第2話(4) 王都セイント

ふと、玉座の横。

国王の傍に立つ女性が、そっと一歩前に出た。


その姿は、まるで一幅の絵画のようだった。

身長は一六五センチほど。

大人の女性らしい柔らかな曲線と気品ある立ち姿は、ただそこに立っているだけで視線を奪う。


長い黒紫の髪が肩から背にかけて波打ち、動くたびに光を受けて深い紫が揺らめいた。

背中の中ほどまで伸びたウェーブヘアの毛先には、ワインレッドがさりげなく染められており、その色が彼女の静かな妖しさを際立たせている。


深い紫の瞳は、微笑んでいるにもかかわらずどこか温度を感じさせない。

切れ長の目元と薄い唇が形づくる横顔は、整っていて、上品で、それでいて近寄りがたいほど美しい。


身に纏うドレスは黒と深紅を基調とした豪奢な一着。

胸元は品よく開かれ、金の装飾や宝石が夜空の星のように輝いている。

腰には王家の象徴である番の馬の紋章を象った金の飾りが添えられ、手には黒レースの手袋が優雅な指先を包んでいた。


その微笑みは柔らかく、口調も驚くほど穏やかだ。

だが、瞳だけは、どこか冷たく光っている。

玉座に寄り添うように静かに立つ彼女は、優しさと不穏さが同居した“深淵”のような雰囲気をまとっていた。


「陛下、”将軍殿”は此度の戦いと帰還で疲れております。

長話はそろそろお控えなさった方がよろしいかと?」


柔らかく笑みを浮かべた声色なのに、

言葉の選び方は迷いがなく、謁見の間にいる全員に聞かせるような絶妙な大きさだった。

黒と深紅のドレスの裾が、床の上でふわりと揺れる。


「ふっ……そうだな。お前にそう言われては、引き下がれぬな。マスカレ。」


国王が女性の言葉に嬉しそうに答える。

玉座の上で肩を揺らして笑い、横目でマスカレを見つめる国王の顔には、

先ほどまでカールに向けていた威厳ある国王の表情はなく、

一人の男として妻に甘えるような、だらしない優しさが浮かんでいた。


マスカレは、その視線を受け止めながら、ゆっくりとカールへと顔を向ける。

深い紫色の瞳が、まっすぐに彼を射抜いた。

口元は優雅に微笑んでいるが、その目だけは笑っていない。


「ええ、陛下。せっかくのお祝いですもの。

 お話ばかりでは、楽しむお時間が削れてしまいますわ。

 ──ね、“将軍殿”? あなたもそうお思いでしょう?」


「……はい。マスカレ様のおっしゃる通りかと存じます。」


カールは顔を上げ、作り物のように整った微笑みを浮かべて答える。

声の調子も、礼儀正しい第一王子そのものだ。

だがその胸の奥では、冷めきった氷のような感情が静かに沈んでいる。


(“将軍殿”か……。息子と呼ぶ気は一切ないというわけだ)


