけではないと改めて感じさせてくれて、そりゃ神様も悪魔も俺一人に集中するほど暇じゃないよなと思わせてくれる。そんな雑踏から一本外れた公園の脇に、少し大きな教会があった。何か以前より親近感がわいたが、教会は建物に入らないとならないので、外に解放された寺社より敷居が高い。それとなく賽銭を投げて手を合わせて立ち去るというようなことが出来ないから入るにはそれなりの覚悟がいる。でも天使さんとかはこういうところに通っているんだなと思いつつ、一応建物の天辺にある十字架に手を合わせて通り過ぎたら首筋に寒々とした風が通り抜けた気がした。そういや大学のある駅の西口の先に教会あるって言ってたなとそんなことが頭を過ったが、きっとそこに一人で行ったところで入り口をくぐる勇気は無いだろうと思った。何か行事があったのか、教会からたくさん人が出て来た。ああ、真面目な人達なんだろうな、天使さんたちみたいな。本当にそういう物を疑いもなく信じて、それだけで幸せな気分になれたらどんなにいいだろうかとも想像した。でもあの人も信者じゃないって言ってたか。それにしても昨晩のあの電話の後のあれや、今朝にかけての三段落ちは何だったんだろうと思いつつ、そこからまた駅の方へ歩いていった。電話はよく考えれば以前から想定していたことが起こっただけで、金縛りに遭ったとはいえ、何か悪霊のようなものが出て来て恐ろしい思いをした訳ではない。ちょっとエスカレートしていたが。グラスが割れたのも何か他に原因があったのかもしれない。何でも超常現象のせいにして結論付けてしまうのは馬鹿っぽい。何より、目に見えない物に恨まれるようなことをした覚えはないし、あの部屋に何かいるならこんな一年も住んでから急に出て来るのも変だ。何か変わったことがあったかと言えば、この春に、彼女たちに会ったことくらいだ。大きな街道の手前で赤信号で足止めを食らった。ああこの程度でもツイてないと思ってしまう、さっき十字架に手を合わせたのにと、そんな自分の小ささがまた嫌になる。幸運が来ないと不運だと短絡的に感じてしまう自分にも反省させられる。きっと人生なんて、幸運でも不運でもない時間が大半で、自分の意思と関係なく地球が回っているのだからそんなこと当たり前なのに。“幸せと幸運は違う”と言った天使さんの言葉が急に思い出された。駅に行くのをやめて、いっそ街道沿いのテレビに出ていた定食屋にでも行ってみるかと思ったその時、見えるはずもないものが目に映った。赤信号の先、駅に近付くにつれまるで砂時計の括れた部分に集まる砂粒のように増えてくる人波の中に、俺はその人の顔、いや俺が知っているよりずっと若いその人の顔を見た。本当に驚くと声が出ないものである。走って後を追いたい衝動に駆られたが、信号無視して渡れるような田舎道ではない。トラックやバスが行き交う大きな街道だった。

”叔父さん?“そんなはずはない、よく似た人がいるものだ。俺はあの焼き場で拾った骨を思い出した。俺もついにおかしくなったか。でもその顔は横断歩道の向こうでもう一度振り返るくらい横顔をこちらに向けた。間違いない、いやそんなはずはない。そのせめぎあいの中で、その人はゆっくり駅の方へ人込みに紛れて行った。

信号が青になると同時に、走って人の波をかき分け横断歩道を渡ったが、駅前に行ってももう姿は無かった。そりゃそうだよなと思いつつ、でもまた別の違和感を感じた。あれ?数日前寝過ごしてここまで来て降りたエスカレーターが上下一列ずつしか無い。確か二列ずつあったはずだが。綺麗だった駅ビルもやけに古臭い。俺の知っているこの街じゃない。一瞬ひるんだが、それを見ていたら、叔父さんもどきを追うよりほかの感情が沸いてきた。やっぱりそういうことだったのか?そう言えばもう三日経ったな。俺は財布からポストイットを取り出し、目の前に当たり前のようにある見慣れない公衆電話に駆け寄り、十円を入れた。繋がる気はしていたが、ガチャっと受話器を取る音がして体が強張った。

「あ、森ですけど、早紀さん?」ちょっと間があった。

「森くん?あたしです」そこまでは予想していなかった。あのゆっくりした、何日ぶりかの声に胸が高鳴った。もうこれ以上この人たちと関与しなくていいかという感情も、街が変わった違和感も、吹き飛んだ。

