第3話 アイスコーヒーは薄くなる
昼の太陽はやる気満々で、アスファルトから立つ熱気がもわっとしていた。放課後の門司港駅のホームは、誰かのスマホから漏れる音楽がやけに遠く聞こえる。〈エトワール〉の扉を開けた瞬間、冷房の空気とコーヒーの匂いが混ざって、ほっとする。
「ただいま戻りましたー」
「おかえり、澪。今日はアイスが出るよ。グラス、多めに用意」
星野店長の指示は要点だけ。私はエプロンを結び直し、製氷機の前へ。カラン、コロン。氷の音で量を測る私の得意技は、夏に一段と活躍する。
閉店まで、あと四十五分。窓の外はまだ明るい。テーブルの一つに、中学生くらいの男の子とお母さん。男の子がストローでアイスコーヒーをくるくるしながら、少し眉をひそめた。
「ママ、これ、ちょっと薄いかも」
同じ時間、カウンターの端で常連の会社員さんが顔をしかめる。「さっきのアイスは香りがよかったのに、今のは軽いなあ」と独り言。私は胸の奥がざわっとした。レシピは変えていない。豆も、抽出も、氷の量も、同じはず。
二杯目を作るとき、私は意識して耳を澄ませた。氷の落ちる音はさっきと違う。高くて軽い音。氷の形が微妙に違う——新しくできたばかりの小さい氷が混じってる。しかも、さっき洗い上がって並べたグラスがまだほんのり温い。冷房の風が届きづらい棚の手前側に置いていたからだ。
「澪、どう?」
「うーん……薄くなる条件が重なってる気がします」
私は自分用に極少量の試飲を作って、香りを確かめた。鼻に抜ける感じが弱い。ストローで一度だけ、軽く回す。すると上の層が薄まった感が出る。
そのとき、ドアが開いてひいとベルが鳴った。藤田朔。黒いストラップの先のフィルムカメラは今日も健在。私を見る前に、氷のバケツとグラスの並びに目をやり、すぐ状況を読むモードに切り替わる。
「今日の海、匂いは薄い?」
「むしろ濃い。けどコーヒーの香りが勝ててない」
私はメモ帳に小さく箇条書きを作った。
•新しい小粒の氷(=融けやすい)
•温いグラス(=触れた瞬間、氷が汗をかく)
•湿度が高い(=香りの拡散が鈍い)
•ストローで上だけ混ぜる(=上層だけ薄まる)
朔は頷き、グラスの側面に映る光を見た。側面の水滴ラインが、いつもより早い。
「氷が早く泣いてる。新しい氷だと気泡が多くて、溶けるのが速い。しかも温いグラスに触れて最初の一分で一番薄まる」
「抽出は同じでも、できた直後の一分の扱いで味が変わるってことだね」
星野さんがカウンターから顔を出す。
「解決できそう?」
「やってみます」
私は即席で**“夏のアイス・手順カード”**を作ることにした。善意を隠さない手続き。声に出して、目の前でやる。
1.グラスを先に冷やす(氷でくるっと一周→溶けた水を捨てる)
2.氷は大きめ中心でグラス9分目まで(軽い音=小粒は避ける)
3.ガムシロは先に(底に沈めておく)
4.コーヒーは一気に注がず、二段(半分→10秒→残り)
5.最初の一混ぜは“上下”(ストローを底まで入れて、一往復だけ)
6.飲む前に5秒待つ(氷の温度が落ち着くのを待つ)
私はお客さんの了承をもらって、会社員さんの二杯目をやり直しで出した。男の子にも小さい試飲カップを渡す。
「同じ豆、同じ配分です。手順だけ変えました」
会社員さんは一口で目を細めた。「こっちだ」。男の子も「こっちが好き」と笑う。胸のうちで、ほっと息が溶けた。
「澪、音でわかるの、やっぱ強いな」
朔が小声で言う。私は笑って指で氷の音を真似した。
「軽い音=小粒、低い音=大きめ。今日は小粒が混じってたから、後半は大きめを選ぶ。あと、温いグラス禁止」
「じゃあ、ここに“氷の音”って書こう」
