第2話(3) 王都セイント

王城の廊下は外観と同じく白い石で形作られており、壁には歴代国王たちの絵画が等間隔に飾られている。

高い天井からは大きなシャンデリアが吊るされ、絆石を埋め込んだ灯りが柔らかい光を放っていた。

両脇には直立不動の騎士たちが並び、カールが通り過ぎるたびに、背筋を伸ばして敬礼で敬意を示す。


やがて、謁見の間へ続く両開きの大扉が見えてきた。

番の馬の紋章が刻まれた扉の前でカールの足が止まると、扉脇の執事が合図を送り、中の騎士たちが声を揃えて開門の号令をかける。


重厚な扉が、ギィ…と低い音を立てて開いていく。

その隙間から、ひんやりとした空気と、香のかすかな匂いが流れ出てきた。

同時に、中にいた貴族たちのざわめきがすっと小さくなっていく。


謁見の間は真っ白な室内を左右を区切るようにレッドカーペットが敷かれ階段上の玉座まで続いている。

壁も柱も白一色だが、窓から差し込む光と絆石のランタンの灯りが反射して、どこか現実味のない明るさを作り出していた。


玉座は黒いレザーのシートで出来ており、向かい合う番の馬が金の枠で形作られている。

その周りには、王家の紋章を模した装飾がいくつも飾られ、視線が自然とそこへ吸い寄せられる。


玉座に鎮座するのはカールの父、第124代 国王 その人である。


身長は一八五センチを超える巨体だが、椅子に座ってもなお圧が消えない。

広い肩と分厚い胸板は、長年鍛えた軍人の体格そのままで、重厚な玉座ですら小さく見えるほどだ。


黒を基調とした髪は、光を受けてかすかに紫を帯びる“黒紫”。側頭部に混じる白髪が、年齢ではなく積み重ねてきた統治の重みを物語っていた。

透き通る紫の瞳が一度こちらを見据えるだけで、空気がひりつく。

静かだが、底の見えない威圧感がある。


眉は太く、目つきは鋭い。

短く整えられた顎髭がその顔立ちにさらなる威厳を加えていた。

身に纏うのは、黒と金の豪奢な礼装ローブ。

肩口と胸元には王家の象徴たる「向かい合う二頭の馬」の金刺繍が大きく刻まれている。

胸元では宝石をあしらった重厚なペンダントが、玉座の光を反射して静かに輝いていた。


そして片手には、深紅の布で飾られた王笏の柄に軽く添えられている。

力を誇示するわけではない――ただ、そこにいるだけで王であると分からせる“本物”の威厳があった。


国王に名前はない。

即位前にはもちろん一人の人間として名前があったが、王冠をかぶった瞬間から、その名は誰の口からも呼ばれなくなる。


何故ならば「国王」と言えばこの世界でただ一人の存在を指し、他に紛れようがないからである。

初代国王セイントの代から続く古い決まりで、誰も疑問には思わない。


この世界では、そもそも“名前”そのものにそこまで重きが置かれていない。

大事なのは「誰か」より「何をしているか」だと考えられているからだ。


その極端な形が国王であり、名前を捨て、役職だけを自分のすべてとして背負う。

王家の紋章である向かい合う番の馬も、名前の代わりに“誰のものか”を示す印としてあらゆる場所に刻まれている。


カール自身も例外ではなかった。

第一王子という立場でありながら、彼もまた日常では“カール殿”ではなく“将軍”と呼ばれることの方が多い。


カールはレッドカーペットを優雅に歩く。

レッドカーペットの周りには多くの貴族が頭を下げ、将軍にして第一王子の帰還を迎え入れる。


玉座の前、階段前まで歩き、カールは片膝を床につけ頭を下げた。



「よく戻ったな、我が王子よ。……ふ、こうして無事な姿をこの目で確かめられて、余は満足だ。」


広い謁見の間に、その低くよく通る声が響き渡る。

白い壁が王の声を幾重にも跳ね返し、わずかに遅れて重なった反響が、頭を垂れるカールの背中にずしりとのしかかってきた。


国王がカールに労いの言葉をかける。


玉座の左右に並ぶ貴族たちがざわ、と小さくどよめく。

安心したように胸に手を当てる者、口元だけ笑みを浮かべる者、頷き合う者。

揺れた袖口やマントの先についた宝石が、天井から吊るされた絆石の光を受けてきらりと瞬いた。


「陛下におかれましても変わらずご壮健と伺い、僭越ながら安堵いたしております。」


カールは顔を上げず、礼儀通りの声で答える。

その声は落ち着いており、少しも乱れていない。

ただ、自分の言葉が赤い絨毯の上を転がって、玉座の階段の手前で止まってしまうような、妙な距離感だけがあった。


「うむ、カールよ。此度もよく敵の侵攻を退けた。……うむ、順調で何よりだ。」


王の笑い声が続き、貴族たちの間から「さすが将軍だ」「やはり我が王国は安泰だ」と小さな囁きが漏れる。

金や宝石で飾られた冠や首飾りが揺れ、きしむ革靴の音、衣擦れの音が静かな歓声の代わりに広がっていく。


「いえ、とても。……一万以上の兵を失った私めに、そのようなお言葉は過分にございます。」

カールの声が少しだけ低くなる。


「一万? ……ああ、異人どもの数か。気にするな。どうせいくらでも補充できる。好きなだけ使い潰せばよい。」


国王はまるで、倉庫にある荷物の数を確認しただけのような気楽さで言い放つ。