「天使さん!戻って来たんすね」

「はい、今どこ?」

「近くにいます、電車で三十分くらいのところ、すぐ行きます!」

「そこそこ遠いわね・・・」

俺は受話器を叩きつけるように置くと、エスカレーターの横の階段を駆け上がった。また気まぐれに街が変わらないうちに、着かねば。急いで改札に向かうとまた驚いた。げ、有人改札だ。切符を買えということか。でも何かそういうことかと、腑に落ちた感じはあった。電車の外の風景に何も変化は無い。中も、ぱっと見分からないが、唯一、誰もスマホを見ていない。そういう時間に今、自分がいる。ドキドキはあったが、驚きはそれほど無かったというか、予感はあった。あの、自宅の聖書の中から映画のチケットを発見して、叔父さんと天使さんがシンクロした時から。

結局大学のある駅に着いたのは四時頃だったのだろうか。少し日が傾いてきた。

改札を通り越し逆の南側の階段を下りた。空は茜が差しており間もなく遠くのビル群にも明りが灯り始めた。俺は駅前通りにぶつかる坂道を下りた。この時計屋さんの角を右に西口の方へ行けばすぐだろう。でも一瞬左側を見た。早紀さんへの手土産を宮地と買いに行ったあの垢抜けないコンビニが確かにあった。そもそもさっき駅を出る時も有人改札だったから、まだ変わっていない。いや、変わっていなんじゃなくて変わったままだ。意味不明だったが、逆に、全てが“?”だった状態から少し筋が通り始めていた。


ドアを開けると、天使さんが、昆布茶の袋を持って立っていた。

「いらっしゃい、意外と早く来ましたね」白いモコモコしたセーターに赤いひざ下までのスカートを身に着けていた彼女が、笑顔で迎えてくれた。たった数日ぶりなのに、もう何ヶ月も会っていないような気になり、自然と顔がほころんだのが自分でも分かった。

「どうぞ、上がって」

「はい!」俺は足元も見ず、真っ直ぐ彼女を見たまま靴を脱ぎ散らかすと、そのまま上がって、案内された奥の洋室まで小走りで行き、ドアを閉めた。その閉める間際。視界の隅に玄関のたたきが一瞬入った。

“あれ?ゴンバースシューズ?”確かに年代物のあの靴があったように見え、あの晩コンビニで見た背中も頭に浮かんだ。でもこの動作の流れでまたドアを開けると不自然だったので、俺はそのまま閉めて、ソファーに腰を下ろした。


最初に部屋に入って来たのは早紀さんだった。お盆に昆布茶を乗せて。

「いらっしゃい、天使ちゃんも待ってたみたいよ?今日来るかな?って。これだけ置いて、あたしはもう退散」からかうように俺をにらんだが、口元は笑っていた。

「いやいや、ちょっと」顔が熱くなった。

「あらあら、森君でも顔赤くなったりするんだ?」

「ところであいつら来ました?」俺は慌てて話題を変え、でもなぜか小声になった。

「来ないけど、言ったでしょ、天使ちゃん大丈夫だって」じゃああの靴は、確かに男物のような気がした。

「今日、俺の他に誰か来てます?」

「うん、よく来る人、変な人じゃないよ、味方。だから余計に大丈夫」

それ以上は教えてくれず、少なくともこちらが心配するような相手でないということは雰囲気的に伝わったのでそれ以上聞く理由も無く、早紀さんは意味不明なⅤサインを出して出て行った。


入れ替わりに白いセーターの女性が入ってきた。

別に部屋で二人で話すのは初めてではなかったのに、妙に恥ずかしく、何も言わずに、チラッと見て互い笑顔になってみたり。そして昆布茶をすすり合った。

「少しパーマ、かけました?」髪の毛が少し巻いていた

「分かります?おばさんみたいになっちゃったでしょ」照れたように前髪をおさえた。

「いやいや、あの、似合ってます」本当に、似合っていると思った。

「森くん、義理堅いから…」

「いや、本当に、あ、実家帰ってたんですか?」

「はい、帰ってしまいました、本当はもう少し早く戻る予定だったのが遅れてしまって」

「帰ってしまってたのですか」とちょっと真似して返してまた目が合って、お互い微笑んでしまった。この人と話していると、何でこんなに心地良いのだろう。

「もうこのまま会えないのかなと思ってしまいました、そう思ったら…」そんなこと言うつもりじゃなかったのに、言葉が口からこぼれてしまった。

「思ったら?」相変わらず彼女は優しい微笑みをこちらに向けていた。

「寂しい気持ちになりました」こういう時、普通はもっと気の利いた言葉をかけるのだろう。でもそんな月並みな、子供みたいなことを言うのが精一杯だった。すると、彼女は背筋を伸ばして改めて俺の顔を真っすぐ前から見た。

