透明と何かの色
京野 薫
何色でもない私
私は夫を愛していない。
子供も愛していない。
いや……正しく言うと「愛することができない」
35歳になる私と39歳の夫の夫婦。
彼が26歳、私が20歳で結婚して翌年産まれた息子の
今年で14歳になる。
製薬会社で営業をしている夫……
私と亨をいつでも大切にしてくれる。
亨も、聡明で夫に似て思いやりのある子だ。
でも私は二人を愛せない。
なぜって?
だって私は……中身は多分男性だから。
性同一性障害。
テレビや雑誌、ネットでよく見る言葉。
正式に診断は受けていないが、私はそれなんだろう。
小学5年生ではっきり自覚してから、両親にも内緒にしてきた。
女の子の服が気持ち悪かった。
女子の会話が苦痛だった。
誕生日にフリルの着いた白いドレスみたいな服を着て、みんなの笑顔を見ているとき、自分がまるでコメディ映画の登場人物になったようだった。
修学旅行でお風呂に入るとき、緊張で倒れそうだった。
大浴場が無理、と話して一人用のお風呂に変えてもらったとき、担任の女性教師が「大丈夫、私もそうだったから」と言って優しく抱きしめてもらったとき、その柔らかさや匂いと共に、その先生に始めての恋をした。
比較的容姿に恵まれていたせいだろうか。
中学に上がって、先輩から告白されたときは気持ち悪さで全身に鳥肌が立った。
そのため、必死に断ろうとして涙を流しながら頭を下げたら「誠実」と言う評判になり、さらに男子が近づくようになった。
友達ではなく、異性として。
自分が異常なんだ、と感じて治せないか調べた。
無理だった。
私はまるで無色透明。
そんな私には一人親友が居た。
中学一年の夏に知り合った別のクラスの男の子。
彼はサッカーをしてて、思慮深く優しかった。
彼……
こんな人と一生の親友になれたら……
そう思っていたが、中学三年の5月。
クリスマスの時期に、秋山君はマンションの屋上から飛び降りた。
残されていた遺書には、自分が同性愛者だったこと。
それを好きだった男性に知られた事が書かれていた。
それ以来、私は「女性」の自分を受け入れた。
自分みたいな存在はそのままじゃ生きていけない。
生きて行きたいなら「擬態」するんだ。
死ぬまで。
それからは男性の視点から理想の女子を演じた。
服装や表情、立ち居振る舞いまで。
でも交際だけは出来なかった。
お陰で女子の友達も出来た。
男性の心のせいで、女性に対していわゆる「異性として尽くす」事が出来たからだった。
それを友達と言うのかは分からないけど……でも、世間体のためだけだから充分だった。
高校二年になり、いつしか気がついたら私のあだ名は「深窓の姫」になっていた。
……なんの冗談なんだろ?
誰とも付き合わず、誰に対しても深入りせず……できないんだけど、そして一人で本ばかり読んでいればそうなるか。
そうそう。
女の子の日も苦痛だった。
その度に男性としての自分が削り取られて、お手洗いに流されていくように感じて、泣きそうになる。
大人になってお金が貯まったら子宮を取ってしまおうか、とも思ったけどいざ社会人になると怖くて無理だった。
その頃、私は擬態に酷く疲れていた。
でも、同じ境遇の人たちのように本当の自分を公開し、そういった組織に入って活動したり、手術や薬で物理的に外見を変えるのは出来なかった。
両親を悲しませたくないし、自分のイメージを壊すのがひたすら怖かった。
疲れた、と言いつつ結局理想の女性に擬態しているのが、選択肢の中では一番楽だったのだ。
でも、疲れているのは変わらなくて、もっと「本物の女性」になりたかった。
社会的に、法的に。
そうすればこのジレンマも和らぐのかもしれない。
それと共に、社会人から降りたかった。
イラストを書いているときだけが自分だった。
憧れの異性としての女性を描く。
なりたかった自分としての男性を描く。
一人でイラストに包まれた生活、それらの作成ソフトや投稿サイトと向き合う生活を送りたかった。
社会の中で女性として過ごす時間を極限まで削りたかった。
だから、私は当時声をかけてくれた、取引先の社員だった幸成さんと結婚前提に付き合うことにした。
彼の会社は高給取りで、さらに出世コースに乗っていた。
なので、専業主婦の夢をおずおずと話したら、二つ返事で引き受けてくれた。
心から安堵した私は、彼に支払う対価と割り切って生まれて初めてのキスやセックスをした。
信じられないくらいおぞましかった。
彼の私の裸を見る視線を感じるたび。
彼が興奮した口調で言う「愛してる」「綺麗だ」と言う言葉を聞くたび。
彼の手が私の体中を撫で回す感触。
そして彼の強い希望で大事な部分を目にし、口をつけるたびにその感触と匂いがあまりに気持ち悪くて眩暈がし、何度も吐きそうになった。
泣きたいくらいに嫌でしょうがなかったけど、彼がそれが大好きだったので愛など無く、対価と言う後ろめたさを抱える私は断れなかった。
断ってセックスレスになり、捨てられることが怖かった。
男性はそういう事にこだわりが強いって調べたから……
だけど、途中から身体への感覚だけに集中するようになり、なんとか乗り越えたし気持ちいいフリ、心から満たされているフリが出来るようになった。
そして結婚し、夢だった専業主婦になった。
イラストを描くことに集中できる幸福な時間。
でも、やはりセックスには慣れることが中々出来なかったけど……
そんな私の生活は翌年に大きな転機を迎えた。
妊娠と出産。
私はそれらがどうしても嫌で彼に相談しようとしたけど、それを言う前に彼から自分がどれだけ子供が好きか、そして義理のご両親もそれを強く望んでいるかを聞かされた。
