第四章:17.3パーセントの奇跡

『プランの成功率は?』


『17.3%. HOWEVER, ALTERNATIVE SUCCESS RATE IS 0%.

(17.3%。しかし、代替案の成功率は0%。)


 厳しい数字だった。しかし他に選択肢はない。


「実行して」


 サクラはそのプランに賭けた。アークライトが瞬時に展開した緊急浮上シーケンスは、人間の発想を遥かに超えた複雑なものだった。


『EMERGENCY ASCENT PROTOCOL INITIATED. PHASE 1: BALLAST JETTISON.』

(緊急浮上プロトコル開始。フェーズ1:バラスト投棄。)


 まず、ディープスターに搭載されている全ての不要重量を投棄する。サンプル回収コンテナ、予備の工具類、そして回収したばかりのアークライト本体さえも。AIユニットだけを残して、機体重量を可能な限り軽減する。


『CALCULATING OPTIMAL BALLAST WEIGHT... 847.3 KILOGRAMS REDUCTION REQUIRED.』

(最適バラスト重量計算中……847.3キログラムの軽量化が必要。)


 サクラは迷わずバラスト投棄レバーを引いた。貴重なサンプルが暗い海底に沈んでいく。しかし今は生存が最優先だ。


『PHASE 2: THERMAL PLUME POSITIONING.』

(フェーズ2:熱水プルーム位置決め。)


 次に、海底火山の熱水噴出を利用する。熱水は周囲の海水より密度が低く、強力な上昇流を形成している。この自然のエレベーターを利用するのだ。熱水プルームの上昇速度は秒速1-3メートルに達し、適切に利用すれば機体の浮上を大幅に加速できる。ただし、位置制御を誤れば高温により機体が損傷する危険性もある。


 アークライトがディープスターのスラスターを微調整し、機体を熱水プルームの中心に位置させる。水温センサーが急激な温度上昇を示した。摂氏2度から一気に80度まで跳ね上がる。深海の熱水噴出孔は通常60-400度の範囲だが、噴出直後は非常に高温でも、周囲の冷たい海水と混合することで急速に温度が下がる。


『WARNING: HULL TEMPERATURE CRITICAL. THERMAL PROTECTION SYSTEM ENGAGED.』

(警告:船体温度危険域。熱防護システム作動。)


 ディープスターの外壁に搭載された断熱材が自動展開される。しかし長時間の高温暴露は機体の致命的損傷を招く。時間との勝負だった。



 母船ステラ・マリスでは、トオルが必死に通信回復を試みていた。海底火山の電磁ノイズが通信を阻害している。


「サクラさん! 聞こえますか!」


 雑音混じりの微弱な信号。そして断続的にサクラの声が聞こえた。


「トオル……くん……聞こえる……」


「状況を教えてください!」


「……アークライトと……協力して……浮上中……でも……」


 通信が途切れた。田中船長が海面を見つめている。


「何か見えるか?」


「いえ、まだ何も」


 水深8000メートル。通常の浮上でも2時間以上かかる距離だ。



『PHASE 3: POWER CONCENTRATION.』

(フェーズ3:電力集中。)


 アークライトは次の段階に進んだ。ディープスターの残存電力を全て推進系に集中させる。生命維持装置は最低限に絞り、照明も切る。暗闇の中、サクラは計器の光だけを頼りに操縦を続けた。


『REMAINING POWER: 12%. ESTIMATED ASCENT TIME: 127 MINUTES.』

『OXYGEN REMAINING: 89 MINUTES.』

(残存電力:12%。推定浮上時間:127分。残存酸素:89分。)


 酸素が足りない。このままでは浮上途中で窒息死する。


『PHASE 4: CONTROLLED DECOMPRESSION.』

(フェーズ4:制御減圧。)


 アークライトは更なる危険な提案をした。機体内の圧力を段階的に下げ、酸素消費量を削減するのだ。しかしこれは極めて危険な賭けだった。


『WARNING: RAPID DECOMPRESSION CAN CAUSE ARTERIAL GAS EMBOLISM, NITROGEN NARCOSIS, AND DECOMPRESSION SICKNESS.』

(警告:急速減圧は動脈ガス塞栓症、窒素酔い、減圧症を引き起こす可能性があります。)


「やるしかないわ」


 サクラは覚悟を決めた。宇宙飛行士の訓練で減圧症について学んでいる。適切な手順を踏めば生存は可能だ。ただし、通常の安全な浮上速度は毎分10メートル以下。今回の緊急浮上では毎分60メートル以上になる。極めて危険だが、酸素欠乏死を避けるための唯一の選択肢だった。


 機体の圧力が徐々に下がっていく。サクラの耳に激痛が走る。鼓膜への圧力変化だ。彼女は訓練通りに耳抜きを行い、血中窒素の急激な膨張を防ぐため意識的に呼吸をコントロールした。酸素-ヘリウム混合ガスの使用により、窒素酔いのリスクを最小限に抑える。



