第六章 なっちゃんを取り戻そう
土曜日は午前中で授業が終わる。昼を過ぎると校内は人気もなく、ゲームの世界のダンジョンに迷い込んだようだった。
ぼくと由宇は第二化学室で向かい合った席に座っていた。窓の外からかすかに吹奏楽部のオーボエの音が聞こえてくる。ぼくは机の上になっちゃんの写真を置いた。あの古い写真を使うことに不安もあったが、由宇はそれが問題ではないと言った。
これからなっちゃんにシアターを仕掛ける。
真昼間にシアターを使うことについて、ぼくは疑問を口にしたが、由宇には勝算があるようだった。
「さあ、なっちゃんを取り戻そうぜ」
由宇の言葉に頷き、ぼくは実験台の黒い天板に上半身を横たえた。腕が触れたテーブルの独特のひんやりした感覚が気持ちいい。
ぼくは写真を眺めると、そのひんやりした感覚に身を委ね、吸い込まれるように眠りに落ちていった。
気がつくと、ぼくはいつもの映画館で座るぼくを見ていた。
すぐに『上映』が始まると、真っ暗になった。こんなことは今までなかった。
不安になりつつ画面を凝視していると、黒い画面の隙間から時折明るい光が入る。よく見ると、画面の黒いものは髪の毛だった。
オリジナルはうつむいて髪の隙間からじっとテーブルに乗せた自分の手を見ていた。その手は忙しなく動き、たまに顔を上げて前を確認するが、すぐに視線を戻してしまう。
髪で見えないため場所はわからない。そこは小さく音楽が流れていて、ざわめきと誰かの話し声がひっきりなしに聞こえてくる。話し声は英語だった。
派手なブラスバンドの演奏が始まると、周りは一気に盛り上がる。オリジナルは慌てて半分ほど髪をかき分け、前方に目を移した。スポットライトがステージを照らすと、その奥にある大きなスクリーンには、次々と絵画や写真、オブジェなどが映し出されていた。これから始まるイベントを前に、興奮した観客が拍手や声を上げ、立ちあがる。背の高い快活そうな男性がマイクを握り、なにかをコールすると、会場は割れんばかりの拍手が起こり、熱気に包まれた。
ステージの上のスクリーンでは海外の街角を描いた絵が映し出されていた。司会の男性が名前を呼ぶと、ひとりの外国人がステージに上がり、ハグを交わした。
彼はインタビュー台に上がると大きな手振りで喜びを表現する。そして興奮気味にスピーチすると、トロフィーを受け取った。髪の毛で半分以上隠れているが、その様子からどこか外国の授賞式なのだと理解した。
その後も次々と名前が呼ばれ、トロフィーが渡される。オリジナルの目線はそわそわと自分の手元とステージを行ったり来たりだ。やがて大きなドラムロールが鳴り、一際大きく司会の男性が会場を煽る。ステージのスクリーンにドクロと能面をモチーフにした大胆かつ印象的な絵が映し出された。
「ナツキ タカハラ!」
なっちゃんだ!
