第2話(1) 王都セイント
この世界にはたった一つだけしか国は存在しない。
王国に名前は存在しない。
約1000年以上前に一人の青年が、数多ある街や集落をまとめたことが始まりである。
当時の人々は小さな集落ごとに暮らし、道も法律もバラバラで、隣の街に行くにも命がけだったと言われている。
その混沌を一つに束ね、今の「王国」の基礎を作ったのが、その青年だった。
その青年、初代国王の名前を取って王都はセイントと呼ばれている。
この世界の街の作りは、全て丸い層で構成されている。
上から見れば同心円のようにいくつもの輪が重なり、外に行くほど仕事や役目が変わっていく造りだ。
外敵から守りやすいようにという理由と、人や物の流れを管理しやすいようにという理由から、千年の間この形が使われ続けている。
異人たちが住む異人街も、その作りだ。
中心に居住区、次が工業地帯、最後が農業地帯といった具合に、仕事と生活の場所が輪のように分かれている。
ただし、異人街の場合、その「輪」はほとんど外界から切り離された檻のような意味合いも強い。
王都も同様に、王城、城下町、異人区という順番だ。
一番内側に王城、その周りに貴族の屋敷、次に国民たちが暮らす城下町。
そして一番外側、城壁の外縁をなぞるように広がっているのが、異人区である。
異人区は脱走防止も兼ねて大通りが1本しかないが、
王都や街など人間が住む土地には、東西南北に大通りが一本ずつ通っており、
区画を自由に行き来できるように繋がっている。
人間の街では、誰もが当たり前のように四方へ向かう道を選び、遊びに行く。
しかし異人区では、その当たり前すら許されない。
行けるのは「前」か「後ろ」だけ。曲がり角そのものがほとんど存在しない。
大通りには枝分かれした通りが無数に伸びており、
店や住宅などが並んでいる。
朝になればパンの焼ける匂いがして、昼になれば子供達の笑い声が混ざり合う。
同じ「丸い街」のはずなのに、人間が歩く通りと、異人が歩く通りでは、流れる空気も、許されている表情もまるで違っていた。
王都の一番外の区画、異人区を縦断する豪華な馬車が通り過ぎる。
車輪が石畳をきしませるたび、ガコン、ガコンと鈍い音が路地に響き、そのたびに近くにいた異人たちの肩がわずかに跳ねた。
異人区はいくつもの木造建築が立ち並んでおり、
どれも長年の風雨にさらされて色あせ、柱や壁はところどころひび割れている。
二階の小さな窓からは薄汚れた布切れが洗濯物のように垂れ下がり、隙間風を防ぐために打ち付けられた板が、街並みにさらにみすぼらしさを足していた。
地面は石畳で舗装され、街灯が等間隔で地面を照らしている。
だが石畳の隙間には黒ずんだ水たまりが残り、湿った土と汗と、どこか焦げたような匂いが混じって鼻をつく。
街灯に照らされてはいるが、その光は温かさとは無縁の冷たい白さで、照らし出されるのは影ばかりだ。
そのような暗い場所を、場違いなほど豪奢な馬車が音もなく通り過ぎていく。
黒く塗られた車体に街灯の光が鈍く反射し、石畳に伸びた影だけが、ゆっくりと異人区を横切っていく。
道端にいた異人たちは、馬車の気配に気付くと条件反射のように壁際に寄り、視線を足元に落とした。顔を上げて中を覗き込む者は一人もいない。見てはいけない、と体に叩き込まれているかのように。
馬車は漆喰で塗られた黒一色で統一されており、
その漆黒の車体の側面には、金で装飾された番の馬が、馬車側面中央の扉を挟んで向かい合って前足を上げている様子が描かれている。
金と黒。王国で最も高貴とされる二つの色が、異人区の薄汚れた景色の中でいやでも目を引いた。
初代国王セイントが最も愛した動物が馬であり、
書物に書かれている話では、セイントと番の馬は数々の冒険と苦難を共に乗り越え、
王国を創り上げたとされており、王国では神聖な存在とされている。
子ども向けの絵本でさえ、必ず黒髪の青年と、その隣に寄り添う二頭の馬が描かれているほどだ。
だからこそ、この高貴な存在が乗る馬車には番の馬が描かれている。
この番の馬が向かい合う構図は王国、王家の証であり、国中に描かれている。
王城の門、街頭に吊るされた旗、どこに行ってもこの紋章が目に入る。
それは、ここがセイントの血を継ぐ者が支配する唯一の世界なのだと、嫌でも思い知らされる印でもあった。
この豪華な馬車を引く6頭の馬も普通の馬ではない。
王家のために育てられる専用の牧場の中でも選ばれた特別な馬で、神馬と呼ばれている。
毛並みは光を弾くように滑らかで、脚は無駄なく長い。息を吐くたびに白い靄が上がり、金具の触れ合うカシャンという音が一定のリズムで響く。
神馬を一目見た庶民は幸運だと喜び、逆に異人が目に入れてしまった時は、すぐに目を伏せてその場を離れるよう教え込まれている。
育てるのはこの世界の人間だ。
当然、王家の馬なのだ。