「あのね、あなたの中にも神様はいるの」

「へ?」あまりに唐突な言葉に思えた。

「良く分からないここに足を運んでくれて、こないだは、助けてくれようとしたし、あんなに綺麗な景色を見せてくれて、そして今、寂しいと思ってくれた、それはみんな神様が与えてくれたもの」そんな綺麗な動機ではないと認識していた俺は、逆に恥ずかしくなった。でも、今目の前にいるこの人に、間違いなく惹かれ始めてしまっている。素性もよく分からないし、単なる昨日の電話の腹いせみたいな状態だったのに。

「いや、俺はそんなんじゃなくて…」まずい、この場にそぐわないことを言わなきゃならない流れになっている。彼女もそれを察したのか、遮るように言った。

「あたしね、今月いっぱいでここ出て行かないとならないの」

「え⁉」

「これから先も、今の誠実さを持ち続けてあなたの大事な人を大切にして、正しい道を進んでいってね?」今一番大事にしようと思い始めた人からそう言われると、何か少し突き放されたような言葉のように聞こえて、あの晩ほろ酔いで公園を歩いた時みたいに、胸が締め付けられるようになった。確かにいつ会えるか分からないこの人が、ある日突然いなくなっても不思議ではなかったし、そんな人に惹かれるのは馬鹿げたことだった。

「大事な人なんて俺には」

「これから大事になる人がいるんでしょう?」そうだった、それは話していた。でももうその可能性は限りなくゼロになっていて、何か自分一人ピエロみたいで悔しくなった。

「出て行くってどこへ・・・」

「ちょっと遠いところになるのかな」俺には言えないってことか。急に気持が苛立った。それに何も久々に会えたこの日にそんな話題にしなくても。

「神様神様って、神様信じてると何か良い事あるんすか?」

「神様信じても、良いことがあるわけじゃないの、でも、苦しい時に助けてくれる。感情を抑えられずに取り乱したりせず、辛い事をやり過ごせる。それは悪魔と戦っていることと同じ」

不貞腐れたような俺の突っ掛かりを冷静に巧く往なされつつ、心のどこかでなるほど、と思ってしまっている自分が悲しかった。そりゃそうだよな、でも、本気になる前で良かったのか。これですべてゼロになる。再会に浮かれていた頭が少し落ち着いて来た。ここまでの一連の流れ。あの叔父さんもどき、つながった電話、有人改札。

「ところで天使、じゃなくて手石さん、今はいったい・・・」言い掛けた俺の言葉を彼女がまた遮った。

「映画が好きって言ってたよねぇ?」

「え?はあ」

「あさっての夕方…じゃちょっと時間遅いか、しあさってなら朝から空いてるし、行こうか?」

「え?」何か俺、“へ?”とか“え?”しか言ってないなと思いつつ、しあさって、一緒に映画?と困惑していると、その紅潮した顔を見て悟られたか、彼女もちょっと照れたように笑った。

「早紀ちゃんと三人で」ドキドキが少し収まった。いやでも十分。

「ああ、いや、問題無いっす。あさっては昼までちょっと用事あるんですけど、しあさってなら何とか」何というか、気分も上げ下げが激しくて、脳が付いていかない。

「良かった、今、何やってるかな」言いつつ彼女が顎の下で指を組みながら窓の外を見つめた。ああスマホが無い。ノートPCも置いてきた。調べてもらうのもカッコ悪いけど、彼女がスマホを見ているところも見たことがない。俺が持っていないのを不思議がる素振りも見せない。そう、万一俺がスマホを持っていたとして、彼女が言っている“今”が俺と同じ“今”なのか分からなくなった状況で、どうやって見に行く映画を調べればいいのだろうか?

「あさっての夕方、五時頃、ちょっと寄りますので、その時あの東口の先の古いコンビニで雑誌でも見て決めましょう」取り敢えずそう言っておいた。

「古い?ああ、でもはい、わかりました。今日はちょっとごめんね、出掛けなきゃならなくて」そう言って彼女は部屋を静かに出た。危うい危うい、古いかどうかは今がいつかに関わっていて、そこが俺と天使さんではズレている。少しして、入れ替わりに早紀さんがお茶を片付けに入って来た。

「あの、何か今月いっぱいだとか」

「もうね、前から決まってたの、中々言えなかったんだね」やけにさばさばと他人事みたいだが、でもそうだったのか、もっと早く言って欲しかった。

「このぉ、何、寂しい?」

「そりゃ、何かね・・・あ、何か、映画一緒に行ってくれるみたいで、すんません」

「ああ、行くことになったんだ、楽しみだね」言いつつ顔がほころんでいた。その前で俺は無言でガッツポーズを取った。

「森くん、実は分かりやすいね、でもそこが良いところだね」俺ははっとして早紀さんを見た。その顔は誇らしげでさえあった。

「あれ?ひょっとして、早紀さんが言ってくれたの?」

「あたしは何にも知らなーい!でも、天使ちゃん何で急にパーマ掛けたのかな?」手に持っていたお盆で俺の脇を突いてきた。そんなことより。

「ところで・・・」さっき天使さんに聞きかけたことを彼女に聞こうとして、その答えが半開きのドアの向こうの壁にあることを知った。そう、そこにカレンダーが掛かっていたことを、今の今まで知らなかった。いや、視界には入っていたのかもしれないが、ちゃんと見たことがなかったのかもしれない。でも改めてそれを見て固まった。