マスカレはわざとらしく肩をすくめ、可愛らしい仕草で小さくため息をついてみせる。


「まあ……。“母上”とお呼びくださいませと、いつもお願いしておりますのに。

 やはりまだ、距離は埋まりませんわね?」


謁見の間のあちこちで、貴族達がくすくすと笑う。

それは、仲睦まじい親子のじゃれ合いに見えるかもしれない。

だがカールには、その一言一言が、

自分の立場と関係を周囲に見せつけるための舞台演出にしか思えなかった。


マスカレと呼ばれる女性は、王妃である。

彼女は国王の後妻であり、カールの義理の母にあたる。


カールが幼き日に、実の母親は“病死”した。

体が弱く病気がちということはなく、誰が見ても健康そのものだった。

それなのに、ある日、何の前触れもなくカールの目の前で倒れ、そのまま息を引き取った。


王国中が喪に服し、国王も大いに嘆き悲しんだ――少なくとも、表向きはそう見えた。

だが、葬儀が終わって数日もしないうちに、新たな正室としてマスカレが王城に迎え入れられた。


あまりにも早すぎる再婚に、城下でも貴族の間でも噂は広がった。

「本当に病死なのか」「毒ではないのか」

マスカレによる毒殺疑惑もささやかれたが、真相は闇の中だ。

国王が何も追及しない以上、誰もそれ以上深く踏み込もうとはしない。

王の決定は、この国では“世界のルール”と同じくらい絶対だからだ。


彼女の生まれた家は、貴族の中ではかなり地位が低い。

この王国では、貴族の位は王家との結びつきの強さで決まる。

国王の兄弟、王女の嫁ぎ先、その子どもたち――血が濃い一族から順に上位となり、そこから代を重ねるごとに少しずつ外側の階層へ押し出されていく。


マスカレの一族は、十代前の国王の弟の娘の家系だ。

もはや「王家ゆかり」と言われても、書物の系図を指さして説明しないと誰もピンとこない程度の遠縁であり、ほとんど他人と言っても問題はない。


そんな家の娘が、突然“王妃”という頂点に座ったのだ。

本来なら、王妃はもっと王家に近い血筋、あるいは上級貴族の娘が選ばれるのが普通である。

なぜマスカレが正室に選ばれたのか、今でも謎のままだが――国王が彼女を溺愛していることだけは、誰の目にも明らかだった。


黒紫の髪と、人を見透かすような深い紫の瞳。

この世界で“純血”の証とされる色を持ち、礼儀作法も言葉遣いも申し分ない。

周囲の貴族から見れば、「地位が低かったこと以外は、王妃としての条件は整っている」とも言えた。


だが、カールにとっては違う。

母の死を十分に悼む時間も与えず、新しい正室を迎え入れた国王を、彼は心の底から憎悪し、嫌悪していた。

マスカレがどれだけ穏やかな声で話しかけてこようと、どれだけ優雅な笑みを浮かべようと、その感情が変わることはない。


マスカレの側に、一人の少年が立っていた。

彼の名はトーマ。

国王とマスカレの間に生まれた第二王子である。


十歳になる少年だが、どう見ても美少女である。

黒紫色のロングの髪を腰下まで伸ばし、先端をリボンでひとつに縛っている。

長いまつ毛に、丸みを帯びたほっぺ。

とても整った顔立ちをしており、彼が男性用の正装をせずに女性用のドレスを着ていれば、誰が見たって少女にしか見えないだろう。


王子としての正装――白いシャツに紫のベスト、短いジャケットと半ズボン――を身に着けていても、その印象は変わらない。

もじもじと袖口を握りしめ、周りの視線におびえたように小さくなる姿は、堂々と振る舞うべき王族というより、守ってあげたくなる子どもそのものだった。


気が弱く、剣術はまったくできない。

おままごとやお人形遊びが好きで、よく貴族の女性たちに混じって遊んでいる。

戦場の話や軍の報告より、お菓子作りや新しい人形の服の話をしている時の方が、彼の顔はよく輝いていた。


国王はトーマの軟弱な精神を鍛え直すために、形式上は騎士団に入団させている。

この国では、王族であろうと男であれば剣を学ぶのが当たり前であり、王子たちも例外ではない。

だが、その結果はあまり芳しくない。

木剣を持たせればすぐに泣きそうになり、馬に乗せればおそるおそる手綱を握る始末で、周囲の騎士たちも扱いに困っていた。


それでも、トーマはこの世界で“王家の血”を継ぐ者だ。

王都の人々は彼を一目見ただけで、「まるでおとぎ話のお姫様だ」とひそひそと噂する。

一方で、一部の貴族たちは、そんな彼を「次の王」に担ごうと、静かに目を光らせている。


カールは、それを全部わかっていながら、弟を嫌いになれなかった。

マスカレや国王への感情とは別に、トーマという一人の子どもを見てしまうからだ。

そのことが、彼自身にとってもまた厄介だった。



マスカレはトーマの手を引き、玉座の階段を降りてカールに近づく。

黒いレース手袋の指先が、静かで優雅な動きでカールの手へと触れ、そっと包み込んだ。

柔らかいはずの感触なのに、カールにはどこか冷たく、ぬめっとしたものに掴まれたような気がした。


「さあ、“将軍殿”。

 いつまでも膝をついていては、床が冷とうございますわ。……お立ちになって?

 これから楽しい晩餐会が始まりますのに。」


耳に届く声は、いつも通り穏やかで優しげだ。

だが、カールにはその奥に「立ちなさい」と命令する圧だけが、はっきりと聞こえていた。


マスカレは周囲の視線もきっちり計算している。

王妃が優しく第一王子の手を取って立たせる――そう見せかけるだけでいい。

カールがどう思っているかなど、彼女にとっては取るに足らないことだ。


胸の奥でじわりと嫌悪が広がる。

それでも顔には一切出さない。

今ここで感情を露わにすることは、自分の負けを認めるのと同じだ。


(……将軍殿、か。実に都合のいい呼び名だ。

 息子でも、部下ですらなく――ただの駒だと言っているようなものだ)

