第26話 猫鬼

僕のあとをついてくる、小さな猫がいた。



大人たちの寄合が終わるまで、奉の洞でお菓子でも食べながら待っていて、と、奉のおばさんに菓子を一包み渡された。

ほんとは、あんまり行きたくない。大人は奉を怖がるようなそぶりをする割に、僕に奉を押し付けようとするんだ。

奉はいっつも、本ばっかり読んでてあまり僕を見ない。遊ぼうと誘っても『そういうのはもう飽きた』ばっかりだ。飽きたとかいうけどそもそも、僕は奉が遊んでいるのを見たことがない。



奉も多分、一人で居たいんじゃないかと思う。どうせ本ばかり読むんだし。



そう思って僕は、今日は奉んとこに行かない!って今決めたんだ。

『今日は奉んとこだから…』と断ったけど、ほんとは今日、俊とか悟とかがポケモンでバトろうぜ!って声をかけてきてくれたんだ。DSはカバンに入ってるし、今から行ったら1時間くらいは遊べるかな。

そう思い立ったらワクワクしてきた。僕が急に行ったらビックリするだろうなぁ。

踵を返した瞬間、ふわふわの暖かいものが僕の足首にあたった。



それはとても綺麗な目をした、茶色いしましまの子猫だった。



試しにぐい、と足を軽く踏みだしてみたら、柔らかい毛並みに足首が埋まった。小さく頼りない声で啼くので、口の中でゴメン、と呟いて足を引っ込めた。…首輪、はしていないみたい。だけど毎日櫛でも通してるのかな、と思うほど綺麗な毛並み。

すごく放任主義の飼い主にでも飼われているのかな。

毛並みは…僕は猫の中では三毛が好きなんだけど、この子は茶色と黒の混じったしましまだ。

猫の上に屈みこむと、菓子の入った包みをふんふん嗅ぎ始めた。お腹がすいているのか。

猫って菓子なんか食べるんだろうか…奉んとこで呉れたんだから、多分高くてよく分からない和菓子とかだろう。僕はポテチとかのが好きなのに。包みを軽く開いて猫の前に置く。

「好きなの食べていいよ。あの…えっと、変なシマシマのー…」



「雉寅というんだ」



びっくりして振り向くと、奉が植え込みの向こうの暗がりに立っていた。

「雉の羽のような縞だから、雉寅。…見事な縞だろう?」

「いつからいたの!?」

「さあねぇ。よく見かけるようになったのは最近だが、その前から見ないこともなかったし……」

「奉がだよ!」

「お前が帰ろうとしたあたりから」

奉が猫の傍らにしゃがむと、猫は奉の手の甲に頭をすりつけた。…奉が少しだけ笑う。

「―――俺のことが大好きなんだ」

いつもと変わらない口調だったけど、僕はふと、思った。

奉も、寂しさを感じることがあるのだな。と。





目の前に置かれた湯呑の湯気が鼻先を掠め、ふと我に返った。

何故、今更俺はあんな昔の、なんてことのない一幕を思い出したのだろう。

「…少しは眠れたの?」

母さんが気遣わしげに俺を覗き込んでいた。大学にも行かないで一日中、連絡を待ってぼんやりしている俺が心配なのだろう。俺は軽く肩をすくめると、湯呑を持ち上げた。

「こういう時は、周りがどう騒いでも仕方ないからな…」



『野寺坊』が、息を切らせて玉群神社に駆け込んで来た日から、2週間が経つ。



きじとらさんが身を寄せている廃寺の住職(?)を、俺たちは野寺坊と呼んでいる。本名は聞いた事ないし、聞く必要も感じたことがない。

その野寺坊が、玉群の長い石段を息を切らせて駆けのぼって来た。そして息も絶え絶えになりながら、こう叫んだ。

「―――玉は、居るか!?」

……きじとらさんを見かけなくなって、3日目の昼だった。

きじとらさんを追うように奉が姿をくらまし、もう2週間は経つ。俺だって最初からぼんやりと手をこまねいていたわけではない。情報通の飛縁魔や未来視の静流さんに声を掛け、心当たりの場所を駆け回り、1週間に亘ってきじとらさんを探し続けた。

―――闇雲な捜索が功を奏することはなく、心当たりは回り尽し…今は連絡を待つだけの身となっている。

振られた身で情けない話だが、時間が経つ程に頭の中をきじとらさんの記憶が占める。俺を気恥ずかしくなる程に凝視するきじとらさん。奉にだけ底なしに優しいきじとらさん。俺を斬ろうとした瞬間、瞳を揺らして躊躇った…あの表情…。

