第1話(6) 運命のめぐり合わせ

午前の労働が終わり、金属製の鐘が乾いた音を響かせた。

作業場の喧騒がすっと静まり、あたりに重たい息づかいだけが残る。


老人看守の厳しい指導からようやく解放された司が、地面を踏みしめるたびに砂をかすかに蹴り上げながら、こちらへよろめくように歩いてくる。

背中は弓なりに曲がり、汗に濡れた髪が額に張りついていた。

腕はぶらりと垂れ、足取りはまるで自分の意志とは別に動いているようだった。


タカギとノームは、道具置き場のそばに立っていた。

二人の足元には踏み固められた赤土が広がり、陽に焼かれて白く乾いている。

司がそこまでたどり着くと、糸が切れたように崩れ落ち、仰向けに倒れ込んだ。


ふわりと土埃が舞い上がり、日差しに透けて金色に光る。

司の喉からは、浅く震える息の音がこぼれた。


「……もう、動けない……」


かすれた声が土の上でほどけ、陽炎の向こうに溶けていった。


タカギは眉間に皺を寄せ、ノームは腕を組んだまま黙って見つめる。

あの老人看守、鍛えるといっても手加減というものを知らないのではないか――そう思わせるほど、司の体は限界に近かった。


地面に背をつけた司の胸が、早く浅く上下している。

頭上の太陽は容赦なく照りつけ、司の頬に落ちた影が短く張りついて動かない。

こめかみから流れた汗が耳の後ろを伝い、土にしみこんでいく。

熱せられた大地の匂いと、塩辛い体温の匂いが混じり合い、空気に重く滲んでいた。


タカギがしゃがみ込み、司の額に自分の影を落とした。「おい司、生きてっか。」

ノームは横で膝をつき、落ち着いた声で言う。「無理をするな。鼻から吸って、口から吐け。ゆっくりだ」

司は二人のつま先のあいだで仰向けのまま、かすかにうなずく。


そのとき、配膳の列のほうから足音が聞こえてくる。

肩に大きなショルダーバッグを提げた、メガネをかけた初老看守が三人の手前で歩みを緩める。砂が小さくはね、看守は二歩手前で止まった。

タカギとノームは道を開け、看守が司の頭側へ半歩寄る。


汗で曇ったレンズの奥の目は細いが、口元はやわらかい。

周りを一度見回し、短く息を吐いて言った。

「あの人は鬼のように厳しいが、相手の限界を見極めて、ギリギリまで鍛えさせるんだ。

私も看守になったばかりは、あの人にコッテリ搾られたが……今では感謝しているよ」


言いながら、看守はショルダーバッグの紐を肩で直し、空いた手で自分の右肩をぐるりと軽く回す。

軋むように首を傾け、痛みの記憶をたしかめる仕草。

横顔には、少しのいたわりと、どこか誇らしげな色が混じっていた。


看守の仕事は多岐に渡る。

異人達の監視、彼らが問題なく時間通りに労働ができるように配慮しなければならない。


時には体調を気遣い、相談に乗り、司の様に鍛えたりもする。


この異人街では、監督官―看守―異人兵―異人という順に分かれているが、看守は中間管理にすぎない。


水晶玉を使っての起床合図、配分表、怪我人の報告、連絡の取り次ぎまで、すべて看守の役目だ。

昼食の食事や水の支給は時間勝負でもある。

遅れれば異人達の食事時間が短くなり、ブーイングの嵐、早ければ休ませ過ぎだと監督官に叱責される。

どちらに転んでも火の粉は看守に降る。


長年の信頼にてこの地位についているが、彼らはあくまで中間管理。

監督官と異人達による板挟みである。

決して楽ではない。 

むしろ普通の異人でいた時よりも体力勝負だ。


揉め事の仲裁、怪我人の搬送、そして翌月の各組の配置換えの調整 -紙に書けば数行だが、その内容は膨大である。


だから新人の看守に経験者の看守が教育係として就く。

失敗すれば異人街の機能が止まり、成功しても誰にも褒められない。

それでも彼らが失敗すれば、この異人街全体に重い罰が課せられることになる。


メガネの初老看守は、司の頭側に膝をついた。

ショルダーバッグを利き肩から外し、地面の影の中へそっと置く。

タカギは司の右側にしゃがみ、ノームは左側で体をやや前に倒して見守る。看守は片手で司の後頭部を支え、もう片手でコップを口元へ傾けた。

「ゆっくり、少しずつ飲むんだよ」


コップの縁はひんやりしていた。

司の指が小さく震え、表面の水が輪を描くように波立つ。

