晩夏光に赤くピンキー
キン セイカ
MITUKI 就活始めました
入道雲が白い巨塔のように空にそびえ、異次元の陽炎が踊る。
熱波は地を這い、アスファルトから焦げた匂いが立ち上がる。空気は揺れて視界を歪ませる。晩夏の太陽は容赦なく照り付け、万物を焼き尽くすような熱を放つ。木影すら熱気をおび逃げ場がない。蝉の声が響き、汗が肌を伝う。
灼熱地獄の中を乾いた擦れ音を立てて自転車で走り抜ける。ペダルを踏むたび、チェーンがスプロケットを噛みカチカチ、ジーというリズミカルな金属音が響く。時折、熱で膨張したタイヤが地面を叩くトトンという微かな振動音が混じる。猛烈な熱風を切り裂くヒューという風切り音が加わり、力強く前に進める。
車輪の回る音が爽やかに変化した頃キキっとブレーキ音を立てて駐輪場に着いた。
自転車を停めてそそくさとかごからリュックを取り小走りで集合ポストに走る。
さび付いたシルバーのポストをこじ開けると待ちわびた一通の郵便物が届いていた。
就活の合否通知だ。心臓がドクドクと鳴る。
美月は汗ばむ手で少し震えながら封筒を取った。単に日陰に入っただけではない湿った空気で少し熱気が冷めた。
錆びた鉄柵や手すりの金属臭がほのかに混じる階段を足早に駆け上がった。エレベーターなど当たり前になかった時代に建てられたこの集合団地の3階に家族で暮らしてもう10年になる。
同じ団地の同級生たちは続々と就職先を決めていて、良いニュースが食卓を彩った時期を経て、今では卒業旅行や一人暮らしの準備など次のフェーズの話題になっているそうだ。
まだギリギリ1か月余りの猶予はあるけれど、と願いながら錆びついたの扉の鍵を開けた。心を整える様に靴の向きを整えて、リビングのソファにリュックを置こうとしたが、結果投げ捨てる形になった。
第三志望のこの会社で決まってほしい。でもその割には、と美月は落胆した。
封筒が明らかに薄い。そして証明写真の部分のような4CM掛ける3CMの堅い部分が指先の感覚で分かる。
一旦開封の儀は止めよう、とそそくさとクーラーをつけた。
窓の外では、蝉の声が暑さを一層酷くしていた。
美月はキッチンテーブルに座って目の前に置いたバニラアイスを見つめていた。スプーンを手に持ったまま、少しの間時間を忘れたようにバニラアイスの白さにただ目を奪われていた。ゆっくりと溶け始めバニラの甘い香りが涼しく香り、紙パッケージの表面に小さな水滴が浮かんでいる。
大学4年生になってからようやく重い腰を上げて、就職活動に追われる日々に埋没した。履歴書、面接、自己㏚、そのどれもが彼女の心を重くしていた。こんなことは早く終わらせたい。
「太ってもいいや」と美月は小さく頷き食べる決意をした。
スプーンでそっとすくい上げるとアイスは柔らかく、クリーミーな触感を残しながらスプーンに収まった。口に運ぶと、冷たさが舌の上で広がり、甘さがじんわりと心までしみていくようだった。バニラの香りは、どこか懐かしい。
子供の頃、夏休みに祖母の家で食べたバニラアイスの味を思い出した。あの頃は、こんな風に自分の未来を心配することなんてなかった。トマトが大好きだから、トマトさえ育てていけば食べ物に困ることはない。たまにアイスを買いに行けたら幸せだ、としか考えていなかった。
窓から差し込む陽光がテーブルの上で揺れた。
もう一口、もう一口とアイスをすくう。溶けかけた部分がスプーンに絡みつき、少し液状になったアイスが滴る。甘さと冷たさが混じりあって喉の奥に消える。その刹那を幾度か繰り返すと、彼女の胸にある小さな閃きがうまれた。
どんな現象も、こんな風に溶けていくことかもしれない。形を失い、流れ、別の何かになる。それならば、と美月は小さく呼吸をした。冷たい呼気が右腕を這った。
アイスが溶ける様に、不安もいつか別の形にかわるのだろうか?
確信などないままカップに残った最後の一口を食べ終えて、美月は目を閉じた。
蝉の声が、まるでたった今彼女の心に響いている感想のようだ。
ああ暑い!バニラアイス美味しい!クーラー涼しい!
就職先も卒業旅行も決まっていない。
完璧な未来はなくても、この暑さの中で、私は確かに生きてバニラアイスを食べている。その事実にほんの少しだけ救われた気がした。
自転車をこいでいた時は熱気を煽る蝉の鳴き声に嫌気が挿していた。でも蝉も自分と同様に懸命に生きていて、そしてアイスは食べれていないのだ、と思うと蝉の存在がなんだか切なく感じた。
スプーンを洗いながら美月はふと冷蔵庫に目をやった。
冷凍庫には実はまだアイスがある。
明日も、きっとこんな風に小さな幸せを、見つけることができるだろう。
不安もアイスが溶けるように、時間や気持ちがゆっくり流れてる中でいつか形を変えていくのだろう。
美月はリビングの直ぐ隣の和室の畳に寝そべった。クーラーで畳はひんやりしてい草の良い香りがした。
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