駄目だ、何を食っても砂を噛みしめているようにしか感じられない。俺は機械的に、冷めたおにぎりを齧った。



ぱたぱたぱた…と、手足で階段を叩きながら上がってくる幼い足音が聞こえてきた。



思わず、眉をひそめてしまった。小梅ちゃんと姉貴が遊びに来たのだな。だが今の俺には小梅ちゃんと遊んであげられる余裕はない。姉貴…何故今、小梅ちゃんを連れて来たんだよ。そう云ってやりたいが考えてみれば娘が実家に遊びに来るのは自由だし、こんな状態の俺を一人で気に掛けている母さんも、気が滅入っていることだろう。

「ゆーうーきーくん!」

最近覚えたらしいノックのつもりか、小さい拳を叩きつけながら小梅ちゃんが叫ぶ。…なんというか、どうもこの子には女の子らしいしとやかさというか、嫋やかさみたなものが足りない。姉貴の血だろうか。

「のっくがきこえたら、あけるものよ?」

そう云って、ぷりぷりしながら小梅ちゃんが入って来た。言葉はまだ少したどたどしいが、妙に難しい言い回しを使うようになってきた。アニメか何かで聞いたんだろうか。…それを云うなら、ノックしたら『どうぞ』があるまで入らないものよ?と心中で呟く。自然と、頬が緩むのが分かった。

「―――こんにちは」

言葉がうまく出てこない。寝てないし、きじとらさんのことが頭から離れないし。無難な言葉と共にぎこちなく笑うのが精一杯だ。

「結貴くん」

こんな幼い子供にも、俺の様子がおかしいことが分かったんだろうか。小梅ちゃんは俺の膝の上にちょこんと座ると、顎の下から覗き込むように俺を見上げた。



「あのね…奉くん、もうすぐかえってくるのよ」



一瞬、何を云っているのか分からず小梅ちゃんの目を見返した。

「奉くんがいないとき、おやしろの上にね、黒い鳥がいるの」

「……小梅ちゃん?」

「鳥さんはね、奉くんがいないときだけ、おやしろに近づけるのよ。鳥さんがいなくなったら、奉くんがかえるのよ」

今日のおやつの話でもするような口調で、小梅は妙な事を云ってにっこり笑った。…俺も『視る』性質の人間だ。俺の家系にはそういう人間がちょいちょい居る。姉貴は全然だが。

だが俺は『お社にいる黒い鳥』など見たことがない。…胸騒ぎに近いものを感じたが、この時の俺には深く掘り下げる余裕はなかった。…ただひたすら、子供が話す黒い鳥云々の話を鵜呑みにして安心したかった。

「奉なんかどうでもいいんだが…きじとらさんを連れて帰ってくるのかな」

「どうかなぁ…きじとらさんの行ったばしょは、奉くんとはちがうもの」

「……どういう、こと?」

「きじとらさんは、すごく遠くにいったの。ねこのおにに、されるのよ」



―――猫の鬼!?



「猫鬼」

背後から、聞き慣れた男の声がした。

「…すげぇな!!」

本当に、奉が帰って来た!俺は思わず奉と、小梅ちゃんを交互に見比べていた。

「壊れた扇風機か」

「うるっせぇ…いや、2週間も何処行ってたんだお前は!?きじとらさん見つかったのか!?」

いつか、小梅の話を真に受けて麒麟を探して1週間程姿を消していた時とは様子が違う。最後に見た時と同じ姿で、煙のように立ち現れて…そのまま消えてしまうのかと思う程、ただ静かに立ち尽くして居た。

「犬神ってのは、聞いた事あるだろう?」

こっちの問いは適当にスルーして、2週間も失踪していた男は滔々と話し始めた。

「ありゃ、大陸の方の『蠱毒』という外法の一種だ。日本では犬を使う犬神が有名だが…猫を使う方法もある。猫の鬼、と書いてビョウキと読ませる」

「…おい」

「いぬがみって、なに?」

「んー…昔の中国の人が使った、呪いだねぇ。よく懐いた犬を首まで埋めて、口の届かない所に食べ物を置いて飢えさせるんだ。そして犬の飢えがピークに達した瞬間を狙って、首を刎ね…いや、首ちょんぱにしちゃうんだねぇ。そして首は神社の境内など、人通りが多い場所に埋めて多くの人に踏ませる。すると、犬の幽霊がその人の云う通りに動いてくれる『しきがみ』っていう霊になるんだよ。この呪いは、日本でも流行ることになる」