“1988年3月“

「何?」部屋を出掛けていた早紀さんが振り返った。

「いや、何でもない」何となくそんな気はしていたが、こうしてはっきり突きつけられると、やっぱり構える。でもそれを口にしてしまったら、この空間が壊れる気がした。

「天使ちゃんと映画行けるから、頭おかしくなった?あ、でも顔赤くないね」どちらかというとその時の俺の顔は青に近かったのではないかと思う。

ついでに言うと、その壁の横にあった玄関からは、もうあのゴンバースの靴は無くなっていた。とすると、あの靴も復刻版なんかじゃなかったんだ。一人とぼとぼ歩いて改札まで行くと、向こうのビルはもんじゃ屋じゃなくて蕎麦屋だった。西日が後方から強く差していた。ここは俺の生きている時代じゃない。そんなところに紛れ込んでいる。あの人もそこで生きている。蕎麦屋は過去で、もんじゃ屋は今だ。そして改札の前に立ったところで、急に雲が晴れるように、いや、天気は何も変わっていないが空気感だけがすっと変わった。自動改札だ。電車を待っている人たちが、スマホを片手にしているのが見えた。あ、戻った。何の前触れもなく戻った。映画やドラマなどで時間を超える際はそれっぽく衝撃が体を襲ったりするものだけど、何もなかった。何かそれは優しく包んでいた雲みたいなものが体を抜けたような感覚だった。


ところで、“何とかする”とは言ったものの、一つ問題があった。


「と言う訳なんだ」俺は帰路、途中で電車を乗り換え宮地の下宿に寄り、畳の上で正座していた。

「88年?んなわけないやろ、レトロ趣味なんやないの?」

「趣味でもそんなことしないだろ、大体、あの部屋だけじゃない、周りの店も変わってる。そもそもあの人たち、スマホも持ってないしDVDも無くて今だにビデオだ」

それを聞いて宮地も何かを感じたのか、腕を組んで両二の腕をさするようにした。

「おおさぶ、怖い怖い、俺も会ってしまったやないか、俺を巻き込むな」

「お前が勝手に会いに行きたいって言ったんだろ」

「よく戻ってこれたな」

「タイムマシンみたいなもので何かを越えて行き来しているって感じじゃない、歩いているうちにそういう空間が忽然と現れてふわっと降りて来て、で、勝手に無くなるというかふらっと出られるような感覚っていうか・・・向こうも、俺が今の時代の人間だって気付いてるのか気付いてないのか、それくらい自然で曖昧なと言うか」

「しかしお前、その頃いうたら、サリン事件もまだやし、もちろん安倍さんの狙撃なんかずっと後やし、その、抜けたとはいえ天使ちゃんがなんや分からん怪しい団体に一時身を置いてたって危ういやろ」それは確かだった。

「でもその時点で、なんか違うって思えて抜けたんだから、結果論かもしれないけど逆に先を見越してるとも言えるだろ?俺たちみたいに、その後の展開を知ってない段階で」

「正にバブルっちゅうカオスな時代やな」

「そんな時代だから、精神世界に引き込まれる人だって多かったんじゃないかな、みんながバブルの恩恵受けてたわけじゃないんだろうし」何かに急き立てられるように必死にそんなことを言っている自分にどこか不思議な感覚になったし、宮地も何かを察したようだった。

「よく分からんが、ま、とにかく、今月いっぱいで全て終わるならいいっちゃ。でも映画行くことになったか、そら良かったな、よし、その日俺もあそこに行って早紀さんを引き留めてやるから、お前ら二入で行って来い!そういうことやろ?だら~、そんな玄関口で正座しとらんで、奥入れ」

「だーだーだー、俺がお願いしたいのはそれじゃない、そんなことしたら逆にこの話無くなる。いやそうじゃなくてだな、その日、俺実は物理の追試がある、リモートだけど」宮地は動きを止めて眉間に風神雷神のような皺を寄せた。