(それに、なぜあなたが私に「立ってよい」などと命じるのか……)


心の中でそう呟くと、カールはわざとゆっくりとした動作で立ち上がり、

マスカレではなく国王へ向けて感謝を示す礼を取る。

あくまで、自分の主は国王であり、マスカレではないという線引きを、さりげなく、しかしはっきりと示すためだ。


カールとマスカレ、二人は視線を合わせ、お互いに微笑み合う。

玉座の前で交わされるその笑みは、誰が見ても仲睦まじい“家族”のそれに見えるだろう。

だが、カールの笑みは筋肉で作った仮面にすぎず、マスカレの笑みは獲物の動きを観察する蛇のように静かだった。

どちらの目も、少なくとも本心ではまったく笑ってはいなかった。


「よし、こんな堅苦しい話はもう終いだ。

 今日は我が妃の誕生日であるぞ。――宴の用意を、盛大にな!」


国王が玉座の上でぱん、と楽しげに手を叩く。

その軽い音が、白い謁見の間に乾いた反響を残した。

直後、両開きの大扉がきぃ、と音を立てて開き、外のざわめきが一瞬だけ流れ込んでくる。

扉の向こうから、銀髪銀眼のメイド達が列をなして現れた。

同じデザインのメイド服に身を包み、まるで計ったような同じ歩幅で進んでくる。

彼女たちの髪がシャンデリアの光を受けてきらりと光り、銀のトレーに乗った料理の皿が小さく揺れた。


香ばしい肉の匂い、焼きたてのパンの香り、甘いソースの匂いが、ゆっくりと謁見の間に広がっていく。

つい先ほどまで戦の報告をしていた場所とは思えないほど、空気が一気に“宴の匂い”に塗り替えられていった。


豪華な食事が乗った銀のトレーを両手で持ち、メイド達は王と王妃の前を通り過ぎていく。

階段の下では、給仕役の執事たちが次の指示を待って並び、貴族たちは「ほう」「これは見事だ」といった顔で料理を眺めていた。


(……ついさっきまで戦場の話をしていた口で、次は宴か。

 笑えという方が無理だな)


カールは心の中で冷ややかに吐き捨てる。

表情は崩さないまま、胸の奥にじわりとした違和感と嫌悪だけが沈んでいった。


今回カールが帰還したのは、敵を追い返した報告をするためではない。

それだけであれば水晶玉で報告すれば済むことだ。

前線から王都までの距離と、軍の動きを考えれば、本来なら今も指揮を執っているべきだった。


今日は王妃マスカレの誕生日だ。

王城中が「めでたい日だ」と浮かれ返っている。

カールにとっては、心の底からどうでもいい騒ぎだった。


(よりによって、こんな時に誕生日祝いとはな)


彼の脳裏には、前線で戦う同胞たちの光景がよぎる。

冷たい風が吹きつける城壁、泥に汚れた甲冑、夜通し続く見張り。

今もどこかで、騎士と異人たちが敵の気配を探っているはずだった。

むしろ、カールの不在中に敵が侵攻してくるのではないかという不安さえある。


カールからすれば、突然現れた女に家庭を乱されたのだ。

母を失った直後に、何事もなかったかのように玉座の横へと立った新しい王妃。

その誕生日を祝う余裕など、本来なら一切ない。


(祝われるべきは王妃の年じゃない……

 もう年を重ねることもできない、前線で散った一万人の墓標の方だろう)


心の中で冷ややかに吐き捨てながらも、顔には出さない。

今ここで本心を漏らせば、場の空気が一気に凍りつくのがわかっているからだ。

王妃マスカレの誕生日は、「王国の祝宴」としてすでに出来上がっている。

そこに水を差すのは、いくらカールでも得策ではない。


晩餐会が始まるとカールの周りには大勢の令嬢が集まってきた。

次期国王候補であるカールの王妃の座を巡って彼女達は視線で牽制を取る。


華やかな香水の匂いと甘い笑い声が、耳元でまとわりつく。

ドレスの裾が揺れるたびに、光を反射した宝石がきらきらと瞬き、

誰もが「自分こそがふさわしい」とでも言いたげな笑顔を向けてくる。


(誰と結婚するか、か……。王妃の座の心配より、今は前線の心配をさせてほしいものだ)


