電線の雪——ヤーコフ最期の夜

湊 マチ

第1話 点呼

 号令が止むと、雪の粒だけが動いた。

 鉄条網に積もった白が、風の節に合わせてわずかに崩れ、網の交点が鈍く光る。光は境界を作るためのものではない——とヤーコフは思う。境界がすでに在ることを、見せ続けるための装置だ。


 列の最後尾で、彼は革靴の底を凍土に貼り付けたまま立つ。足跡は昼のうちに固まり、夜になると、昼間の失言のように浮かび上がる——ここに立っていた。ここで躓いた、と。


 「番号」


 看守の声が、彼の番号を跨いでいく。

 名前ではなく、番号。番号は交換のための言語だ、と誰かが言った。等価を想定して並べ替えるための符号。名は、その反対だ。等価でない何かの呼び名。呼ぶ者の口の形まで抱きこんでしまう固有。


 列が解け、バラックへ雪の道がのびる。肩を寄せ合いながら戻る捕虜たちの間で、同室の男が帽子の縁を押さえた。元教師だという。骨張った指、咳を飲み込む喉仏。彼の声はこの収容所のどこにも属していない。


 「きょう、変わる」

 彼が言う。「見張りの番も、噂も」


 「噂」


 「“交換”だ。君を、また」


 その語は雪より先に落ち、足下で鳴った。

 ——兵士は兵士としか交換しない。

 父はそう言った。等号は国家の文法であり、家族の文法ではない。家族は、等式の外に名を書き足す。どちらが正しいかではなく、どちらを生きるかだ、とヤーコフは思う。


 バラックの扉は、いつも少しだけ開きにくい。丁番が疲れているせいだ。押しながら耳を澄ませる。缶の転がる音、布の擦れる音、夢の中で出遅れた返事。


 「君は何を教えていた」

 寝台に腰を下ろして、ヤーコフが問う。


 「倫理学。中等の初歩だ」教師は笑わないで言った。「子どもに等式の使い方を教え、自分では等式を疑う。教師の矛盾だよ」


 「等式を疑う?」


 「置き換えの境目を考える。パンはパンと交換できるが、誰かの『最後の一切れ』は、もうパンではなくなる。君の番号もそうだ。本当は名の影だ。だが組織は影のほうを見たがる。等価のほうが管理しやすいからね」


 炊き出しの列が進み、彼は薄い湯気を二つのブリキに分けてもどってきた。

 「配給を取り違えた。君のほうが多い」


 「取り違えは、訂正できる」


 「きょうは訂正しないでおこう。『正しさ』が寒い夜もある」


 そのとき隣の寝台で咳が長く続いた。少年のように細い背が折れ曲がる。教師は視線だけでヤーコフを促し、余分な一匙をそっと器から移した。金属の縁が触れ、甲高い音が鳴る。音は境界が生む——とヤーコフは思う。雪は落ちるだけで音を持たない。音は、誰かが「分けた」場所に生まれる。


 やがて、靴鉄の音。看守が巡回に来て、少年の器の量に目を止めた。

 「誰がやった」


 沈黙。ヤーコフは立ち上がりかけ、教師が袖を摘んだ。

 「正しさは寒い」と目で言う。

 看守は器を指で量る仕草をして、少年の額に触れた。熱を感じ取り、何も言わずに去る。廊下に靴鉄の残響だけが残った。


 「自由とは何だろう」

 沈黙が戻ると、ヤーコフが言った。「選べることか」


 「選べなかったことを引き受ける力、かもしれない」教師は答えた。「自由はしばしば責任の寒さの別名だ。寒いから、体温を分け合う。分け合いは、等式の外に名を描く」


 ヤーコフは頷いた。彼の胸の内には、黒く塗りつぶした一語があった。「父上」と書き出した手紙の冒頭。その上に重ねた黒。言葉は見つからず、何度も折り畳まれて薄くなっている。


 「父の言葉は、君の中でどう響く」教師が訊く。


「正しかった」


 即答すると、喉の奥で苦笑が小さく砕けた。「正しい言葉は、正しさと一緒に沈黙も連れてくる。ぼくは沈黙のほうに長く触れてきた」


 「沈黙の倫理、というやつだね」教師は窓の外を見た。「語る前に聴くべきものがある、と信じる態度。見張り塔は、あれでも『耳』の形をしている。上に長い耳だ。眠気を集めるためかもしれない」