「はあ~?」

「代わりに受けてはくれんか!」

「たー!何でそういう役?」俺は改めて深々と土下座をした。

「けど何で俺?大体お前、うちに来過ぎやぞ、俺ら付き合っとんのかいな」言いつつ顔は少し笑っている。

「いや、すまん、本当にすまん」

「それなら、一緒に映画行きたいわ、俺やなくても前田や足立もおるやろ」

「いや、あいつら帰省してるし、物理だから、お前得意だろ」必死で頭を下げた。

「リモート試験やろ?映画館にノートPC持ち込め」言ってる言葉ほど、怒ってない。

「無理無理、解答PDFにして送らんとならんし、必ず埋め合わせする」宮地は、部屋で漬けている梅酒のボトルを持って来て、グラスを三つ用意した。それを見て俺もようやく部屋の奥へ歩を進めた。

「しょーがねーな、ま、顔確認無いし、ばれんやろ、楽しんで来い、飲め」それを聞いて、俺はまた慌てて正座し、おでこを畳に擦り付けた。こんな無茶苦茶なお願いきいてくれるなんて、本当に持つべきは友達だ。

「明日、念の為俺のノートPC持って来るから、そこから俺のログイン名とパスワードで入ってくれ」

「また来るんかいな!」

「すまーん!」

「でも、それが終わったら、ちゃんとみゆきちゃんに戻るんやな?」

「いや、それがさ、どうも気になる人がいるっぽい、そう言われた、まあ自業自得かな」

「え、でも東京出て来るんやろ、んで手伝いに来てくれって、アホやな、その気になる人ってお前のことや」何?そういうこと?いやいやいや。え?でもそういうこと?

「いやあ、違うだろう、でもそうかなぁ?」

「ま、万一違ったら、お前も四月から俺の仲間や」

「何か嬉しくないな、それ」

そこからはもう、いつもの飲みの席になった。俺が近所の商店街で買って来た精一杯の惣菜と発泡酒で。それにしてもその晩の宮地は上機嫌だった。今月いっぱいと言ったことに、よほど安心したらしい。優しい奴だ、顔はいかついけど。みゆきちゃんとのこともそんな風に言ってくれて、少し明るい気持ちになった。俺も気持ちよく酔っぱらいつつ、何で急に天使さんが映画に誘ったのか、そしてあのゴンバースの靴が少し心に引っ掛かっていた。それに、理屈が合い始めていたとして、何故俺がそういう世界に巻き込まれたのか。

「おう、叔父さんのグラスも用意したったぞ」そう言いながら宮地が持ってきたグラスに発泡酒を注ぎながら、俺はじっとそれを見つめていた。


翌々日、よく晴れた暖かい午後、俺は電車を小一時間乗り継ぎ、江戸情緒の残る下町にある叔母さんの家を訪ねていた。区のふれあい館の裏にある、古い一軒家の借家だった。よくこんな物件見つけたものだ。叔母さんが地元だったから知人の紹介だったのかもしれない。

「よく来たね、友くん」愛想の良い下町育ちの叔母さんが、招き入れてくれた。

「宇都宮のお義兄さんとか、みんな明日のお中日に来るみたいだけど、明日テストなんだって?」追試とは言ってなかった俺はちょっと気まずそうに頷いた。

「早くお墓に入れてあげたいんだけれど、まだ入れるところ決まらなくてね、一周忌までには決めないとね」ささやかな仏壇の横に、骨壷が置かれていた。確か田舎に祖父の墓があったはずだが、次男だったしそもそも叔父さんにとっては高校時代しか過ごさなかった地らしかったし、それより長く過ごした東京で小さな墓を買うか、急に亡くなったせいもあり決めかねていたようだ。明日そんな話になるのだろう。そんな、現実的ではあるが無粋な話を一緒に聞かされなくてほっとしていた。ピュアに故人を偲べる。

「やっぱり、寂しいね、うち子供いないし、友くん、三年になったらここ来ればいいのに、三年から通う校舎近いんでしょ?飯付き風呂付でお得だよ?まあ、折角一人暮らししてんのに叔母さんと一緒じゃ嫌か」

「そんなこと無いっすよ、でも校舎変わらない可能性もあるし」

「へえ、そうなの、大学って面倒くさいね」このあたりの出身の、人懐こいがさばさばしていて品もあり、バチっと化粧して若々しくてきれいな人だった。正に天使さんと正反対。この人を見ていたから、天使さんを初めて見た時、ブスでは無いという感じ方をしたんだなと、その時分かった。若い頃は今で言うクラブで踊りまくっていたらしい。地味な叔父さんとどこでどうくっ付いたのか、人生は不思議なものだ。にしても一人は少し寂しいのか、若干やつれた感はあった。

「わざわざありがとうね、頓着無い人だったから、お彼岸とか気にしてないかもしれないけどね。お盆とお彼岸の区別も付かなかったんじゃない?」

線香を焚いて遺影の前で手を合わせたが、こうしていてもまだ実感が無く、悲しいという感情も沸いて来ない。ひょっこり玄関が開いて帰って来そうな、と思ったらインターフォンが鳴ってびっくりしたが、ただの宅配だった。