タカギはコップの底を支えるように指を添え、ノームは司の胸の上下を確かめるように視線で追った。


受け取った水を、司は喉仏を上下させながら少しずつ流し込む。

乾いた管がかすかに鳴り、冷たさが食道をなぞって腹へ落ちていく。

胸の浅い呼吸が、ひとつ、ふたつと間を置いて整っていく。


「ぷはぁ〜……生き返った〜!」

司は息を吐き、へにゃっと笑い頬にわずかに血色が戻る。

初老看守はコップを受け取り、砂のつかない位置へ戻して立ち上がる。

タカギは肩の力を抜いて尻もちをつき、ノームは深くうなずいた。

三人の表情には、はっきりと安堵が浮かんでいた。


「さあ、昼飯だ」

メガネの初老看守は、起き上がった司の正面にしゃがみこむと、ショルダーバッグから笹の葉に包まれた物を三つ取り出した。

司は正座して、タカギは司の右に、ノームは左に膝をつき、四人で小さな輪を作った。


看守はまず司へ渡し、タカギと、ノームの順番に渡していった。


司の手のひらにのせられた包みは、人肌のぬくもりを残している。

笹の葉をめくると、白い三角のおにぎりが現れた。

三角は少し歪み、海苔が一枚、帯のように巻かれている。

ほどいたばかりの米はみずみずしく光り、笹の香りがふっと立つ。

司の腹が、ぐぅーと正直に鳴った。それを見たノームとタカギが苦笑する。


司は一口かじると、表面の塩が舌に触れ、米粒がほどけて甘さが追いかけてくる。

海苔が歯にくっつき、ぷち、と小さく切れる音。温かさが腹の底からひろがり、固くなっていた肩がわずかに落ちる。


司の目には涙が溜まっていた。

塩気が口内に広がるたび、全身の疲れがほどけていく。

(うまい!)――何も考えられなかった頭に、少しずつ意識が戻る。

初老看守は新たに水が入ったコップを差し出し、司はこくりと水を飲み、再び司はおにぎりを両手で支え、勢いよく貪り食う。


「おいおい、落ち着いてゆっくり食べろ」

タカギが笑い、ノームが微笑んでいる。

風が一筋、汗ばんだ頬をなで、笹の青い香りを運ぶ。


ただの塩おにぎり――なのに、今の司にはどんなごちそうよりおいしかった。


今朝のノームの話をふと思い出した。

米を研いだ手、海苔を炙った匂い、包んだ誰かの体温。

司は小さく頭を下げ、笹の葉に残った米粒まで指でそっと集め、最後の一粒まで口に運んだ。


「それで、昼からは俺たちと一緒なのか?」

タカギは口いっぱいにおにぎりを頬張りながら尋ねた。


司は正座から体育座りになり、視線を膝の間に落とした。

「……午後も“特訓”だってさ。はは、もう電池切れだよ」

自嘲気味の乾いた笑い声で司が答えた。

さっきおにぎりで満たされた幸せな気持ちに、また重たい気持ちが戻ってきた。


救いを求めて顔を上げると、ノームは腕を組んだまま無言で耕している畑を見て「さて、午後も忙しいな」などと小声でぶつぶつ言っている。

正面に座っていた初老看守はショルダーバッグの口をきゅっと結び、遠くを一度だけ見やってから小さく咳払い。

タカギはわざと首を反らし、雲の形を数える仕草で司の視線をかわした。


真上の陽射しが白く照り、熱と静けさだけが、返事の代わりにそこにあった。


太陽が西に傾くと、仕事は終わり、片付けが始まった。

赤い光が道具の金属に細い筋を走らせ、土場一面に舞う埃が金粉みたいにきらめく。

夕風はぬるく、汗の塩をふわりと起こして鼻にかすかな鉄と土の匂いを運んでくる。

遠くで誰かが樽を転がし、ころころ、ころころと乾いた音が風にちぎれて流れていった。


司は作業場の中央から少し外れ、影が長く延びる場所にうつ伏せに倒れ込んだまま動かない。

額は土に触れ、背中が浅く上下するだけ。

呼びかけても返事はなく、喉の奥で短い息が擦れる音がする。

体温が地面に抜けていくようで、背筋に昼の疲れが重りのように沈んでいた。


ノームとタカギは司の左右に分かれて動いた。

ノームは司の左手側、足元から半歩外れて膝をつき、散らばった道具を手早く集めては束ねている。

指先で柄の割れを確かめ、数を口の中で確かめるように低く数える。

タカギは司の右手側で、ぶつぶつ文句を言いながらも重い木箱を片手で持ち上げ、もう片方で司の鍬をひょいと拾い上げた。

「まったく手のかかるガキだな」口ではそう言いながら、口元だけはにやけている。

