第42話 かしまの噂

新緑、というにはまだ早い、嬰児の前歯くらいの木の芽がうっすらと校庭を彩る4月。まだ肌寒いキャンパスには、サークル勧誘のチラシを抱えた2年生がウロウロしている。そして初々しい新一年生に馴れ馴れしく絡みつき、通路の両サイドに並べられた各サークルの勧誘ブースに引きずり込む。この光景を見るのは今年で2回目だ。

一年生の頃、この『馴れ馴れしく肩を組まれる』のがどうしても気に入らず、同じく気に入らなかった奉と共にサークル勧誘スペースの裏道を駆使しまくって勧誘を避けていたら、俺達はめでたく『無所属学生』となったのだ。今にして思えば、そこまでムキになって孤立する必要があったのか、ちょっと疑問に思わないでもないが、嫌だったんだから仕方がない。

ちなみに静流は全部断り切れず、一時期10個以上のサークルを掛け持ちする羽目になり、体を壊しかけたそうだ。


この時期、サークル勧誘や一年生のオリエンテーションに関わる上級生はちらほら登校している。しかし履修登録の前だから当然、通常の授業はまだなく、構内は人がまばらである。俺も特に用はないのだが、履修登録の為に今日だけ顔を出した。

一番広い講堂で履修登録用紙に書き込んでいると、今泉がぶらりと現れて俺の隣に掛けた。俺達とは対照的にキャンパスライフを謳歌している今泉はこの時期はさぞかし…と思っていたが、奴は意外にも、所属するサークルでは要職についていないらしく、隣でペンなど回しながら三年の選択科目の登録用紙を睨んでいる。

「かしまさん、また出たよ」

髪の色をまた少し変えた今泉が、気だるげに背を反らした。履修科目はおおまかに決まったらしい。

「出た…って、実物がか」

俺の声にも気怠さが混じってしまった。かしまさん、とはまた、前世紀のフォークロアが出て来たものだ。

「ちげぇよ。かしまさんの噂がってことだよ」


かしまさん。


日本の都市伝説界を代表すると云ってもいい、典型的な怖い噂だ。

『かしまさん』の在り方は、実に様々なのだ。酷い振られ方をした若い女であったり、部下に裏切られて殺された血も涙もない青年将校だったり。

ただこの話は、必ずある定型の締めに落ち着く。

『この話を聞いたら三日以内に、三人に広めなければいけない。さもないとかしまさんが枕元に立つ。その際、ある言葉を唱えないと、かしまさんに殺される』

という、今にして思えば極めて質の悪いフォークロアだ。

「俺、ああいう怪談嫌いなんだよな」

「なに。怖いの」

揶揄うような口調。俺は真顔で見つめ返す。

「あの男とつるんでて、今更怖いものなんかあるか」

「…だな」

幼い頃から…下手をすれば前世から腐れ縁の祟り神に、俺はとりつかれているのだ。一言定型文を口にしただけで消えてくれる怪異など、恐れるに足りない。

「なんかこう…迷惑だろ、ああいうのって。かしまさんとやらが本当に出てこない事なんて分かってるけど、何となく嫌な気分になるじゃん、その三日間。こっちは一方的に聞かされただけなのに、なにか余計な義務を課される感じが嫌」



「それな。義務を課すんだよねぇ、あいつらは」



頭上から、聞き慣れた祟り神の声が降って来た。首を反らすと、頭上にニヤつく奉の顔があった。厚手の羽織を肩掛けにして、下はグレーのワイシャツのみ。まだその恰好では寒かろうに。

「珍しい。自分から来てたのか」

履修登録の締め切りはまだ先だ。どうせ自分で選択科目を決める気はないのだろうから、俺が適当に書き込んで提出しておくつもりでいたし、授業が本格的に始まるまでは声を掛けなくてもいいか、と踏んだのだが。