異人如きに触れさせるわけにはいかない。
もし異人が神馬に近付けば、それだけで重罪になるとまで噂されている。
だからこそ、異人区を黒い馬車が通るこの光景は、王家と異人との距離を、これでもかと分かりやすく見せつける行進でもあった。
馬車内部は内装も黒一色で統一されており、
壁も天井も、光を吸い込むような深い黒で塗られている。
そのせいで窓からの光はほとんど入らず、外より暗いはずなのに、室内は明るい。
車内の四隅には光を放つ加工がされた絆石(はんせき)が入ったランタンが吊るされており、
馬車が揺れるたびに、透き通った白い光がゆらゆらと室内をなでていく。
炎と違い煙は出ないが、その温かい光は、外の薄汚れた街灯とは違い、きっちりとした上品さを感じさせた。
黒い内装に光と影がまだらに浮かび、乗っている者たちの顔だけをくっきりと浮かび上がらせている。
床には厚い絨毯が敷かれ、足を乗せるとふわりと沈み込む。
雄牛の革で作られた三人掛けの対面ソファーが両側に置かれてあり、よく磨かれた革は、絆石の光を受けてつやりと鈍く光っていた。
全員が大開で股を開いてふんぞり返って座っても余裕なほどの幅があり、馬車が石畳を走るたびに、車体のきしむ音と、外から聞こえる蹄の音が、背もたれ越しにじんわりと伝わってくる。
そのソファーに三人の人間が座っている。
馬車後方に20代前半の男性が座っている。
ランタンの白い光が、彼の横顔の輪郭をなぞるように照らしていた。
黒髪ではあるが、光の反射で濃い紫色にも見える。
前髪は目にかかるか、かからないかのぎりぎりで揺れ、少しだけ無造作に流れている。
瞳は透き通った綺麗な紫色である。
じっとしているだけなのに、細かな光の粒を閉じ込めているかのようにきらりと光った。
この世界特有の色は、彼が異人ではない、この世界の人間であることは一目でわかる印だ。
青年は背もたれに深くもたれることなく、ほどよく背筋を伸ばして座っている。
豪華な装飾が施された軍服を着ており、黒色の生地に中央には金の大きなボタンが三つ縦並びに前を止めている。
わずかに揺れる車体に合わせて、ボタンや肩の飾りがかすかに触れ合い、小さな金属音を立てた。
両肩や腕には細かい金の刺繍が施されていて、絆石の光を受けて糸の一本一本が薄く光って見える。
左胸には王家の証、金色の番の馬が刺繍されている。
向かい合う二頭の馬は、縫い目の中で今にも動き出しそうなほど精巧で、この一着がただの軍服ではなく「王家」の証そのものだということを静かに告げていた。
彼の前に向かい合う形で座る二人の男性も同様の服を着ているが、
胸に番の馬の刺繍が施される代わりに、1羽の鷲が描かれている。
二人とも三十代前後に見える男性で、カールより少し年上だろうか。
無駄な肉のない、鍛えられた体つきだ。
背筋を伸ばし、脚を大きく開いていても、だらしなさは一切ない。
黒い軍服のボタンは上まできっちり留められ、襟元も乱れがない。
馬車の中でも礼儀を崩さない、その姿勢から軍人としての矜持がうかがえた。
胸元の鷲の刺繍は、金糸で翼を大きく広げた姿が縫い込まれていた。
馬車が石畳の段差を踏むたび、その鷲が揺れて光を拾い、まるで今にも飛び立とうとしているようにちらつく。
鷲は初代国王セイントが冒険の途中に訪れた森で見つけた鷲の雛が大人になり、
セイントを手助けしたという逸話から、王家を支える貴族の紋章として使われるようになった。
二人の男は、その誇らしい紋章をこれ見よがしに張り出すよう、胸をそらして座っている。
王家の紋章を胸に持つ青年が独り言を呟く。
「……ここは、いつ見ても目に毒だな」
その小さな呟きを聞き逃さなかった、前に座る片割れの貴族が、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「まったくでございますな、将軍。あの汚らしい身なりと鼻を突く悪臭……この麗しき王都の景観に泥を塗っております。」
口元だけ愛想笑いを浮かべながらも、目は窓の外ではなくカールの表情だけをうかがっている。
もう片割れも負けじと声を弾ませた。
「とはいえ、異人も使いようですな。我々に奉仕している間くらいは、まあ生かしてやってもよろしい。何も出来ぬ役立たずなら――価値無しとして、さっさと処分してしまえばいい。」
こちらは本当に愉快そうに笑いながら、指先で膝をとんとんと叩いている。
石畳の段差を越えるたびに揺れるランタンの光が、二人の顔にちらちらと影を落とし、その言葉の冷たさを余計に際立たせた。
二人が勝手に異人の悪口で盛り上がるのを無視して、将軍と呼ばれた青年は腕を組みながら窓の外を眺め続ける。
組んだ腕に力がこもり、わずかに指先が震える。
それでも表情だけは崩さず、無言のまま、歩く異人たちの列をひとりひとり、焼き付けるように目で追っていた。
彼の名は、カール。