二人が行き来するたび、司の脇を風が通り、土埃が薄く持ち上がって、夕陽の中で金色にほどけた。


仕事が終わり、三人は行きと同じ様に馬車の荷台に乗った。

夕焼けは群青へ溶けはじめ、空の端に赤が細く残っている。

前方では馬の吐く白い息、後ろでは車輪が砂利を踏む規則正しい音。

荷台の板は揺れるたびに ぎし、と低く鳴き、司の体を小さく上下させた。

まぶたは鉛みたいに重い。(このまま寝たら、朝まで寝てしまいそうだ……)指先で目をこする。

隣のノームが片肘でそっと肩を支え、低くささやいた。

「無理はするな。眠いなら、寄りかかっていろ」


司はその言葉に甘えてノームの肩に体を預けた。

やがて馬車を降り、朝に通った道を三人で戻る。

先頭を歩くタカギは小石をつま先で蹴り飛ばし、時おり振り返って、「ほら、置いてくぞ。」とわざと煽る。

最後尾に司、その半歩横にノームが並び、歩幅を司に合わせて少しだけ歩調を落としてくれる。

行きは灰色に見えた建物の壁が、今は茜色の縁取りをしていて、角という角がほのかに光っていた。

風は昼より冷たく、汗の膜が首筋に張りついてぞくりとする。地面の冷えが靴底から上がってきて、足首がしゃんとする。


角を曲がったところで、ノームがふっと「このあとシャワー浴びるぞ」と小声で話した。


すると、くたりと垂れていた司の首がぴくりと上がる。「ほんとに……? 助かる……」

前を行くタカギが振り向きざまに司の肩をぽんと叩く。

「お、元気になったな。よーし、先に着いたほうが勝ち──負けたら背中流せよ」

ノームが優しい口調で「走るな。看守に怒られるぞ。」

二人はそうでしたと顔を見合わせて舌を出した。


ノームの話によると、今朝食べた食堂の近くに”洗濯場”と呼ばれる建物があり、そこでシャワーを浴びるそうだ。


洗濯場なんて不思議な名前だ、と司が首をかしげているうちに目的地に着いた。


夕方の光が壁の白を薄橙に染め、入口の開かれた鉄扉は使い込まれて鈍く光っている。


前には食堂と同じく看守と異人兵が数人、無言で立っていた。


いつものようにノームが前へ出て看守に報告を済ませる。

短い言葉が交わされ、中へ足を踏み入れると、ひんやりした通路を抜けて視界がぱっと開ける。


大広間は脱衣室になっており、頭上の灯りが白くまぶしい。

床は擦り減った板、足音が乾いて響く。


労働終わりの異人たちが列をなし、土と汗で汚れた服を順に脱いでいた。

衣擦れの音、布が落ちる音、誰かの小さな咳。壁際には見張り役の看守と異人兵が腕を組み、目だけがこちらを追う。


洗濯場には個室がない。

みんなが手早く服を脱ぎ、布が床に落ちるたび、ぺしゃりと湿った音がする。

司は肩をすくめ、耳まで熱くなる。

視線のやり場に困って足元ばかり見ていると、背後からタカギが一歩詰めてきて「男同士で何を恥ずかしがってるんだ」と声をかけた。


司がもじもじとうつむいたまま動かないでいると、焦れたタカギが脇腹をつつく。「ほら力抜け、子供じゃねぇんだから」

「ひゃっ……! や、やめてってば!」

「よし、上だけいくぞ。ノーム、反対頼む」

「ああ、すぐ終わる。我慢しろ、司」穏やかな声で言い、ノームが回り込む。

二人が息を合わせ、上着の裾をすっと抜き取る。

布が肩を離れた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。

「さ、寒い……」司が肩をすくめる。

「次、ズボンな。一気に──ほら」タカギが腰に手を入れる。

金具がかちりと鳴り、布が床で音を立てた。

ノームが短くうなずく。「上出来だ。さ、前を向け」


全裸になった瞬間、司の頬がぱっと火照り、股間の前で慌てて手が交差する。


なお、この世界に下着という文化はない。


恥ずかしさに頬が灼ける司の視線が、ふとタカギの背中に吸い寄せられる。

白銀の狼が、小刀を咥えたまま肩甲骨から腰へ堂々と彫られていた。

刻まれた毛並みに天井の光が沿って滑り、刃先だけが氷みたいに冷たく光る。


「……本物みたいだ。あの、ちょっと——触っていい?」

司はおずおずと手を伸ばす。

タカギはわざと胸を隠して腰をくねらせて、「優しくしてね」と声色を使い恥ずかしがるマネをする。


横目で見ていたノームは小さくため息をつき、無言で上着を脱いだ。

厚い胸板に黒い茂みが広がる。