「叔母さんさぁ、前によく知らないって言ってたけど、俺がここから貰っていった聖書、叔父さんどうして手に入れたかやっぱり聞いてないかな?」

「ああ、あれ、まだ持ってんの、気持ち悪くない?」自分だって捨てられないとか言って俺に投げたくせに。

「いや、でも最近何か時々開く機会増えてきて」それを聞いて叔母さんの表情が変わった。

「え?ちょっとあんた、何か変なもんにのめり込んでないよね?あんたなんか本当に無菌状態で東京に送り込まれて来たんだから、あっという間に闇の世界に引き摺り込まれるからね、一応あたし、あんたの東京の保証人なんだから、何かあったらお義兄さんお義姉さんに張り倒されちゃうよ」どこまで本気か分からない大きなリアクションだった。しかし随分な田舎もん扱いだな。

「いやいや、そんなんじゃないから、ちょっと授業で出て来ただけで」ちょっとへらへら言ってしまった。

「あれ?じゃあ、女の子か?綺麗な女の子に神様の話とかされたら、男はすぐにふらっと来ちゃうからね、ほんっとにバカだよね!」

「だから、俺の話聞いてます?」でも鋭い。

「冗談冗談」そう言ってからから笑ったので、ちょっと安心した。

「うん、いや、改めてなんであんなの持ってたのかなって」

「そうね、少なくともあの人、クリスチャンじゃなかったよ、お寺とか好きだったし、酒も煙草もやめなかったしね」

「そう」言いつつこの叔母さんも時々煙草を吸う。俺はヤニで黄ばんだような古い壁を見つめた。

「あん中に、映画の券入ってたの知ってる?」

「知らない知らない、あたしあれ開いたこともなかったもん」そんな苦手な虫を見るような顔しなくても。でも表情豊かな人だ。

「叔父さん、映画好きだったもんね」

「そう言えば東北の震災の後、珍しく神妙になって何日かは夜にそれ開いていたことあったね」そりゃあの時、神妙にならなかった日本人がいたのだろうか。持っているなら思わず聖書を開きたくなった気持ちも分からないではない。

「頭の良い人の考えてることは分からないね」

「そうだね」

「で、あんた彼女いんの?」またその話題か。この人勘が鋭いから時々怖い。思いつつ、二人の女性の顔が浮かんで、慌てて一人を消した。

「いや、まだ」

「あの人ね、あれで意外とモテてたんだよ、若い頃」

「へえ、意外、叔母さんと会ったのは仕事するようになってからでしょう?」

「うん、最初は何考えてるか分からなくて気持ち悪い奴と思ったけどね」おいおい、でも言葉と裏腹に、どこか懐かしそうだった。

「叔父さん、優しかったからね、いつも記念日には叔母さんの好きなモンブランのケーキ買って来てたんでしょ?」叔母さんの表情が変わり、目線を外した。そしてしばらく沈黙があった。しまった、これはNGワードだったかな。

「もうすぐ桜咲くね」慌てて関係ないことを口走ってしまったが、そんな言葉耳に入らなかったかのように、少し沈黙が続いた。俺も所在無さげにちょっと考え事をしている振りをしたり、鞄のファスナーを開けたり閉めたりしていた。

「学生の時、誰かにもらったらしいよ」窓の外を見ながら叔母さんが言った。

「え?ああ、聖書?」何かもっと知っていそうだったけど、俺はそれ以上聞けない雰囲気を感じ取った。

「叔父さんって大学入ったのいつでしたっけ」

「確か87年」

「それはすぐ出るんだね」

「一度卒業証明書を代理で取りに行ってやったことあって、そう書いてあったの覚えてる」

「そうなんだ」ぱっとまた意を決したように叔母さんはこちらにそのぱっちりした目を向けた。

「あんたもしっかり卒業しなよ、とものちん、追試なんて受けてる場合じゃないよ」

「げ、」そうだった、保護者も入れる大学のサイトがあって、成績が見られるのだった。それからは普通にまた世間話をした。九割方叔母さんが話していて、俺は聞き役だったが。


ところで夕方には、あそこに行って会えるかどうか分からない人達を訪ねる約束だ。

「じゃ、そろそろ」日が傾くころ、俺は席を立って玄関に行った。

「あら、晩御飯食べてったらいいじゃない、どうせろくなもん食べてないんでしょ?」事実ではあるが相変わらず失礼なことをずけずけと、と思いつつ、下駄箱で俺はそれを見てしまった。