「野暮用があってねぇ。…かしまさん、って云ったねぇ」

言葉を切って、奉は俺の隣に腰を下した。今泉と奉に挟まれる形だ。なにこの極端な三人組。

「この『話を聞いたら○日以内に、○人にこの話を広めないと祟りがある』というスタイルの都市伝説な」

その全てが、ある一つの目的によって作られているんだよねぇ。そう呟いて、奉はくっくっと笑った。

「広める…その一点に尽きるんだよねぇ」

話の内容なんかどうでもいいんだよ、ただ『広める』。だからこのパターンの話は、中身がスッカスカなんだよねぇ。奉はそう云って珈琲のプルタブをかしゅ、と上げた。

「作り手の醜いエゴが丸見えだ。そんなトコが気に入らないんだろ?お前」

「そ、そこまでは…」

似たようなことはうすぼんやりと考えてはいたけど、そこまで思っていたわけじゃない。

「けんもほろろだなぁ、玉群は」

だるそうに笑いながら、今泉が顔を上げた。また定型の怪談が流行ってるぜ、くらいの噂話をしたかっただけで、今泉にとっては噂の本質も真偽もどうでもいいことなのだろう。

「なぁ、玉群。野暮用ってなに」

今泉は唐突に振り返って、奉に声を掛けた。ふむ…と小さく呟いて顎に軽く手をあて、奉が今泉を見下ろした。

「…お前で、いいか。結貴じゃ話にならんからな」

「失礼だなてめぇ」

「今話していた、かしまの噂についてよ」

俺の存在を完全に無視して、奉が続ける。

「今回は、どんな噂になっているんだ?」

成程。学内の噂に疎い俺では話にならないわけだ。云い方は気に食わないが、理解はした。今泉は少し視線を宙に泳がせ、…すごく、宙に泳がせ…まだ、宙に泳がせ

「………まだ、まとまらんのか?」

奉が苛立ちを隠そうともしない声色で急かした。

「ってか、只の都市伝説だろ。真面目に聞いてないよそんなの」

っち、みたいな音が奉の口角から洩れた。こいつ最悪だ。舌打ちしやがった。

「あー…今回のかしまは、男?女?」

仕方ないので俺が話をまとめることに。

「ああ、女だよ確か」

即答だった。

「生贄にされたんだっけか?海に投げ込まれた?…いや、池に沈められた?とにかく、水に関わる殺され方されたんだ」

「水、ねぇ。今回は水」

くっくっく…と低く含み笑い、奉は腕を組んだ。なにか、収穫があったらしい。今泉は少し視線を彷徨わせると、ふいに俺の方に身を乗り出した。そして栗鼠のように目をクリクリと動かした。…小学生の頃のように。

「かしまってさぁ、戦争絡みのこと多くなかった?殺された軍人とか、爆弾で手足を吹っ飛ばされた人とか」

「俺ら小学生の頃はそれだったな。でも何年後かに聞いたかしまさんは失恋女だった」

「なんで『かしま』なんだろうな、あれ」

「脱線をするな」

奉が軽く机を小突いた。

「何イラついてんだよ…あー、そのかしまさんは、具体的に何をしてくるんだ?また三日後に枕元に立つんだろ?」

「んー、なんだっけな今回は」

今泉がまた斜め上に視線を彷徨わせた。…こういう所、今泉は大人だと感じる。陰キャ眼鏡に言葉少なになじられながら都市伝説語りをせっつかれているのだ。キレてもおかしくないと思うが、見事に『失礼さ』のみをスルーしている。俺なら見逃せない失礼っぷりだというのに。

