【全10話】放課後エトワール—三十分だけの撮影協力

湊 マチ

第1話 鳴らないベルと、三十分の撮影協力

放課後のチャイムって、音より先に空気が変わる。門司港駅の向こうで海が一瞬だけ銀紙みたいに光って、鼻の奥がしょっぱくなる。私は制服の上からエプロンを結び直して、喫茶〈エトワール〉の前でしゃがんだ。


道路の端っこに、うすい白の縁取り——潮の線。夕立のあと、塩が乾く途中だけ出る今日の境界線。いつもより、ちょっと店寄りだ。


「ただいま戻りましたー」

「おかえり、澪。氷、補充お願い」


星野店長の声はいつも通り落ち着いてる。私は製氷機の前でメジャーカップを構えて、落ちる氷の音を数えた。カラン、コロン。角がこすれる音でだいたいの量がわかる。ちょっとした特技。バイトには役立つ。


閉店まであと三十五分。さっきまで土砂降りだったけど、今は雨が上がって風が涼しい。床はモップをかけて乾かした。入口マットもさらっとしている。なのに——


「……あれ?」


濡れてる。

カウンター前に丸い靴跡がふたつ、きれいに並んで止まってる。さっき拭いたばかりの床に、できたての水の輪。けど入口のマットには跡がない。それに、入店の合図の——


「星野さん、ベル鳴りました?」

「鳴ってないよ。今日は静かだった」


だよね。エトワールのドアには小さな真鍮ベルがついてて、人が入ると「ひい」と控えめに鳴く。私の耳はあの音を逃さない。鳴ってないのに、濡れた足跡だけがある。


私は店の空気をかいだ。コーヒー、ミルク、雨上がりの湿り。それから、ちょっとだけ消毒の匂い。


「今日の海、どんな匂い?」


振り向かなくてもわかる声。藤田朔。写真部。黒いストラップの先に古いフィルムカメラ。二階の三田村探偵事務所で働く藤田涼介さんの従弟で、閉店前によくここで待つ常連だ。


「湿ったフィルム。塩、ちょい強め」

「うん、好き」


朔は少し離れた位置から床の濡れ跡を眺め、光を見るみたいに首を傾ける。彼は色の違いより“光の濃さ”で世界を見る人。軽い色弱で、影や反射に敏感だ。


「マットは乾いてる。跡はマットにない。ここだけ濡れてる。……表からじゃないね」

「裏口、さっき“すっ”って空気が抜ける音したかも。冷蔵庫の音に混ざってたけど」

「じゃ、裏口が風で吸われて少し開いた。誰かが入って、すぐここまで来て、すぐ出た。だからベルは鳴らない」


「誰だろ……」


視界の端で、透明のビニール傘が光った。傘立てに一本だけ。骨まで乾いてる。さっきまで土砂降りだったのに。


「この傘、濡れてない」

「店の庇、深いからここまでは濡れないけど……靴は濡れてる。不思議」


星野さんが「あ、そうだ」とレシートの裏を渡してきた。丸い字で短いメモ。


《床 すべる。勝手にすみません。危ないから。傘は置いていきます。帰りに取りに来ます。》


私は紙を鼻に近づける。洗剤と、ほんの少し消毒の匂い。ピンときた。


「水曜の老紳士だ。午前は施設でボランティア、午後はここでコーヒーの常連さん。雨の日は床の水滴を見たら拭かずにいられない人」

「合うね」


頭の中で点がつながっていく。

——夕立で湿った空気と、うすい塩の膜。

——裏口は今日、負圧で吸い込まれて少しだけ開く。

——ベルは表のドアにしか付いてない。

——濡れてない傘は、庇続きの通路を通ってきた証拠。

——靴底は施設前で一瞬外に出たときに濡れた。

——丸めたタオルで裏口のすき間を押さえたから、音も立たず、誰も気づかなかった。


「善意の痕跡、ってやつだね」


朔が目を細める。店の光が柔らかくなる。こういうとき、胸のどこかがあったかくなる。同じものを同じ向きで見てる感じが、私はたぶん好きだ。


「それで……もうひとつ、お願いがある」


朔はストラップを外して、まっすぐ私を見る。視線の先は、私の手。


「閉店後の三十分、店内だけで、手の“撮影協力”をお願いしたい。顔は撮らない。必要なら、手を合わせて角度を作るかも。嫌ならすぐ止める。週一で、続けられそうなら“更新”。