カールは彼女達と楽しそうに会話を交わしているふりをしながら、さりげなくトーマへと視線を送る。


トーマもまた同年代の少女達に囲まれているが、

カールの周りの女性達と比べるとまだ、純粋さが感じ取れる。

顔を赤くしながらも、トーマは一人ひとりにきちんと挨拶を返しており、

時折こちらを気にするように視線を浮かべていた。


トーマと目が合うと、彼がそっとこちらへ歩いてくる。

少女達の輪から抜けるとき、一瞬だけ不安そうに振り返ったが、

カールと視線が重なった途端、ほっとしたように小さく微笑んだ。


「お兄様。その……今、お時間よろしいでしょうか?」


胸の前でそっと手を重ね、小首をかしげるトーマを見て、カールは思う。

なぜ、こいつは妹として生まれてこなかったのだろうか、と。


カールには姉が二人に妹が五人いる。

全員母親は違うが、れっきとしたカールの兄弟達だ。

――それでも、並べて見比べれば、どうしてもトーマの方が一番かわいく見えてしまう。

令嬢たちの作り物めいた笑顔とは違い、トーマの表情は、あまりにも不器用なほど正直だった。


(まあ、本当に妹であれば……誰にも嫁がせはしないのだがな)


そんな馬鹿げたことを心の中で呟いているうちに、

トーマが今にも泣き出しそうな顔をし始めていた。


カールがぼんやり考え込んでいる間、

トーマは「やっぱり今は駄目だっただろうか」と不安に揺れていたのだろう。

視線は落ち着きなく泳ぎ、指先はそわそわと服の裾をつまんでいる。


(しまった。答えも返さず放っておいてしまったな)


「……ああ、構わん。ちょうど息をつきたいと思っていたところだ」


慌ててそう声をかけると、トーマはパアァ、と花が咲くような笑顔を見せた。

先ほどまでの不安が嘘のように消え、その笑顔だけで、

カールの胸の緊張が少しだけほどけていく。


(……かわいいやつだ)


カールが内心で悶絶していると、

トーマが銀髪銀眼の執事から小さな青い箱を受け取り、両手で大事そうに抱えてカールに差し出す。

緊張しているのか、箱を持つ小さな手がわずかに震えていた。


「こ、これ……その、ご無事で……帰ってきてくれた、お祝い、です」


「これは?」


カールが受け取り、箱を開けてみると、中には指輪が入っていた。


指輪には、王家の証である番の馬が精緻に装飾されており、

そのうち片方の馬は、小さな宝石を大事そうに咥えている。


周りから、小さなどよめきが上がる。

「まあ、素晴らしい」「なんて素敵な兄弟愛かしら」と、令嬢たちが口々に指輪を褒めそやした。

彼女たちの視線には、羨望と、ほんの少しの嫉妬が混じっている。


カールが胸の奥をぎゅっと締め付けられるような思いで指輪を見つめていると、

トーマがさらにそっと側へ寄り、背伸びをしてカールの耳元に口を近づけようと頑張り始めた。


カールは一七〇センチと成人男性の平均的な身長に対して、

トーマは一四〇センチほどと、身長差はかなりある。


いくら背伸びをしても届かないトーマを見て、

カールは思わず口元を緩め、トーマに合わせて腰を落とす。

そうして目線を合わせただけで、トーマは全身で嬉しそうにその仕草を受け止めた。


顔を寄せたトーマが、そっと耳元で囁く。


「ぼ、僕も同じ指輪を持っていて……片方の馬さんには、絆石を咥えさせているから。

だから、その……これで、いつでもお話しできるね」


言い終えたあと、自分で口にした言葉を思い返したのか、

トーマは耳まで真っ赤にして、そっと視線を逸らした。

「いつでもお話しできる」という言葉に込めた本音――

寂しさと甘えが、その横顔からは隠しきれていない。


(……そんな顔をされたら、前線で無茶などできんではないか)


耳元から離れたトーマは、少し恥ずかしそうに笑って誤魔化す。

誤魔化そうとすればするほど、さらに顔が赤くなり、その様子はまるで小さな太陽のようだった。


今すぐ抱きしめたい衝動を必死に抑え込み、

カールは自制を保ちながら、できるかぎり優しい声で告げる。


「……ありがとう。大切にする」


その短い言葉に、カールは「必ず無事に戻る」という決意を、そっと一緒に込めた。


周りの女性達が二人のやり取りを見て、口元を両手で隠しながら、

うっとりとした目でこちらを眺めている。


――尊い、と。


彼女たちは微笑ましい兄弟の一幕として眺めているだけだが、

カールにとっては、戦場の報告も、王妃の誕生日もかすむほど、

たった一つだけ「この世界で守りたいもの」が、はっきりと胸に刻まれた瞬間だった。

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レッドライン 第一部 異人編 すずはるな @suzuharuna

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