玉座の背後に飾られた番の馬の紋章が、その言葉に合わせて誇らしげに見えるのが余計に皮肉だった。


カールは深々と頭を下げ、感謝の意を表す。

姿勢は崩さない。

ただ、握りしめた拳に力がこもり、革の手袋がきしりと鳴った。


周りの貴族たちは、一万の犠牲など最初から数に入れていないかのように、口々にカールの名を讃え始めた。

「さすが将軍閣下だ」「やはり我が王国は盤石だな」

取り繕った笑みとお追従の言葉が次々と重なり、白い壁と高い天井にぶつかって、ひとつの大きなざわめきとなってカールの耳を圧してくる。


(……愚かだ。一万だぞ。一万もの“人間”が死んだというのに。

敵を追い返しただけの私など、本来なら無能と罵られて然るべきだろうに)


顔を上げれば、この場にいる誰一人として“死者たち”の顔を思い浮かべていないことなど、一瞬で分かってしまう。

だからカールはあえて視線を床に縫い付け、まぶたの裏にだけ、泥と血に塗れた戦場の光景を呼び戻した。


カールは王家、貴族らの楽観的な考えに嫌気がさしていた。

赤い絨毯を挟んで自分の左右に並ぶ靴は、どれも磨かれ、傷一つついていない。

戦場の土を踏んだことのない足音が、偉そうに自分の功績を語り合っている。


たった、千人にも満たない敵を相手に1万の軍勢を失ったことを誰も気に留めない。

その数字の重さは、この冷えた石造りの床ではなく、遠く離れた最前線の土の中にだけ沈んでいる。


もし、これが騎士を1万人失ったとなれば大ごとになるだろう。

しかし、消耗品の異人がいくら死んだところで誰も気に留めない。


むしろ、死んでくれたことを喜ぶ声が聞こえてくる。

これで、食料問題が少しは解決するだろうと。


その言葉を口にした貴族の笑い声が、レッドカーペットの端を転がってカールの耳に届く。

カールの心に激しい炎を抱かせたが、すぐに鎮火させる。


ここにいる多くの貴族は戦争を知らない。

さきほどからカールの功績を持ち上げている連中も、手にしてきた武器といえば、せいぜい儀礼用の剣か晩餐会で使う銀のナイフくらいだ。

ほとんどが役人であるため、戦場に出たことが一度もないのだ。


王国が建国されてから千年以上経つが、

「国と国とが兵を向け合う」という意味での戦争が起きたことは一度もなかった。

歴史の教本に載っているのは、初代国王セイントの武勇伝や、歴代国王の昔話ばかりで、人同士が大軍同士で殺し合った記録は一行もない。


だからこそ、十年ほど前に王国に牙を剥く者達が現れたときも、

最初は誰もそれを「戦争」とは呼べなかった。



だからこそ彼らは戦争がどういうものか、今もよくわかっていない。


共に戦う騎士達であれば理解するであろう。

敵がまだ本気でないことを。

こちらが一万以上の異人をすり潰してようやく押し返したというのに、

敵は本拠地を晒さず、幹部級と呼べる者も姿を見せない。

あくまで様子見と牽制だけで、王国の反応を楽しんでいるようにさえ見える。


国民は更に酷い。


彼らは知らないのだ、この国が今、戦争をしていることを。

いや、戦争という言葉、行為そのものを知らないのだ。

たとえ国が発表しても、その重さを理解できない。


だが、彼らを責めることはできない。


繰り返すが、この世界では今まで、争いと呼ぶべき事態が起きたという文献が一つもない。

個人同士の喧嘩や、小さな揉め事はあっても、

軍を動かして相手を滅ぼそうとした記録はどこにもない。


国が一つしかないのだから当たり前と言えばそうだろうが、

それでも内乱もなければ反乱も一度も起きたことがなかった。

約八百年前に異人が現れる以前の人々は、

本当に他人を思いやり、互いに協力することに長けた、穏やかな人種であった。

今のように醜い人種ではなかったのだ。


この当たり前の日常は「永遠である」と信じられている。

王がいて、貴族がいて、民がいて、異人達が奉仕する。


にも関わらず、今敵がいるのはいうまでもない。


異人達が反旗を翻したのだ。

奴隷解放と、人としての権利を求めて。


彼らの言い分は真っ当だ。

誰だって自由を求める。

人として生活がしたいと願うのは当然である。


なのに、道具として死ぬまで消耗されるだけではなく、

死ぬことすら「よかった」と受け止められているのが現状である。


もはや奴隷より酷い扱いだ。


国王がまだ何か上機嫌に話をしているが、

その太くよく通る声が、白い壁と高い天井に反響して謁見の間いっぱいに広がっていた。

何度も聞かされてきた武勇伝と昔話に、周りの貴族達は「さすが陛下」とでも言いたげに、

わざとらしい笑い声や相槌を返す。


頭を下げたままのカールの視界には、赤い絨毯と自分の黒い軍靴、そして床に落ちた影しか映らない。

握りしめた拳には力が入りすぎて、手袋の中で指がわずかに震えていた。



内なる思いを抑えるように、カールは唇を強く噛み締めて耐えていた。

噛んだ部分に、じわりと鉄の味が広がる。

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