慕食

酒囊肴袋

第1話

六十八歳の夏、田中信一は朝のニュースで彼女の死を知った。

「世界的料理人、石井美奈子さん、膵臓がんで死去。六十八歳でした」

アナウンサーの声が遠くに聞こえた。手にしていたコーヒーカップが、かすかに震えているのに気づく。

石井美奈子。中学三年間、同じクラスだった少女。髪をポニーテールに結んで、いつも楽しそうに料理の話をしていた。

テレビには、パリの高級レストランで微笑む彼女の姿が映し出されている。あの頃の面影を残しながらも、世界を舞台に活躍した女性の風格を纏っていた。

信一は一人暮らしのマンションで、静かにため息をついた。妻は五年前に亡くなり、子供たちはそれぞれ家庭を築いて遠くに住んでいる。

「美奈子ちゃんか…」

彼は呟いて、記憶の扉を開いた。


中学二年の夏休み。クラス全員で行った二泊三日のキャンプ。

八月の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトからは陽炎が立ち上っていた。バスの窓を開けると、熱風と共に青い夏草の匂いが車内に流れ込んだ。どこからともなく聞こえるアブラゼミの単調な鳴き声が、夏休みの特別な時間を演出していた。


信一は母子家庭で育った。母は昼も夜も働き続けており、小学校高学年の頃から弟と妹の食事を作るのは信一の役目だった。冷蔵庫にあるもので手早く作る焼きそばや卵かけご飯。栄養よりも、とにかく空腹を満たすことが目的の食事。それでも弟たちが「おいしい」と言ってくれるのが、信一の小さな誇りだった。

美奈子もまた、父子家庭だった。営業の仕事で遅く帰る父のために、彼女は毎日愛情を込めた料理を作っていた。手の込んだ煮物、丁寧に出汁をとった味噌汁、彩り豊かな弁当。しかし父は疲れ切った表情で黙々と食べるだけで、「美味しい」という言葉はなかった。愛情を注いでも届かない虚しさを、美奈子は一人で抱えていた。


キャンプ場に着くと、杉の木立に囲まれた広場に木漏れ日がちらちらと踊っていた。風が吹くたびに葉擦れの音がさわさわと響き、木陰の涼しさが頬を撫でていく。近くを流れる小川のせせらぎが、耳に心地よい涼音を奏でていた。

二日目の夕刻、西日が林間を赤く染める中、バーベキューの準備で皆が騒いでいた。炭火の煙が立ち上り、肉の焼ける匂いと共に夏の夕べを彩っていた。ヒグラシの「カナカナカナ」という鳴き声が、どこか物悲しく木立に響いている。

そんな中、美奈子は一人、折り畳み机でおにぎりを握っていた。白いご飯に塩をまぶす手つきは慣れたもので、炊きたてのご飯の甘い湯気に、風が運んできた夏草の清涼な香りがそっと重なり、彼女の周りを優しく包んでいた。

「田中くん、お疲れさま」

彼女は信一におにぎりを差し出した。具は梅干し。海苔がパリッと音を立てる。夕焼けに照らされた彼女の頬は薄紅色に染まり、額に浮かんだ汗の粒が小さなダイヤモンドのように輝いていた。

「ありがとう」

信一は受け取って一口かじった。塩加減が絶妙で、お米の一粒一粒がふっくらと炊けている。何より、心を込めて握られたことが伝わってくる暖かさがあった。木漏れ日に照らされた彼女の手から伝わる温もりと、かすかな石鹸の香りが、その瞬間を特別なものにしていた。

「おいしい」

信一は心からそう言った。その瞬間、美奈子の表情がぱあっと明るくなった。夕陽を背にした彼女の笑顔が、金色に縁取られて見えた。

「本当に?」

「うん、すごくおいしい。愛情がこもってるのがわかる」

美奈子の目が潤んだ。誰かに「愛情がこもっている」と言われたのは、初めてだった。

「ありがとう……田中くん」

その時、信一は理解した。彼女にとって、料理は単なる食事ではなく、誰かを想う気持ちそのものなのだと。そして美奈子も、信一の言葉の中に、本当の意味での「ごちそうさま」を感じ取っていた。

遠くでカッコウが鳴き、風が木の葉を揺らし、小川のせせらぎが優しく響いている。二人の間に、特別な何かが生まれた瞬間だった。


あの夏以降、信一と美奈子は以前より言葉を交わすようになった。

美奈子は時々、手作りのお弁当のおかずを信一に分けてくれた。玉子焼き、きんぴらごぼう、小さなハンバーグ。どれも丁寧に作られていて、信一はいつも「おいしい」と言った。その度に美奈子は嬉しそうに微笑んだ。

信一もまた、弟たちに作った料理の話を美奈子にした。簡単な料理でも、家族のことを想って作る気持ちを、美奈子は誰より理解してくれた。

「田中くんの料理、きっと優しい味がするんだろうな」

美奈子がそう言った時、信一の胸は高鳴った。

しかし、内気な信一は自分の気持ちを素直に伝えることができなかった。美奈子もまた、恥ずかしがり屋で、想いを言葉にできずにいた。

中学三年の春、進路を決める時期が来た。信一は家計を考えて就職を選び、美奈子は料理の道を志して調理系の高校に進学することになった。

卒業式の日、二人は校庭の桜の木の下で最後の会話を交わした。

「田中くん、お元気で」

「美奈子ちゃんも…きっと素晴らしい料理人になるよ」

言いたいことは山ほどあったのに、結局、当たり障りのない言葉しか出てこなかった。桜の花びらが風に舞い、二人の間を通り過ぎていく。

それが、二人の最後の会話だった。


それから五十年が過ぎた。

信一は町工場で働き、二十代後半で結婚し、二人の子供に恵まれた。妻とは穏やかな家庭を築いたが、あの頃の淡い記憶は、心の奥深くで色褪せることなく、静かに眠り続けていた。