「…ああ、思い出した。今回のかしまは」

かしまさん、達、なんだって。今泉はそう云って軽く顎にあてていた手を放した。

「水で殺されたんじゃない。殺されたのち、水に漬けられたんだったわ。何人もの『かしまさん』が」

今泉が、所々脱線しながら話した内容はこうだ。



とある墓守の男が、神の妻に恋をした。

神に輿入れした娘の名は『かしま』。

娘は神の子を身籠り、そのあまりの負担に

産む事なく命を落とす。


男はその尊い亡骸に恋をした。

娘の美しい亡骸を惜しんだ男は

娘を火葬した振りをして、

その亡骸を冷たい水に漬けて隠し

毎夜、眺め続けた。


やがて娘の美しさを忘れられない男は

娘と同じように身籠った女を攫っては縊り殺し

腹を裂いて胎児を取り出し

水に漬けて娘と同じ姿に変え、毎夜眺めた。

男は腹を裂かれて死んだ女達を

『かしま』と呼んで慈しみ続けた。



さて。

この話を聞いた人は、その日のうちに

かしまさんの話を三人に伝えなければならない。

伝えなければ、かしまさん達が全員、枕元に立つ。



なにそれ怖い。全員で押しかけるのか。

「…何人立つの?」

「えー、そこまで知らないよ」

大して興味もないのだろう。今泉は自分の話に自分で飽きて大きな欠伸をした。

「今回も、名前を聞いてくるのか?」

かしまさんのお約束パターンだ。名前を答えさせてくるやつ。しかし、中には定型文を一字一句間違わずに答えないと殺しにくる無茶なかしまさんもいるので油断はならない。

「あー…そのパターンもあるんだけど、今回のかしまさんは、回答を選べるんだ。それはね…」



今泉の話を聞き終えるや否や、奉は踵を返して講堂を後にした。

「…ヤバいことになったねぇ」

そう呟いていたような気がした。




その夜、かしまさん達が、俺の枕元に立った。




『今回のかしまさんは、回答を選べる』

今泉の言葉が脳裏をよぎる。微かな緊張を覚えて、俺は『かしまさん達』と対峙した。

…思った通りだ。それは、腹を裂かれた、あの女達だった。



―――私たちの、名前は?



笑いさざめき、回答を待つ女達。

俺の腹は決まっていた。…正直、少しだけ迷ったが。

俺は小さく息を吸い…静かに、一言だけ云った。



「存じ上げません」



中央の、ひときわ美しい女が、目を見開いた。それでいいのか…それで。念を押されているようだ。だが俺は回答を変えない。というより、変えられないのだ。回答を変えた人間の運命を、都市伝説は語っていない。語られていない行動をとることは、とてもリスクが高いのだろう。多分。

…やがて、女達の誰かが小さく舌打ちして『かしまさん達』は揺らめいて消えた。


午前二時の暗がりに取り残された俺は、まだ肌寒い4月始めだというのに汗をびっしょりかいていた。…俺は、間違えなかった。正解かどうかは分からない。でも対応は間違えていない。だから彼女らは消えたんだ。俺は自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返し呟いた。


「俺は、間違っていない」


 今泉が語った、都市伝説の続きは、こうだった。

「枕元に立ったかしまさん達は、本当の名前は『かしま』じゃないだろう?だから、回答を選べるんだ。もちろん、かしまさんですと答えてもいいんだけど、『知りません』て答えることも出来るんだ」

「…かしまさんと答えたら、どうなるんだ?」

「彼女たちを殺した男が、死ぬ」

―――血の気が引くのを感じた。

この話は現在進行形なんだ。彼女たちを殺した男、というのは、とりもなおさず『あの男』しかいない。妊婦たちの腹を裂き、ホルマリンに漬けた『あの男』だ。これは薬袋の罪の話。それは絶妙に形を変えて、都市伝説として明るみに出たのだ。

「知りません、と答えると?」

んー、と唸ると、今泉はまた首を捻った。

「忘れちゃったな。ほら、今回の話って、回答を間違えたらどうとか、自分が死ぬとかじゃないじゃん。なんか熱心に聞いてなかったんだよね。…多分、その男が死なないとかじゃね?」

「……そうか」

「ただこれってさ、あの心理テストみたいだよね」

「心理テスト?」

「トロッコのスイッチ、切り替えるやつ!」

そう云って今泉は、ニッと笑った。





「云い得て妙だねぇ、あの阿呆にしては…ありゃ心理テストじゃないんだが」

くっくっく…と低く笑い、奉はぬるめの茶を啜った。

きじとらさんの茶がぬるめなのは、猫だからなのだろうかと奉に聞いた事があった。奴はとてもイラつく表情で『玉露だからだ、阿呆が』と吐き捨てた。…俺は、彼女は猫だから敢えてぬるめに淹れる玉露を選んだのだと思う。神社の境内は春の陽気で温まっているが、書の洞はまだ冬の気配だ。