「ひどい!!犬かわいそう!!」

「ほんとうだねぇ。昔の人はひどいねぇ」

「奉やめないか」

「ビョウキは、ねこをうめるの!?」

小梅が怒り始めた。どうしようこれ。

「猫鬼のほうは、日本には馴染まなかったがねぇ…これは日本独特の感覚なのかもしれないが、猫は『祟る』。素直で人間想いの犬とは違い、人間の思い通りに使役など出来るものではない。第一」

奉は一旦言葉を切り、ため息と一緒に小さな声で呟いた。

「……猫は、人に懐くものではない」

いやいや、懐くという表現は多分に懐かれる側の主観を含むねぇ…そう云って奉は腕を組みかえた。

「言葉を替えるか…そうだねぇ、猫は使役されることを嫌う」

「だろうね。奴らはお手すら覚えない。要らん悪戯はバリエーション豊富に覚えるくせに」

「そうそう、わがままだわ祟るわ、上手いこと働かないわ。攻撃手段としては機雷みたいなもんだねぇ」

「―――その話は、きじとらさんに関係が、あるのか」

わなわなと、肩が震えた。

俺は思い違いをしていたのかもしれない。

奉は俺たちと同じ、いや少なくとも近い倫理観を持っていると。

だがいつか、奉自身が云っていたじゃないか。何を勘違いをしているのか。人の生き死になど取るに足りない問題だ、と。

「まさか」

拳を、ぐっと握りしめ、奉の間合いに入った。

「お前…きじとらさんを!!」

「何故」

奉は静かに俺を見返していた。煙色の眼鏡の奥は相変わらず伺いようもないが、頭の奥がすっと冷える感覚だけは分かった。

「な訳ないか…そんな外法なんか使わなくても」

こいつは自らに害を為す者を自動的に呪う、祟り神だ。外法に手を出すような必要性がない。俺は…自分で思っているよりもずっと疲れていたみたいだ。

「………ごめん」

「猫の妖は数多い」

今の一連のやり取りなど無かったかのように、奉は続けた。

「猫又を始めとして金華猫、五徳猫…いずれも人に化けて怪を為す妖よ」

「狐も狸もそんなもんだろ?」

ふらりとよろけてソファに沈み込み、奉は目を閉じた。

「どこの世界に金玉を8畳広げて屋敷を拵える猫がいる。狐狸は『化かす』手段として人に化けることもある。屋敷にも、鬼にも、一枚の壁にも」

いつしか小梅ちゃんは、ベッドによじ登って人形さんの家を作る一人遊びを始めていた。大人に囲まれて育ったこの子は、妙に『引き際』を心得ているところがある。俺はそれが不憫に感じることがある。



「どういうわけだろうねぇ…猫は『人に化ける』一点に拘る…妙な癖がある」



ふと、きじとらさんの姿が脳裏をよぎった。細くてしなやかな指、雪のような白い肌。それは綺麗過ぎて人工的な作為すら感じる時があった。整形だとかそういう俗なものではなく、何処か綺麗な人形めいた…。

「そんなの知らん。…きじとらさんは結局、見つからなかったのか」

焦っていないはずがない。何故、この男がこんなにも取り澄まして現れたのか。

今更。

「猫又ってのはよ、結貴…どんな存在だと思う」

不意に問いかけられ、俺は戸惑いながら答えた。

「…長く生きた猫が…妖怪になった…ような?」

「子供のような回答だねぇ…まぁ、それでいい。要は『成った』ようなものだな。歩がと金に、飛車が龍に。それは結局猫の上位互換であり、猫以外の存在ってわけじゃないんだよねぇ」

「何が…云いたい?」



きじとらは『呪』の贄として攫われた。奉はそう低く呟いた。




「は!?」

一方的な否定の言葉が喉まで出かかって、必死に呑み込んだ。

「…だってお前、云ったじゃないかさっき。猫鬼は日本では定着しなかったんだろ…」

「猫は扱いにくいからだ。…だが猫又ではなく『人』になることを望んだあいつなら」

さぞかし、優秀な使い魔となることだろうねぇ…。それこそ、やりようによっては『神』すら屠れるような。そう呟いて、奉は羽織を翻した。

「もう帰るのか?」

階段の暗がりに差し掛かった瞬間、奉が振り向いた。煙色の眼鏡の奥の瞳が、昏い赤色に煌めいていた。背筋を氷が滑り落ちるような悪寒と一緒に、子供の頃の記憶がじわりと滲んだ。