お礼は——“次どこ行くか”君が決めて」


心臓が、氷よりもうるさい音を立てた。カウンターの向こうで星野さんが「はい出ました、契約ワード」と笑い、二階から降りてきた涼介さんが「必要なら撮影協力メモ作る?」とホチキスを鳴らす。


落ち着け、私。ルールを言葉にすれば怖くないって、所長(=三田村香織さん)に教わった。


「五つ、決めよう」


私は指を折る。


「一、店内だけ。二、閉店後三十分だけ。三、顔は撮らない。四、嘘つかない(撮った写真は、私が嫌って言ったら出さない)。五、週一で見直す。どっちかが“やめたい”って言ったら、やめる」


「了解。モデル料(=お礼)は“次どこ行くか”君が決める、で」

「うん」


星野さんがレシートを差し出す。私はさらさらと書いた。


———

《撮影協力メモ》

協力者:潮崎澪/撮影者:藤田朔

範囲:店内のみ・閉店後三十分

条件:顔NG/嘘NG/週一で見直し

お礼:次回の行き先は澪の指名

立会い:星野(店長)

———


私と朔がサインをして、星野さんが「確認」と書き添えて小さく押印してくれる。紙切れ一枚なのに、心が整っていく感じ。約束って、逃げ道にもなる。


そのとき、ひい、とベルが鳴った。


さっきは黙っていたのに。入ってきたのは白いシャツの老紳士。胸ポケットにチョコレートの包み。傘立ての透明な一本を見つけて、ほっと笑う。


「勝手口、今日は風が吸い込むねえ。滑ると危ないから、つい」

「ありがとうございます。助かりました」


私が頭を下げると、老紳士は私の手を一瞬見て、目尻を下げた。


「いい手だ。働いてる手は、いい」


短いのに、残る言葉。老紳士が出ていくと、ベルがもう一度鳴る。私は取り付け部を指で軽くたたく。夕立で湿った塩の膜が乾いて、接点が戻った——さっきまで鳴らなかった理由が、音になってほどける。


潮は、嘘をつかない。


「じゃ、初回、いこうか」


朔が照明を一段落として言った。星野さんは空気を読んでグラス磨きに集中、涼介さんは点検だとかで二階へ。店は、ふたりのための静かなステージになる。


私はカウンター手前の席に座って、手の甲をテーブルに置いた。朔はすぐにカメラを構えない。まず、両手で私の手を包む。温度を合わせるみたいに、ゆっくり。


「手、冷たい?」

「氷、持ってたから」

「じゃ、あっためる。……今日も、君の手、撮らせて」


カシャ。

フィルムの巻き上げ音が、雨上がりの静けさに小さく混ざる。


「ここ、指先ちょっと内側」「こう?」

「うん、きれい。君の手が入ると、写真がちゃんと決まる」


顔は見てないのに、見つめ合ってるみたい。呼吸の間がそろっていく。不思議。三十分なんて、短い。


最後の一枚を撮り終えると、朔は大きく息を吐いた。


「モデル料、今使う?」

「え?」

「次の行き先。君が決めて」


私は少し考えて、笑う。


「朝パン。開店前に焼きあがるやつ。私、準備のときしか食べられないから、朔にも食べてほしい」

「最高」


朔は、最高、を二回言った。なんだそれ。ちょっと嬉しい。


片付けを終えて、私はスマホを開いた。クラスのLINEは文化祭だの席替えだので騒がしい。そこに、“匿名相談”アカウントから新着が混ざる。


《好きって言いにくいとき、どう言えば伝わりますか?》


私は親指で打って、消す。


(未送信)

「閉店後の三十分だけ“撮影協力”。店内だけ。顔は撮らない。これって、どういう関係?」


送らない。でも、明日、親友の伶には言っちゃうかも。

笑うかな。うらやましがるかな。想像するだけで、顔が熱くなる。


帰りぎわ、もう一度しゃがんで外を見る。潮の線は夜になると目には見えなくなるけど、アスファルトの手触りに、たしかに残っている。今日は店寄り。明日はどっちに寄るだろう。


空は、晴れの予感。

ポケットの中の朝パンの約束が、小さくふくらんでいた。

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