失踪インソムニア

乙森ノア

序章 夕焼け色の失踪

 夏休みが始まる前、ユキノちゃんは忽然と姿を消した。

 まもなくして、ぼくは夢の中で彼女の死を告げる声を聞いた。そのおぞましい声は、今もぼくの心を縛り、支配し続けている。

 それが、ぼくを苦しめ続ける恐ろしい呪いの始まりだった。


 ぼくとユキノちゃんが出会ったのは、八歳の春。一緒に過ごしたのは、三ヶ月もない。

 放課後、ぼくは学校から家に帰ると鞄を置いて、近所の図書館へ駆けるように向かった。本好きのぼくは、家にはない様々な本が揃う図書館をいたく気に入り、ほぼ毎日のように通っていたのだ。

 絵本に漫画に図鑑に辞書、雑誌や実用書や小説。こんなにわくわくするのに図書館の中では喋っちゃいけないというルールも、秘密基地みたいでぼくの心をさらに楽しくさせた。

 そうして黙って本を読んでいるばかりだったぼくに、ある日、変化が訪れた。

 ユキノちゃんは肩までの髪を揺らし、屈託のない笑顔でぼくの顔を覗き込むと、澄んだ声でこう言ったのだ。

「お名前なんていうの? ねえ、遊ぼうよ」

 ぼくは大きな柱から背中を離し、ユキノちゃんに向き直ると大真面目にこう返した。

「図書館は静かにしないといけないんだよ」

 ユキノちゃんは肩をすくめてくすくすと笑った。

「きみだって子供なのに大人の場所で本を読んでいるじゃない。ねえ、お名前は?」

 そう言われると否定できなかった。それに、きみだなんて呼ばれたのは初めてだったので、随分と大人びた女の子だな、と感じた。ぼくの知っている同級生とは少し違ったのだ。

「……ぼくは遠上とおがみ佐一さいち

「わたし、ソウダユキノ。佐一くん、キッズスペース行こ。そこならお話しても大丈夫だから」

 ソウダユキノ。雪のメロンソーダみたいだ。透き通ったエメラルドグリーンの液体に、グラスに沿った気泡と底からふつふつと沸き立つ雪のような小さな泡。淡いグリーンのワンピースのユキノちゃんを見て、ぼくはしゅわしゅわするような気持ちになった。

 ユキノちゃんはぼくの手を取り、高い書架に囲まれた落ち着いた雰囲気の閲覧スペースから、半ば強引に吹き抜けの大きな窓から明るい日差しが差し込むキッズスペースへと連れて行った。

 桜はもう満開で散り始めていた。

 風が吹くたび枝が揺れる。小さな花びらが舞い上がり、淡いピンク色の吹雪が窓を覆う。同じ図書館にいたはずなのに、なんだか不思議の国に迷い込んだようだった。

 子供っぽいキッズスペースはいやだな、と生意気なぼくはそう思っていたけど、少し大人っぽいユキノちゃんと話すのは楽しかった。

 給食で苦手なピーマンが食べられなかったこと、好きなアニメのこと、国語が得意なこと。同級生の男の子は乱暴でうるさいから、苦手だということ。

 ぼくは主に聞き役だったけど、楽しそうに話すユキノちゃんを見るのは嬉しかった。一緒に本を読みながらぼくが少し大人びたことを言うと、「さいっちゃん、また難しいこと言ってる。小さいのにおもしろいね」と楽しそうに笑うのが印象的だった。

 こうして、放課後の図書館がユキノちゃんと一緒に過ごす時間に変わっていった。それはぼくの変わらない日常に差し込む、プリズムのような虹色の光だった。


 ユキノちゃんと最後に会った日のことは、今でもよく覚えている。

 夏休みに入る前の放課後、帰り際にユキノちゃんはお母さんと手を繋ぎ、ぼくに片手を振った。

「さいっちゃん、またね」

 カーブした大きな窓から初夏の夕陽がやけに眩しく差し込み、低めの書架やライトブラウンのカーペットを鮮やかに赤く染める。歩き去るユキノちゃん親子の影がくっきりと長く伸びているのが見えた。

 ユキノちゃんは一度手を離し、また繋ぎ直した。そして、振り返っていつもより長く手を振った。ぼくは頷き、いつものように応えた。ほんの一瞬、遠くのユキノちゃんが泣き出しそうな顔になった気がして、目を逸らせなかった。

 なんだか妙に不吉な気がして、ふたりの影がハーメルンの笛吹き男を思い出させた。きっと夕陽のせいだ、そう思い込もうとしてぼくは唇を噛んだ。

 何度も繰り返した、いつものさよならだと。


 次の日から、ユキノちゃんは図書館に姿を見せなくなった。

 用事でもあるのかと思い、ぼくは変わらず図書館に通った。そして好きでもないキッズスペースへ向かう。声を出して本を読む子、友達と話に夢中な子。そこはいつものように騒がしかった。

 ぼくは窓際の造り付けのソファーの片隅に座り、本を読みながら雑音を気にしないようにユキノちゃんを待っていた。けれど、ユキノちゃんは一向に姿を見せなかった。それは夏休みを過ぎても変わらなかった。

 ソーダの気泡のようなぼくの気持ちだけが置いてけぼりだった。


 ユキノちゃんの死を現実よりも最悪な形で知ったのは、その年の秋が終わるころだった。

 夜ごとぼくを蝕み、夢の中に引きずりこむ――理不尽で逃げられない力で。

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