「あ、ゴンバース・・・」そうだ、どこかで見た気がすると思っていて、ネットで見たのかなと思っていたが、ここにあった。

「ああ、それね、若い頃買ったものみたいだけど、昔のモデルとかで、結局捨てられず、三十年以上経っても時々履いてたね、たまにだけど」確かにかなりくたびれているが、デザインはもちろん、サイズ的にも俺があそこのコンビニや建物で見たあれと同じに見えた。


また電車を乗り継いで戻る道すがら、考えていた。理屈は置いておいて、何となく話がつながって来ている感覚があった。そしてそれは俺がおかしくなって幻覚を招き寄せているとかいう自分発信ではなく、何かに巻き込まれている感覚。そう思うと少し冷静になれた。そして一つ、確信は持てないけれども限りなく可能性の高い憶測が沸いていた。


天使さんと叔父さんは顔見知り、いや、もっと深い仲だ。


駅東口の、キャンパスとは反対の南側の階段を駆け下りる。自動改札だったが今日は会えるのか、いや、向こうが指定したのだからきっと会える、そう信じて小走りに線路伝いの道を行き、また右に階段を下りる。敢えて空気感を先に感じないよう、夕暮れの空気を裂くように走った。そして、郵便局の先、あの宮地と飲み物を買った古びたコンビニの前に、天使さんが立っていた。

「ああ来た」軽くかかったウエーブが西日に黄金色に輝き、春の風に揺れていた。俺は軽く息が切れていた。

「何で走ってるの?」俺は真っすぐその顔を見つめた。でも不思議とこれまでのような未知のものへ恐る恐る対峙する感覚ではなく、少し気持ちに余裕があった。

「一秒でも早く会いたくて」彼女が珍しく戸惑ったような表情で顔を赤らめた。それがまた余裕をもたらした、

「ちょっと言ってみただけ」

「年上をからかうものじゃないの」彼女は少し怒ったように口を尖らせて、足早に後ろを向いて店内に入って行った。

コンビニのやけに広い書架に行って、改めて驚いた。古いチケット情報誌がある。もうずっと昔にネット化の波に押され休刊になったはずだ。予想通り一九八八年の三月の号だった。三十年以上前だ。こんな頃の映画なんてさっぱり分からんし、果たしてそれをこの人と観られるのかさえ分からない。その不思議な雑誌を、二人で片寄せながら、古いドラマのカップルのように見ているのが、気持ち良いやら悪いやら。でもスマホで一瞬で分からないこの時間は、何て奥ゆかしくてもどかしい時間なんだ。そして紙面の中の一つのタイトルに目が止まった。

「ああ、“ベルリン天使の詩“は日比谷で四月二十三日からっすね、残念」数少ない知っているそのタイトルを見て、俺は紙面を棒読みするように割り切って読んだが、言った後すぐ、そんな試すようなことを口にしたのは意地悪だったかなと後悔した。肩越しに見えるちょっと戸惑ったような穏やかで真面目そうな横顔を見つめながら、観られる映画はほぼ限定されていると感じた。アクションものやコメディーってわけにもいかないし、真面目な、でもラブストーリーではないもの、でもだいたいタイトル見ても内容が想像出来ないものばかり。そもそも観られるかどうか分からない映画のことなどどうでもよい。こうして二人で選んでいる時間のほうが大事に思えた。シャンプーなのか服の柔軟剤なのかよく分からないが、彼女から漂う優しい香りに、俺は癒されてしまっていた。

「“遠い夜明け”?どんな映画なの?」ん?それなら知っている。

「ああ、これは確かアパルトヘイトの映画です、デンゼル・ワシントンがアカデミー賞にノミネートされた」

「された?」

「あ、いや、されそうってか、いや、きっとされるはずってみんな言ってるほどの熱演で、ね?ほら、渋谷でやってる」やばいやばい、変なパラドクスが生じて今身の回りを包んでいる柔らかな空気が彼女もろとも消えてしまうんじゃないか、いや、そんなことないか。彼女は不思議そうに首を傾げた。でもそんな何気無い仕草の一つ一つが、何か以前より重みを持って感じられた。壊してはいけない大切なものを預かったような。


上映時間を確認して、店を出た。少し期待したがゴンバースシューズは現れず、結局その日はあの建物には寄らず、駅に帰りがてら二人で東の裏門から入ってもう暗くなった学内を歩いた。

「ここで、初めて会いましたね」俺は購買部前のその道で立ち止まった。

「そうだね、ここは、あたしにとって思い出がいっぱいの場所なんです」この人の言っている世界が1988年だっとしたら、あの懐かしの昭和を振り返る番組でよく見るバブルで浮かれて何でもありの世界で神様なんて言っていたら、生き辛い空間だったことであろうことが想像出来た。叔父さんから聞いたことがある。まだ学生運動に憧れていた左翼系の学生が残っており、キャンパスの警察よろしく学内の思想を取り締まる“真似事”をしていたと。