美奈子は料理の道を究め、やがて世界的なシェフとなった。結婚はせず、料理に人生を捧げた。時々、日本のテレビに出演する彼女を見ると、信一の胸は複雑な気持ちで満たされた。

2024年、世界は新しい技術に沸いていた。

「エモグルタミン酸」と呼ばれる化学調味料。調理者の感情や記憶を、料理にそっと託すことができる、まるで魔法のような技術だった。この調味料を使えば、料理人と深い関わりのある人ほど、その料理から作り手の心を感じ取ることができた。

美奈子は、この技術を積極的に取り入れた料理人の一人だった。「料理は愛です」というのが、彼女の信念だったから。


美奈子の訃報から一週間後、信一は書店で彼女の最後の著作を見つけた。

『慕う心、届ける味』

表紙には、穏やかな笑顔の美奈子が写っている。本には小さな瓶が付属していた。ラベルには「著者承認・感情転写調味料」と記されている。

信一は迷わず購入した。

家に戻ると、彼は料理本をめくった。最初のページに、美奈子からの言葉があった。

「料理をしていると、ふと昔のことを思い出すことがあります。言葉にはできなかった思い、伝えたかった気持ち。そんな記憶をそっと、この瓶に忍ばせました。今日も誰かの食卓が、優しい時間でありますように。」

信一は小さく微笑んだ。昔と変わらない、優しい美奈子らしい言葉だった。


料理本の最後のページには、『私の原点』そう題された、短いコラムがひっそりと掲載されていた。

信一は、吸い寄せられるようにその文章に目を落とした。


「これまで何千、何万という料理を作ってきましたが、今でも時々、ふと思うことがあります。私の料理人としての原点は、どこにあったのだろう、と。それはパリの三つ星レストランではなく、ましてや豪華な食材でもありませんでした。私の原点──それは、中学二年生の夏、林間のキャンプ場で握った、たった一つのおにぎりです」


信一の心臓が、どきりと音を立てた。


「当時、心を込めて作った料理が、なかなか伝わらない寂しさを抱えていた私に、一人の少年が言ってくれました。『すごくおいしい。愛情がこもってるのがわかる』と。その一言が、私の心に光を灯してくれました。料理は、心と言葉を届けることができるのだと、教えてくれました。この本を、そして私の料理人生の全てを、あの日の少年に捧げます」


そのコラムの最後には、こう締めくくられていた。

「最高のお米と、良い塩、そして――誰かを想う気持ち。それが、私の最初で最後、最高のレシピです」

信一の手が震えた。彼女は、最後まで自分のことを覚えていてくれたのだ。


信一は台所に立った。久しぶりに作る料理だった。

米を研ぎ、水加減を調整する。美奈子のレシピ通りに、少し固めに炊き上げる。

炊き上がったご飯に、付属の調味料を一振り。透明な粉末が、湯気の中に溶けていく。

そして、おにぎりを握る。あの日のように、心を込めて。

一口目を食べた瞬間、信一の心に温かい感情が流れ込んできた。

それは美奈子の想いだった。

田中くんに、このおにぎりを渡した時の気持ち。「愛情がこもっている」と言ってもらった時の、生まれて初めて感じた幸福感。実は、あの時からずっと気になっていたこと。高校が別々になって、会えなくなった寂しさ。大人になってからも、料理を作るたびに思い出していた、あの優しい笑顔。

おにぎりを持つ手が、かすかに震えた。やがて、その震えも静かに止まる。

そして、涙が頬を伝い落ちた。

彼女も、自分と同じ気持ちだったのだ。あの夏から、ずっと。

外は夏の夕暮れ。日が西に傾き、空が茜色に染まり始めている。昼間賑やかに鳴いていたアブラゼミやミンミンゼミの声はもう聞こえない。ヒグラシの時間も過ぎ、夜の虫たちが鳴き始めるにはまだ早い。

静寂が部屋を包んでいる。

信一は一人、小さなダイニングテーブルで残りのおにぎりを静かに食べ続けた。美奈子の感情が少しずつ心に染み入ってくる。初恋の甘酸っぱさ、料理への情熱、そして最後まで抱き続けた想い。

西日がレースのカーテン越しに部屋を金色に染めている。開け放した窓からは、夕凪の静けさだけが漂ってくる。風も止んでいる。

「美奈子ちゃん……」

信一は小さく呟いた。声が夕暮れの静寂に吸い込まれていく。

もう遅すぎる。でも、今、確かに彼女の心が自分の中にある。あの日の木漏れ日、せせらぎの音、夏草の匂い、そして彼女の石鹸の香り。すべてが蘇ってくる。

最後の一口を食べ終えると、信一は静かに手を合わせた。

感謝の気持ちと、愛しさと、そして深い安らぎを抱えながら。

外では完全に日が落ち、街に夜の帳が降りようとしている。セミの声は完全に途絶え、虫の音すらまだ聞こえない。静寂だけが、二人の想いを包み込んでいた。

人生の夕暮れ時に、ついに心が通じ合った二人。それは、美しく、そして切ない奇跡だった。

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