国王の息子、第一王子であり前線基地の司令官を任命されている。
容姿端麗で、貴族、国民に人望がある。
剣の腕前も達人と表され、絵に描いたような理想の王子様と言える。
黒い軍服の襟元は乱れひとつなく締められ、背筋は馬車の揺れにも負けず真っ直ぐに伸びている。
窓から差し込む絆石の灯りが黒紫の髪と紫の瞳を照らし、彼がこの国の「顔」であることを嫌でも印象づけていた。
だが、その瞳に浮かぶ色は誇らしさではなく、どこか沈んだ諦めのような影だった。
カールは、馬車の外で異人区を歩く異人たちを、眉を顰めながら一人一人を目に焼き付けるように凝視した。
肌を露にした服、うなだれた肩、擦り切れた靴。
揺れる馬車の窓越しに流れていくその姿を、ただの「景色」として見過ごしてしまわないようにするかのように、視線で必死に追いかけ続ける。
歩いているのは女性だけだ。
異人区で生活しているのは女性の異人だけだ。
年齢も背丈もまちまちで、腰の曲がった老婆から、今にも転びそうな幼い子どもまでいるが、どの顔にも共通しているのは疲れと諦めの色だった。
彼女らも男性と同じく三人一組で組を作っている。
赤い革製の首輪に黒文字で番号が書かれた首輪を付けているのが組長で、あとの二人は補助役という決まりだ。
組ごとに担当地区や持ち場が細かく決められており、決められた時間、決められた場所で働くことが、この世界での「生きる権利」として与えられているに過ぎない。
彼女らは王都や街に住む住民の生活を支えることが主な仕事になる。
食事や掃除洗濯などの家事全般から街の清掃やゴミ拾いなど多岐にわたる。
朝は朝食の支度をし、昼は街路の掃除、夜は酒場の後片付けと、組単位で一日中引き回されるのが当たり前だった。
異人の男は異人街、女は王都、街で分かれて生活しており、生涯出会うことはない。
同じ「異人」でありながら、顔も声も知らないまま死んでいく者がほとんどだ。
なぜ、異人達が男女に分かれて生活をさせれているかというと、
勝手に繁殖することを避けるためだ。
ただでさえ一日に数百人以上の異人がこの世界に迷い込んでくるのだ。
更に、今年は一日に千人を超える勢いだ。
彼らの捕縛や管理で手一杯なのにこれ以上増えられては困る。
そのため、男女の生活圏は厳しく区切られ、移動経路も記録され、勝手な往来は重罪とされている。
「管理しやすくするため」「王都の秩序を守るため」というもっともらしい理由が掲げられ、国民のほとんどもそれを疑おうとはしない。
外を歩く女性たちの服装はあまりにも肌の露出が多い、下着と言っても間違いではない。
細い紐で結ばれた布切れのような上衣と、太ももまでしかない薄い布。
しゃがんで水を汲めば背中が丸見えになり、走れば胸元が揺れる。
外で泥や土まみれで働く男性とは違い、女性は水回りの仕事が多いので服など着ても仕方がないという考えらしい。
「布代の節約」「濡れてもすぐ乾く実用的な服装」として正当化されているが、実際には見世物として消費されることも国も貴族も黙認している。
それすら、この国では当たり前の日常として受け入れられていた。
カールが窓の外を眺めていると、大人の女性に混じってトボトボと歩く、一人の十歳に満たないであろう少女に目が止まった。
一瞬、見間違いかと思った。
周りの女たちより一回りも二回りも小さな身体。
とことこ必死に付いていく短い足。
別に、十歳未満の少女が彼女だけというわけではない。
他にもちらほらと同じような年頃の子どもたちが歩いているのは見ている。
赤色の首輪をした組長の女性と手を繋いで歩く少女もいるし、元気よく小走りになる少女もいる。
中には、年齢の割に妙に大人びた目で周囲を窺っている子もいた。
では、なぜカールは、その一人の少女から目を離せなくなったのか。
理由は単純だった。一目でわかるほど、その少女のお腹だけが不自然に膨れていたからだ。
(……冗談だろう)
(あの年齢で、か)
怒りとも嫌悪ともつかない、重い何かが、胃の底からじわじわとせり上がってくる。
腹だけが前へ突き出た小さな影。
それを当たり前のことのように受け入れ、何事もなかったかのように歩かせている周囲の大人たち。
誰一人として足を止めない。誰も顔を歪めない。誰も、おかしいと口にしない。
(これを“日常”だと思えるほどに、腐っているのか)
カールは胸の中にモヤモヤとした思いが渦を巻くのを感じた。
拳に力が入り、軍服の手袋越しに指先がきしむ。
それでも表情だけは崩さない。
わずかに息を吐き、無理やりいつもの冷静さを顔に貼り付ける。
(外道どもが)
少女の背後に見える者達へ、静かに、しかし確かな軽蔑の眼差しを向けた。
その視線だけが、彼の中に残ったささやかな抵抗だった。
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