「嫌な思いもいっぱいしたんでしょ?」

「普通にしていたって嫌なことにいっぱい遭うでしょ?」あっけらかんと彼女は言った。

「そうかもしれませんね」

俺はこの人と会えるあと数日、何をすれば良いのだろうか。その俺なんかよりよっぽど無垢でイノセントな横顔をちらちら見ながら、ぽつぽつ歩いて経理課の前まで来た。

「この木に、白い花と赤い花が咲いているでしょう?あたし、ここが大好きなの」ああ、ここか。気にしたことなかった。

「そうなんすね。確かに綺麗っすね」俺は街灯に照らされた、もう散り際の花の群れに見とれた。この木にとっては、三、四十年なんて大した時間じゃないのかもしれない。きっと一九八八年にも、こうして同じようにここに立ち、花をつけては散らしていたのだろう。目の前の時計台だって変わっていないはず。二人もこうして似た景色のどこかの街を歩いていたのかな。そう思うと、今このキャンパスが、暗いせいもあり一体何年の設定なのか分からなくなるし、そんなこと意味があるのかとさえ思えて来た。

「春っていいですね?冬の間眠っていた生命力が蘇って溢れ出すようで」彼女はまた楽しそうな笑顔に戻って弾むように歩いた。

「ウサギ、好きなんすか?鞄にウサギのキーホルダー付けてたから」

「ああ、気付いてた?」彼女は照れ臭そうに笑った。もう正門の前に駅の階段が見え、明るい電気に照らされたホームが見えた。あそこから電車に乗れば下宿への帰途となる。でも今日はもう少し先まで行ってみたかった。

「前に、あの団体抜けたの、何か違うからって言ってたっすよね、何が?」

「うーん、あたしには、真理とかはあまり大事じゃなかったのかな?ただ、目に見えないもの、まだ分からないこと、自分ではどうにも出来ないことに対して、謙虚になること、神様や宗教ってそういうものじゃないかなって」前に、似たようなことをある人が言っていたのを思い出して、思わず言葉が口をついて出た。

「初めてあそこに行って名前を言った時、森って人が前に来たことがあるって言ってましたね。それって森隆ですか?」

「モリタカシ?」

「僕の叔父です」一瞬、え?という表情で彼女は俺の方を見上げたが、すぐにまた穏やかな笑みに戻った。

「違いますよ、だいたい、森君の叔父さん亡くなったんでしょう?」俺は構わず続けた。何が起きてもいいとヤケになったわけではない。何も起こらない気がしたから。

「持っている聖書、叔父さんの遺品です。それを叔父さんに渡したのはあなたじゃないですか?」少し周りの木が一陣の風でざわざわしたが、やはり何も起こらなかった。

「違います」彼女の笑みが少し翳ったように感じた。

「本当に?」

「本当ですよ」そう言うと、彼女はくるっと背中を向けてしまった。少し首を垂れているように見えた。俺はその右隣に並ぶと、左手をそっと後ろから彼女の左肩に回した。すると彼女は、自ら体を預けてきた。俺も左手を彼女の二の腕あたりに下ろし、今度はもう少ししっかり抱き寄せた。自分の左頬に、ウエーブした髪がくすぐったく当たった。しっかり彼女の体温を感じたし、鼓動も伝わった。やっぱり夢や幻じゃない、この人は間違いなく今、俺の隣にいる。

「行かないで」ぼそっと言った俺の言葉に、彼女は返事をする代わりに呟くように言った。

「信じているふりは出来ないと、彼は言いましたとさ」そして大きく息を吐くと、俺の方を見て寂しそうに笑った。この人には、叔父さんと同じ空気が流れていて、叔父さんと同じ価値観を共有していると、そう思った。


改札で、翌日、昼にあそこの建物に行くことを約束した。

「早紀ちゃんにも言っとくね」

「明日、会えますよね?」俺は笑いながら言った。

「寝坊せずに時間通り来てくれれば」俺の質問に特に疑問も感じないようにさらっと答えてくれたのが救いだった。改札に駅員がいるのにちょっと驚いた。ああ、この空間は現代じゃないのか。彼女が側にいる限り、そういうことなのか。いや、初めてあの部屋に行った時は、一緒だったのに今の街並みで鈴木さんにも遭遇した。細かく考えればおかしなことばかりだったが、それを解き明かしたところで何の意味がある?今目の前で現実が起こっている。

「分かった」俺はぎこちなく定期を駅員に見せてそこを抜け、手を振る彼女の顔を何度も振り返りながらホームへの階段を下りた。そして彼女も、俺の顔が見えなくなるまでそこにいてくれた。降車時は自動改札だったので、時が戻ったのは多分、車中のどこかだったのだろう。

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