 ヤーコフは笑いそうになり、それを喉で止めた。

 「眠気は国家の眠気か」


 「いや、人間の重力だ。名のある人間は眠り、番号は起き続ける。番号を振る側が眠ると悲劇が起き、名を呼ぶ側が眠ると孤独が起きる」


 外で犬が短く吠え、電線の上の雪が崩れた。

 その音のない崩れを見つめながら、ヤーコフは思う——番号で死ねるなら、それは救いだ。名前で死ぬよりは。

 そこで彼は考えを止めた。

 ——いや、違う。番号で死ぬことは、誰かの名が代わりに傷つくことだ。父の名か、妻の名か、どこかの子の名か。等式の外にこぼれる痛みは、必ず誰かの発音に宿る。


 夕食後、噂は形を持ちはじめた。独軍の将軍と、あの息子の交換。ここでは具体的な名が一度も口にされないのに、皆が同じ顔を思い浮かべる。それを可能にするのが噂の力だ、と教師は言う。「噂は共同記憶の手すりだ。手すりは寄りかかるためにあるが、歩くことを保証しない」


 夜番の灯りが窓にかかる。光は鉄格子を四角く切り、床の節目をなぞる。その四角の中に、少年の器が置かれていた。彼はまだ眠っている。額の熱が少し下がったのか、呼気が規則的になる。


 「君はどう呼ばれたい」教師が言った。「今夜だけの話として」


 ヤーコフは窓に映る自分の輪郭を見た。

 「返事を遅らせる男、でいたい」


 教師は小さく笑った。「遅さにも倫理がある。早さが救う命があるように、遅さが救う名がある」


 やがて、見張りの交代。二人の看守のあいだで、短く冗談が交わされる。ひとりがこちらを振り向き、声を落とした。

 「おい、将軍ひとりと、あれひとり。等しいか?」


 返事は求められていない。彼らは等式を口にするとき、必ず笑う。笑いは恐怖の防寒具だ、とヤーコフは知っている。彼はポケットから手紙を取り出し、「父上」の黒い塊に指を置いた。


 ——柵は境界か、定義か。

 光は「分けた事実」を示し続ける。ならばぼくは、その事実の外へ手を伸ばせるか。手を伸ばすとは、誰かの寒さを少しもらい受けることだろうか。


 窓辺に立つと、電線の雪が譜面のように見えた。風は音符を運び、同じ小節を何度も繰り返す。彼は譜面の終わりがどこかにあることを知っている。終わりは静かさだ。静かさは叫びよりも遠くまで届くことがある。

 手すりに添えた指先が冷たさで痺れ始める。冷たさは、選択を遅くする。遅さは、誤った等式を拒む。


 背後で少年が身じろぎした。ヤーコフは静かに振り向き、寝具の端を整える。ひどく古い習慣——食卓の皿の縁を指で拭い、叱られた日の癖が、まだ体に残っている。指で触れるな、目で整えろ。父の言葉は短く正しかったが、その正しさの陰で、彼は目より先に指で確かめる癖を覚えた。名より先に体温で確かめる癖を。


 灯りが一段暗くなる。どこかで発電の具合が悪いのだろう。電気が弱ると、電線はただの線に近づく。柵は、少し厚いだけの鉄に戻る。見張り塔は、少し高いだけの四角い小屋に戻る。

 「もし今、電気が止まったら?」教師が囁いた。


 「雪は、ただの雪に戻る」

 ヤーコフは答えた。「それでも柵は残る。境界のほうが、電気より頑丈だ」


 「名は?」

 「名は、残る。番号よりも遅く、しかし深く」


 やがて、遠くで金属が落ちる音。誰かが缶を蹴ったのだ。警笛が短く鳴り、すぐにやむ。夜は再び、譜面にもどる。

 ヤーコフは手紙を折り、空欄の宛名の上に掌を置いた。

 ——番号で死ねるなら救いだ、という考えは一度は甘い。しかし甘さは長持ちしない。甘さは保存のための加工で、戦争を長く燃やす砂糖だ。

 ならば、甘さのない返事を探すべきだろう。返事を遅らせること。遅さで守れる名が、今夜はきっとある。


 「君はどうする」教師がもう一度だけ問う。


 「決めない。今夜だけは」

 「決めない、も決める、だ」

 「わかっている」ヤーコフは頷いた。「責任は後から来る。来る場所を、あらかじめ温めておく」


 彼は少年の寝台に毛布をもう一枚重ね、缶の音の消えた廊下を見つめた。外では、雪が電線の上で崩れ続けている。

 譜面はまだ続く。風が読むかぎり。


 夜の終わりが、どこかで小さく息をしていた。

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