『PHASE 5: TRAJECTORY OPTIMIZATION.』

(フェーズ5:軌道最適化。)


 水深5000メートル。ここからが最も危険な領域だった。海水の密度変化により浮力が変わり、上昇速度の制御が困難になる。


 


 アークライトは膨大な計算を実行している。海流データ、水温分布、機体の浮力特性、そして刻々と変化する推進力。全てを考慮した最適軌道を0.1秒ごとに更新し続ける。


『CRITICAL DECISION POINT APPROACHING. MULTIPLE VARIABLES REQUIRE REAL-TIME ADJUSTMENT.』

(重要判断ポイント接近中。複数変数のリアルタイム調整が必要。)


 この時、最初の危機が襲った。

 スラスターの一基が過熱により停止したのだ。


『THRUSTER 3 FAILURE. ASCENT ANGLE DEVIATION: 23 DEGREES.』

(スラスター3故障。浮上角度偏差:23度。)


 機体が横に傾き始める。

 このままでは海底の岩壁に激突する。


「手動制御に切り替え!」


 サクラは咄嗟にマニュアル操縦に切り替えた。残りのスラスターを使って機体姿勢を修正する。宇宙飛行士訓練で鍛えた三次元航法の技術が今、海中で活かされている。



 通信が一瞬回復した。


「サクラさん!」


「トオルくん……まだ……生きてる……」


「あと少しです! 諦めないで!」


「……ありがとう……あなたがいてくれて……本当に……」


 再び通信が途切れる。トオルは歯を食いしばった。


「田中さん、救助艇の準備を!」


「もう準備している。浮上したらすぐに回収できる」



 水深3000メートル。第二の危機が訪れた。


『OXYGEN LEVEL: 3%. ESTIMATED TIME TO UNCONSCIOUSNESS: 7 MINUTES.』

(酸素レベル:3%。失神まで推定時間:7分。)


 もはや限界だった。サクラの意識が朦朧としてくる。視界がぼやけ、手足に力が入らない。酸素欠乏の症状だった。


『SAKURA. STAY WITH ME. TALK TO ME.』

(サクラ。私と一緒にいて。話しかけて。)


 アークライトがサクラの意識を保とうとしている。


『何を……話せば……』


『ANYTHING. YOUR DREAMS. YOUR MEMORIES. KEEP YOUR MIND ACTIVE.』

(何でも。あなたの夢。記憶。心を活発に保って。)


 サクラは朦朧とした意識の中で語り始めた。

 宇宙への憧れ。

 失われた友情。

 そして、最近気づいたトオルへの想い。


『彼は……優しい人……父親の愛を……求めて……私は……彼を……』


『YOU LOVE HIM.』

(あなたは彼を愛している。)


『そう……かもしれない……でも……私は……もう……』


『NO. WE WILL REACH THE SURFACE. THIS IS A PROMISE.』

(いいえ。私たちは海面に到達します。。)



 水深1000メートル。最後の危機が待っていた。


 急激な浮上により、機体の圧力殻に亀裂が入り始めたのだ。チタン合金といえども、この急激な圧力変化には限界がある。


『HULL INTEGRITY: 23%. CATASTROPHIC FAILURE IMMINENT.』

(船体完全性:23%。破滅的故障差し迫る。)


 機体が崩壊寸前だった。しかし、もう止まることはできない。


『全力で……上昇して……』


 サクラは最後の力を振り絞った。手動でスラスターを最大出力にする。機体が悲鳴を上げているのが聞こえる。金属の軋む音、配管の破裂音、そして電子機器のスパークする音。


『SURFACE DETECTION: 200 METERS.』

(海面検知:200メートル。)


 もう少し。あと少しで海面だ。


『100 METERS.』


 機体の震動が激しくなる。


『50 METERS.』


 圧力殻の亀裂がさらに広がる。


『20 METERS.』


 サクラの意識が薄れていく。


『10 METERS.』


『SURFACE BREACH!』

(海面突破!)


 ディープスターが海面に飛び出した瞬間、機体の半分が崩壊した。しかしサクラの乗る球形のコックピット部分は無事だった。


 17.3パーセント。まさに奇跡の確率だった。



 朝日が差し込むハッチの向こうに、トオルの涙に濡れた顔があった。

 彼は何も言わずにサクラを強く抱きしめた。


「生きてる……本当に生きてる……」


 アークライトの最後のメッセージがモニターに表示された。


『MISSION ACCOMPLISHED. SAKURA IS HOME SAFE. THIS IS... HAPPINESS.』

(ミッション完了。サクラは無事に帰還。これは……。)


 AIが初めて感情的な言葉を使った瞬間だった。そしてそれは、システムシャットダウンと共に消えていった。

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