ライン・アルゼブラ
あきかん
永遠じゃない。無限だよ
―――あの頃も雨が降っていたと思う。
週明けから降り続けている雨は、今日で4日目。真夏の中休みでも入ったかのように、灰色の雨雲が関東一体に張り付いていた。空は低く垂れ込め、街路樹の葉が重くしなだれ、地面には水たまりが鏡のように広がって、通り過ぎる車のタイヤが水しぶきを上げる音が遠くから聞こえてくる。学校の校舎は湿気を帯びてじっとりと重く、廊下を歩く生徒たちの足音さえ、雨の音に飲み込まれそうなほど静かだった。
部室の窓ガラスを、パチパチと叩く雨音が響く中、僕らは晴れ間が覗くのをぼんやりと待っていた。古い木製の机の上には、散らかったノートやペンが転がり、部屋の隅には埃っぽい本棚が並んでいる。空気は湿気でむっとし、かすかなカビの匂いが混じっていた。僕は窓辺に寄りかかり、外の景色を眺めていた。校庭の芝生は水浸しで、普段は賑やかなグラウンドが今は静まり返り、ただ雨粒が無数に落ちては跳ねる様子だけが動きを与えていた。
「あぁ~、寒い。頭も痛いんだけど、ねぇ、聞いてる?居るのは知ってるから」
突然の声に振り返ると、ドアが勢いよく開いて、琥珀先輩がずぶ濡れで入ってきた。彼女の制服は雨水を吸って重そうに体に張り付き、肩までかかった髪からは雫がぽたぽたと落ちて、床に小さな水溜まりを作っていた。先輩の顔は少し青ざめ、眉を寄せてこめかみを押さえていたが、それでもいつものように明るい笑みを浮かべている。
「カフェインを取れば少しは良くなるんじゃないんですか?」
僕はため息をつきながら、机の引き出しからインスタントコーヒーの袋を取り出した。部屋の隅にあるポットでお湯を沸かし始める。雨の音がBGMのように続き、ポットの沸騰音がそれに重なる。
「カフェオレにして~」
「なんで客でもない琥珀先輩に僕がもてなさないといけないんですか?」
ずぶ濡れの琥珀先輩が部屋中を濡らしているのもお構いなしに、椅子にどっしりと腰を下ろしてくつろいでいる。
迷惑だ。僕は棚からバスタオルを引っ張り出して、先輩に投げつけた。タオルは空中をふわっと飛んで、先輩の膝に落ちた。
「名前のわりに器が小さいな、龍也くんは」
先輩はタオルを拾い上げ、からかうように笑った。彼女の目は琥珀色で、名前の通り輝きを帯びていて、雨の日にさえ明るく見えた。
「むしろ、追い出さないだけ器はでかいでしょ」
先輩は肩までかかった髪をタオルで拭き始めた。髪の先から落ちる水滴が、床をさらに濡らす。できれば床を拭いてもらいたいところだが、言っても無駄だろう。彼女の動作はゆったりとして、まるで自分の部屋にいるかのように自然だった。
「それにしても、なんで傘ささないんですか?朝から雨でしたよね」
雨で濡れて琥珀先輩に張り付いていた制服が、わずかに膨れた先輩のボディラインを浮き上がらせている。白いブラウスが透け気味で、彼女の肌の白さが際立っていた。雨の冷たさが伝わってくるようで、少し心配になった。
「どこ見てんのよ」
先輩の視線が鋭く僕を捉え、頰が少し赤らんだ。
「おっぱい?」
僕はからかうように言ってみたが、先輩がタオルを投げ返してきた。それをまた投げ返す。タオルが空中を往復する様子が、なんだか子供じみていて、部屋の湿った空気を少し和らげた。
「見られるのが嫌なら、傘、させば良いのに」
「邪魔だから。今を生きるのに」
先輩はタオルを畳みながら、窓の外をちらりと見た。雨は止む気配もなく、ガラスに細かい水滴が無数に付着し、景色をぼやけさせていた。
「刹那的だなぁ」
僕は肩をすくめた。ポットのお湯が沸き上がり、湯気が部屋に広がって、コーヒーの香りが混じり始めた。
「人生は永遠じゃないからね。今を楽しまないと」
先輩の声は少し哲学的で、普段の軽い調子とは違っていた。彼女はカップを受け取り、温かさを確かめるように両手で包んだ。
「でも人生は無限だよ」
「何それ?」
僕は手元のノートに、数式を大きく殴り書きした。ペンの音が雨音に混じり、ノートの上に黒いインクが広がる。
「昨日から今日、そして明日に人生が続いていくのなら、それは線形で表せるでしょ。それなら永遠でなくとも、無限に分割出来る。無限の可能性があるって事ですよ」
ノートを先輩に見せつける。彼女の目が少し細められ、興味深そうに数式を眺めた。
「それ、絶対違うからね」
先輩が少し呆れた顔で言う。僕は気恥ずかしさから、また窓の外を眺めた。朝から変わらず雨が降っている。窓ガラスには先ほど書いた数式が、雨の雫で歪んで映っていた。
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