なっちゃんは驚いたようにその場で固まっていたが、周囲の祝福ではっと我に帰ったようだった。
硬い動きでステージまで歩いていくと、前髪の隙間からステージライトの強い光が降り注いだ。司会の男性とぎこちないハグを交わし、ぺこぺことお辞儀をする。カンペを取り出し、やっとのことでスピーチを終えると、「さ、さんきゅー」と言った。それでも視界は半分しか見えない。
その瞬間、スポットライトがまっすぐ前髪越しに当たった。ステージの両脇のキャノン砲から金色の花吹雪が勢いよく飛び出し、会場全体から大きな歓声が沸く。なっちゃんはやっと前髪を横に分け、会場を見渡した。
輝くような金色の、光の世界。
紙吹雪にライトが当たり、反射した光があちこちに拡散する。たくさんの人が声を上げ、立ち上がり、なっちゃんを祝福していた。なっちゃんはその眩しさに、一瞬手をかざした。
なっちゃんは立派な髭の男性から大きなクリスタルのトロフィーを受け取った。そしてトロフィーを抱きしめるようにして顔を埋めた。涙が滲んでスクリーンがじわりと霞んだ。
その瞬間、ステージの前でカメラマンがなっちゃんに向かってカメラを構えているのが視界に入った。
なっちゃんは慌てて、再び顔を前髪で覆った。
ぼくは目覚めるなり、ばっと飛び起きた。
「なっちゃんが、なっちゃんが……無事だった」
なんとかそれだけを伝えて、大きく息を吐いた。急に力が抜けて、ぼくは肩を落とした。
由宇はほっとした表情で「よかった」と小さく言った。
落ち着いたところで、ぼくは由宇にシアターの内容を伝えた。由宇は時々頷きながら、ぼくの話に耳を傾けていた。
「なっちゃんが無事だったのは喜ばしいことだけど、あの『授賞式』らしき場面は一体なんだったんだろう……」
ぼくは首を傾げた。
「それは本当に『授賞式』だったんだよ。おそらく、数時間前にニューヨークで行われたばかりのね」
「ニューヨーク!?」
ぼくは思わず声を大きく上げた。由宇はこくりと頷いてみせた。
「なっちゃんが海外のコンペに応募したがっていたことは、山田先輩も言っていた。それに長野先生の夢で『自分のことをがんばる』って言っていたのも、何か関係がありそうだと思ったんだ」
「それが、アートコンペへの出品だったってこと?」
「そう。調べたら、ニューヨークで現代アートの大きなコンペが開催中だったんだ。しかも、あのダッシュボードのうさぎは今回のコンペのマスコットキャラクターだった」
「……だから、夜中にシアターを仕掛けても無反応だったんだ」
ぼくは放心して、呟いた。
「うん、ニューヨークとは時差が十三時間あるからね。昼夜逆転してしまう」
「時差か。そんなの想像もしてなかったよ。じゃあ、なっちゃんの愛車が停まったままなのも……」
ぼくの言葉に由宇はぴんと人差し指を立てて言った。
「駅から空港行きのバスに乗ったからだろうね」
「なんだ……」
ぼくは額に手を当て、安堵のため息をついた。
なっちゃんが無事で本当によかった。
落ち着いてくると、もやもやと疑問が出てくる。
「それならなっちゃんも海外に行くってひと言くらい教えてくれたらいいのに」
ぼくが唇を尖らせると、由宇はわざと大げさに肩をすくめた。
「それがあの極度の照れ屋のなっちゃんらしいところだよ。現地まで行って何も受賞しなかったら恥ずかしいとか思ってたんじゃない?」
「……まあ、そうかもしれないね」
ぼくはピースサインだけ突き出したなっちゃんの写真を思い出した。
「――なのに、授賞する気満々で前髪まで伸ばしていたけどね」
由宇は吹き出すようにして笑った。
「あの、前が全然見えない前髪! 顔を隠すために伸ばしてたんだ……」
国際的なアートコンペで受賞して、恥ずかしいからと取材を受けないわけにはいかない。あの前髪はなっちゃんの苦肉の策だった。
なっちゃんの行動には一貫性があったのだ。あの置きっぱなしのジムニーも前髪も。
翌日、ニューヨークのアートコンペで高校の美術教師の受賞が報じられると、ぼくの学校は大騒ぎになった。
月曜日に登校したなっちゃんは生徒から質問攻めにあい、小さな声で謝っていたが、それも一瞬で、学校中がお祝いムードに包まれていた。
学校の正面玄関のホールには『なっちゃん 入賞おめでとう』と派手な飾り付けが行われ、またなっちゃんを照れさせていた。
唯一、コンペのことを知っていた校長先生はしたり顔で『本学は自主性を重んじ創造性を尊重する。それは生徒も教師も同様である』などと語り、取材で抜け目なく学校のアピールまでしていた。
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