朔は私の手帳にさらりと文字を書き足した。字がきれい。横で見ていた星野さんが「手順カード、ラミネートしとく?」と笑う。
そんなとき、ドアが開いて早瀬伶が入ってきた。陸上部帰りのジャージ姿、頬が赤い。
「汗で塩ふいてる。水、飲む?」
「飲む。……で、どうなったの?」
伶の視線は、私と朔、そしてカウンター隅に置かれた撮影協力メモへ一直線。やめて、それ見えるとこに置いたの誰(私です)。
「相変わらず三十分? 店内だけ? 顔NG?」
「うん。今日はそれに、雨の日優先を追記した」
「ふーん。甘いね」
伶はアイスコーヒーを一口。眉がほどける。
「濃さ、戻ってる。何したの?」
「最初の一分の扱いを変えたの。温いグラス禁止、氷は大きめ、上下で一往復だけ混ぜる」
「へー。明日友だちに言お」
伶はすぐにスマホを出してメモを取り始めた。こういう拡散力、ありがたい。
客足が落ち着いて、時計の針が閉店の方向を指しはじめる。朔がストラップを外し、私を見る。
「本日の三十分、お願いできますか」
「どうぞ。……その前に、手の位置合わせ、してもいい?」
私は言いながら、自分でも少し驚いた。言葉にすると、緊張がやわらぐ。朔は「もちろん」と頷く。
「追加の取り決め、いい?」
「うん」
「撮影中に限り、手の位置合わせのための“握手”OK。必要最小限、30秒以内」
「了解」
星野さんが「はいはい、追記ね」とレシートを差し出す。私たちは小さく書き足す。
———
《撮影協力メモ・追記②》
追加:撮影中の位置合わせの握手OK(30秒以内)
———
照明を一段落として、いつもの席へ。私は手の甲をテーブルに置き、朔はまず温度を合わせる握手。指先から、心臓に向かって、温度がゆっくり移動する。
「今日のテーマは**“氷の音”でどう?」
「いいね。じゃあ最初に、氷を二粒だけ**落として」
カラン、……コロン。
小粒の高い音と、大きめの低い音。朔は微笑む。
「今の、録っていい? 音も写真に重ねたい」
「うち、店長の許可があればOK」
「星野さん?」
「いい音は共有しましょう」
カメラのシャッターが何度か落ちる。指先の角度、ベルを磨く所作、グラスのくびれに沿う影。朔の指が角度を直すとき、さっきの取り決めに守られて、私は落ち着いた。ルールは、心の逃げ道だ。
三十分はやっぱり短くて、だけど濃い。最後の一枚のあと、私は息を吐いた。朔もほっと笑う。
「モデル料、使う?」
「うん。今日は——氷から先に入れるパフェ」
「そんなのある?」
「作る。氷で先にグラスを冷やしてから、プリンの上に塩キャラメルちょっと。甘いのが薄くならないように」
「最高」
今日も、最高が二回。私は星野さんに「試作いいですか」と目で合図し、キッチンへ走った。
片付けのあと、私はスマホを開く。クラスのLINEは文化祭の出し物で議論中。そこに“匿名相談”アカウントから、また新着。
《アイスコーヒーが時々薄いのは、運でしょうか?》
私は親指で打って、ちょっとだけ考えて、今度は送った。
「運じゃないよ。最初の一分で決まる。グラスを冷やす、氷は大きめ、上下に一往復だけ混ぜる。待てるなら五秒待つ。」
すぐに既読がついて、ハートが一つ返ってきた。
閉店後、外に出る。昼の熱気はもう抜けて、潮風が涼しい。潮の線は、今日はほとんど見えない。けれど足の裏で、なんとなくわかる。道のどのあたりが乾いて、どのあたりがまだ湿っているか。
潮は、嘘をつかない。
たぶん、コーヒーも。
大切なのは、最初の一分。恋のほうも、そうかもしれない。私はポケットの中の塩キャラメルの包み紙を指でつまみ、明日の朝の空を想像した。きっと、今日より少しだけ、濃い。
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