―――奉の瞳が赤色を帯びた日。鴫崎がその呪いを受けた。



「お前…誰に、何をされた!?」

くくく…と喉の奥で笑い、奉は赤い目を伏せた。

「…済んだことだ」

「何!?」

「待っていたんだよ」

もう、眼鏡の奥は見透かせない。俺は小梅の頭を2、3度撫でて、奉を追った。




冬枯れた木立を貫く冷たい石段を踏みしめながら、白い息を漏らす。

全て、灰色だ。枯葉を掃くきじとらさんの姿は、この花が少ない時期に一輪の芍薬のように境内を彩っていたのに。今俺の目の前にあるのはひたすら灰色の石段と、奉の黒い羽織の背中だけだ。…今年の冬は、沈み込むように深い。

「何処に、行ってたんだ」

ふと、2週間の不在について何も答えを得ていないことに気が付いた。

「病院」

羽織の影から滲むような呟きが、白い息と共に漏れた。

「何をしに」

「姿を、現すためよ」

口の端が、僅かに吊り上がった。

「要はな、俺が入院中、病院の中をうろつき回り…『あの部屋』を見つけたことが、知れてしまったんだねぇ」

鎌鼬に斬られて病院に担ぎ込まれた奉は、幾人もの妊婦とその胎児を展示した陰惨な地下室を見つけた。俺も少しだけ垣間見たが…とても直視できるような代物ではなかった。学術的な標本だ、と云えば通る話かも知れないが、産婦人科も擁する大病院の地下に、ホルマリンに漬けられた妊婦が数十体、揺らめいているなど寝覚めの悪い話だ。

しかもその標本達には、後ろ暗い秘密がある。

「そりゃ…知られるのは少しまずいな」

「ああ。噂が流れたらアウトな話だねぇ。…だから『彼』は、俺を消すことにした」

「そ、そんな乱暴な話が…!!」

「呪いを裁く法はないだろう?…金を積んで優秀な呪い師を雇ったのだろうねぇ。確かに優秀だ。猫鬼の呪いを使いこなしているのみならず、きじとらが猫の変化であることを突き止め…贄として攫った」

ここからは奉の話だ。

奉は自分に向けられた、まとわりつくような監視の目に気が付いていたという。呪いを生業とするものが絡み始めたことも。そもそも愚かなことではある。祟り神である自分に呪いを向ける事自体…本来ならば。だが。



―――きじとらさんが攫われた時点で、事情が変わった。



それは猫を贄として屠ることで成就する呪い。呪いを成就させるということは、きじとらさんが屠られることを意味する。

ならば、この呪いは決して成就させてはならない。

「…どうすればいい?」

喉がカラカラに乾いているのが分かった。…なんということだ。きじとらさんは贄として、今この瞬間も命の危険に晒されているのか。俺は何も分からず、ただ部屋でやきもきしながら待つしかなかった。

「俺がここに居なければいい」

赤い瞳が、徐々に鮮やかさを失って黒ずんでいく。赤を写し込んで火事場の夕焼けのような色になっていた眼鏡は、静かな煙色に戻りつつあった。

「猫は人ではなく、土地に憑く。そもそも猫鬼ってのは『人』を標的とした呪法じゃないんでねぇ」

古今の化け猫話もそうだろう?猫は人を殺し『居場所』を乗っ取るんだよ。奉はそう呟いて薄く笑った。

「猫鬼じゃ、居場所の分からない人間は呪えないんだよ。だから俺は姿を隠し、再び『あの』病院周辺をうろついた。…気が付いているぞ、きっと掴んでやるぞ、と圧力をかけながら」

「何でだ!?そのまま隠れていればいいだろ!?」

「人を狙った呪法に替えさせ、また俺を狙わせるためよ」

「わざわざ狙わせたのか!?」



「呪ってこなければ、返せないからねぇ」



さぁ…と血の気が引いていく感覚が首の後ろを走った。

「…お前、『呪う』気だな!?」

「もう終わった」

奉が事もなげにそう云ったその時、瞳から完全に赤光が消えていた。

そうか。

何を勘違いしていたんだ俺は。

奉の瞳は、赤光を消しつつあった。俺の前に姿を現したその時から既に、奉の『呪い』は発動していたのだ。

「そんなにしなくても…他にも方法は」

「俺が手段を選ぶ義務があるのかねぇ」

笑っていない目に、口元だけ吊り上げた微笑がその横顔に張り付いていた。その視線の先に俺は……

連なる鳥居の下、青ざめた顔で佇む、きじとらさんを見た。




数日後。

隣町の小さな神社を守る老人が不審な死を遂げた、と地方紙が報じていた。

『全身を強く打ち』などという、交通事故でしか使われないような表現でボカされていたが、その死に様は噂として俺の耳にも入って来た。……嫌でも。



その死体は、擂り潰されたように原型を留めていなかったという。

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