幸成さんもご両親も本当にいい人だった。
私への牽制とも思えなかった。
だから余計に断れなかった。
ずっと擬態してきた私は、いつしか自分を主張する術も分からなくなっていたのだ。
後、それで愛想を着かされて捨てられるのが怖かった。
そしたらまた社会で擬態して生きていかないといけない。
専業主婦になりたいならまた、一から男性と付き合わないと。
やっと何とか慣れてきた、彼の手が身体を這い回る感触、興奮した声、大事な所の匂いや感触、身体の中を蹂躙されるような異物感なんかも別の人で一からやり直し。
考えるだけでも気が遠くなりそうだった。
悩んだ末に私は母になった。
亨がお腹に居る時。
その動きが恐ろしかった。
自分の中にエイリアンでも居るようだった。
つわりが理不尽すぎて死にたいくらい不快だった。
そして生まれたわが子は同じ人間とは思えなかった。
産まれた直後もその後も。
授乳も何もかも苦痛だった。
イラストも書けない。
私が離れると泣き叫ぶし、私の後をストーカーのように追いかける。
全てがうんざりだった。
でも耐え続けた。
擬態がばれない様に。
そんな日々が続いていたある日。
私はイラストのサイトである一人の女性と出会った。
同性愛者の女性の書き手さんで、私と近い苦しみを抱えていたせいか意気投合……いや、もっとか。
まるでお互いの欠けたパズルのピースが見つかったかのようだった。
そして気付いたら私たちは互いに愛の告白をし、一緒に生活しようと言う約束をした。
二人でイラストを売りながら細々と生きよう、と。
やっと……自分になれる。
私の中にはもう夫もわが子も存在していなかった。
出て行くんだ。
もう妻も母も嫌だ。
私は私なんだ。
ごめんなさい、二人とも。
でも……ずっと頑張った。
もう、いいよね?
そう思いながら、私は準備の終わった荷物を見た。
これを持って行くだけ。
夫は会社、亨は夏休みだけど図書館に行く、と言って出かけている。
喜びも満足感も開放感も無い。
ただ、見つからずに彼女との待ち合わせ場所まで逃げたい。
そう思いながら、最後に亨の部屋に行くことにした。
なぜそう思ったかは分からない。
最後に少しでも母親らしいことでもしたかったのだろうか?
充分でしょ?
私は「理想の母親」のフリだってしてきたんだから。
二人に申し訳ない気持ちもある。
でも、夫は今や若くして課長だ。
彼ならもっといい女性を見つけられるだろう。
亨にとってももっといい母親になる人を……
そう思いながら亨の部屋に入った私は部屋をぐるっと見回す。
典型的な中学男子の部屋だ。
違うといえば、部屋中にあるトレーニング器具やハードロックバンドのポスター。
亨は同い年の男子と比べても、男性臭さが強い子だ。
暇があれば筋トレをして、服装も男臭い格好を好む。
私も……こんな男子として生きたかったかも……
そんな事を考えながら部屋をぼんやりと見回したとき。
部屋の奥に隠すように置かれていた段ボール箱の上が僅かに開いてて、中から一着の衣類が見えた。
それを見た私は思わず息を呑み……それを手に取った。
それは白のワンピースだった。
慌てて箱の中を見ると、ブラウスやスカート、カットソー……ショーツが何枚も丁寧に畳まれて入っていた。
これ……
そう、これは……あまりにも覚えがあった。
これは……昔……私も……
そのまましばらく呆然としていた私の背後で物音がしたので、ハッと振り返るとそこには同じように呆然とした表情の亨が立っていた。
「母……さん」
亨はそのまま私をじっと見る。
顔色は真っ青で身体は酷く震えている。
「亨……」
私はやっとそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がった。
すると、亨は表情をくしゃっとゆがめると、そのまま泣き出した。
「ゴメン……母さん……俺……どうしよう」
悲痛な声と、心細そうな姿。
それは……まるであの時の私のようだった。
子供の頃の……私。
目の前に立っているのは、私だった。
私は無言で近づくと、亨を抱きしめた。
涙が溢れて止まらない。
ただ、強く抱きしめた。
「辛かった……ね。苦しかったよね。……やだったかな? 沢山……いやだったよね?」
耳元に亨のしゃくりあげる声が聞こえる。
「母さん……どうしよ……どうしよ」
その言葉に私は言葉が勝手にこぼれた。
母ではない、一人の私として。
「私と……生きよう。全部、一緒に背負って。助けてあげられない……かも。でも……一緒に、生きてたい……」
「嫌いじゃ……ない?」
「嫌いになんかならないよ。一緒に……がんばろ……擬態、辛いよね、苦しいよね。嫌だよね……亨、ゴメンね」
私たちは抱きしめあって、二人で泣いた。
それから彼女にはお断りのメールを送った。
今の生活を続ける、と。
私は良い母親にはなれないだろう。
良い妻にも。
でも、一緒に生きてみよう。
この子とずっとずっと……上手に擬態してみよう。
この子が自分の生きられるやり方や場所を見つけるまでは、一緒に。
そうすれば……もしかしたら一緒に何かを見つけられるかもしれない。
いや、見つけられないだろう。
だったら、その時はただ生きればいい。
それにも誰かと一緒の方がいいだろう。
透明な私たちはいつか何色で塗るか、選べるかもしれない。
その時はあなたと一緒に選べると……いいな。
透明と何かの色 京野 薫 @kkyono
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