「トロッコ問題か…」

ずん、と胸の奥が重くなった。


トロッコが全力で走ってきます。

その先に二股の分岐があり、あなたはトロッコの行先をスイッチで切り替えることが出来ます。

トロッコが本来向かっている線路の先では、五人、作業しています。

二つ目の線路の先では、一人、作業しています。


あなたが何もしなければ、

五人の作業員は暴走トロッコに激突されて死んでしまいます。

あなたがスイッチを切り替えたら

五人の作業員は助かりますが、一人の作業員は死んでしまいます。


あなたの行為によって。


「…俺は、五人の作業員を見殺しにしたのか」

あの男を死なせる事を拒否した。

女達は俺を見ていた。それがお前の回答か。と。

咎めるような目で。

俺はあの男を野放しにすることで、新たな犠牲者を生み出す手助けをしてしまったのかもしれない。

「そりゃ厳密には違うねぇ」

開いた本から目を離さず、茶菓子の要求でもするような声で、奉が云った。

「…違う?」

「お前如きに、一人の人間の生殺与奪を左右する権利があるとでも思ってんのかい?お前、何様?」

「ほんとカチンとくるなお前。じゃ、何なんだよこれは」



「生かすに一票、ってとこだ」



ここにきてようやく本を閉じ、奉は少し顔を上げた。口の端が、僅かに吊り上がった。

「昔からあるだろう。何か不吉な事が起こる際、不思議なわらべ歌が流行する、なんてのが。そりゃ、そのわらべ歌が凶兆だったってことだ。…かしまの噂は、悪い兆候を反映しやすい。どういうわけか」

「…だから、色々なバージョンがあるのか」

「不吉な事件ありきで、あとから派生するタイプのやつもあるけどな。で、今回の『かしま』はな」

住民投票に、使われたんだねぇ。そう云って奉は、煙色のレンズ越しに俺と目を合わせた。

「あの男は、この地の産土神を怒らせた。本来ならとっくに殺されていてもおかしくはないんだが、まぁ…気まぐれなのか、人の営みに自ら干渉することに躊躇いがあったのか、彼はどういうわけか、この地に住まう者達にゆだねることにしたんだろうねぇ」

薬袋を殺すか、否かを。

「俺は…『殺さない』に一票を投じたに過ぎない…ってことか」

不謹慎ではあるのかもしれない。しかし俺は、深く安堵していた。俺一人の判断で全てが決まるわけではないことに。連帯責任。これは連帯責任なんだ。…罪が分散された気がした。不覚にも。

「恐らく純粋な多数決ではない。かなり『殺す』側に有利な割合に調整されているだろう。ひょっとしたら『殺す』に一票でも入ったら、もうオシマイかもしれないねぇ」

奉は軽く肩をすくめた。

「…まぁ、そろそろかな、とは思っていた」

「そろそろかなって、お前…」

声が、震えるのを感じた。

そうだ、薬袋が殺されるのは当然の報いだ。俺だってあの男には殺されかけている。なのにいざ軽い調子で『そろそろ』などと云われると、気持ちがざわめいて仕方がない。…何で俺はこんなに落ち着かないんだ。何故『何とか助けられないか』などと考えてしまうんだ。

「寝覚めが悪いなぁ、とは、俺も考えてしまうがね。…だがな、これはもう仕方がない」

「…どうにもならないのか」

「ならないよ。あの男自身と同様にねぇ。あいつがしたことを考えろ。報いをうけて然るべきなんだよ。…俺もねぇ、何も手を打たなかったわけじゃないんだよ」

奉はつい最近まで、客人神としてこの地の一角で何の責任もなく、ひっそりと存在を許されてきた。だが玉群の統べる土地と僅かな関係者を押し付けられ、極めて範囲の狭い産土神にされた…らしい。

「玉群の土地の何処かに監禁すれば、いくらか延命出来たかも知れない。だが書の洞は駄目だ。きじとらは過去に、あの男に殺されかけているからねぇ」

――とんでもねぇな改めて思い返してみると。

「だがそうと決めた途端、奴と連絡が取れなくなった。…僅かな土地しか持たない俺と、真っ当な産土神ではレベルが違うんだよねぇ。もう俺には何も出来ん」

眼鏡の奥の表情が、見えなくなった。あいつが自分の土地に変態センセイを『匿う』ところまで譲歩したことに純粋に驚きつつ、俺は底知れない寒気を感じていた。

土地の神を怒らせるとは、こういう事なのか。

さっき、奉は気まぐれ、躊躇などと云ったが、本当にそんな生易しいものなのか。

「…その、産土神は…本当に薬袋にワンチャン与えるつもりで、かしまの噂を流したのかな」



「違うかもねぇ」



こともなげに云って、奉は頬杖をついた。

「震えて眠れ…ってやつだ、むしろ」




薬袋の訃報を聞いたのは、それから数日後のことだった。

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