「うわ、ノームのそれ……タカギの頭みたいだ」

司が指さして無邪気に笑う。


タカギも吹き出して、「おいおい、俺のキマってる髪型を、そんな小汚ねぇ胸毛と一緒にすんなよ」

わざと前髪をかき上げ、司の肩を肘でつつく。


ノームはみるみる顔を赤くして一喝した。

「誰が小汚ないだ!」

その声で、周囲の視線が一斉にこちらを向いた。

ノームは咳払いし、目を伏せて一言。

「……すまん」

司とタカギは慌てて背を丸め、口元を手で隠す。

それでも笑いがこぼれ、肩が小さく震えた。


三人が服を脱ぎ終えると、「さあ、シャワーを浴びるか」とノームはシャワー室へ続く扉を指さした。


扉は脱衣所の長い壁に沿って十枚あり、金属の縁が等間隔に鈍く光り、各扉の前には裸の男たちが一列ずつ整列している。


ノームが空きの出そうな列を見つけ、先頭に立って歩き出す。

半歩うしろに司、さらにその背後にタカギが付く。


司は脱いだ上着とズボンを股間の前にまとめて抱え、靴は片方ずつ脇に挟む。

歩くたび腕の中の衣服がずれて、司はあわてて抱え直す。


列の手前でノームが立ち止まると、司も同じ位置で足をそろえ、タカギは二人の背後にぴたりと寄った。


司が恥ずかしそうに前屈みにしていると、後ろのタカギが少し意地悪気に恐ろしいことを言ってくる。

「まだ隠してんのか? 服はそこに入れるんだぞ」

司は肩をびくりと揺らし、布の束をさらに持ち上げて前をがっちり隠した。


タカギが指さした先、扉の斜め前には、腰の高さほどの大きな木箱が置かれていた。濡れた手で触れられたのか、天板はところどころ色が濃く、黄白色の灯りを鈍く跳ね返す。

先に並んでいた男たちが、汗の匂いをまとわせた衣服を次々と放り込むたび、箱の内側で「どすん」「ぼすっ」と布の重みが鈍く沈む音がした。


この人数分の衣服を無造作に投げ入れているのに、あふれる気配がないのが不思議で、司は身をかがめて覗き込む。

中は灯りが届かず、底が見えない。

井戸の口みたいに、湿った冷気がひやりと頬に触れる。


布が一枚落ちるたび闇は波紋も立てずに飲み込み、音だけが遅れて返ってきた。

箱の口がこちらを飲み込もうと静かに待っているようで、司の背筋に細い寒気が走った。


そんな司の背後からタカギが声をかける。

「後ろ、つっかえてるぞ」

そのままタカギが手を伸ばし、司の大切に抱えていた服をひょいと奪って木箱へ放り投げる。

布は灯りの届かない闇へ音もなく吸い込まれ、かすかに「とん」と底の見えないところで遅れて聞こえてきた。


突然服を取り上げられ隠す物を失い唖然とする司の肩を、タカギの平手がぱしんと叩いた。

「悪かったよ、ほら行くぞ」

その勢いで前のめりになった司の足が床で滑り、ビタンと大きな音を立てて倒れこんだ。

黄白色の灯りが床に跳ね、周囲の男たちの視線が一斉にこちらへ刺さる。


「しまった」と顔をしかめたタカギがすぐに屈み込み、司の脇の下へ腕を差し入れて引き起こす。

前方、扉の脇に立っていたノームは右手で目元を覆いながら上を見上げ、短く息を吐いた。

今日だけでどれだけ看守に目をつけられただろうか――そんな思案がその肩の上下ににじむ。


タカギに支えられながら立ち直った司は、もういいやと羞恥心を噛み殺し、先にノームが通り抜けた扉の取っ手へ手を伸ばす。

司が扉を押し開けた瞬間、湿った白い湯気と水の匂いが顔に広がった。


――そして、司は驚愕した。



扉の向こう側には、全裸の男たちが綺麗に列を作り、少しずつ前へ歩みながら頭上の水で全身を洗っている光景が広がっていた。

石鹸の甘い匂いに、金属のわずかな鉄臭さと、温められた体の塩気が混ざっている。天井から落ちる無数の水音が重なり合い、洞窟の奥にこだまする雨のように響いた。


頭、体、足、腕――入念に擦り洗いする者もいれば、列の流れに身を任せて歩くだけの者もいる。

列の先頭では透明な湯だけが落ち、途中からは水に混じった泡が肩や背中で花のようにふくらみ、男たちの肌を白く縁取っていた。

最後尾は再び湯だけに戻り、泡が細い糸となって流れ落ちていく。


広い室内は、前後の間隔を十分に空けてもなお余るほどで、空間全体が湿った熱で満ちている。

天井にはスプリンクラーのようなシャワーヘッドが等間隔に十列分並び、そこから温水が一定のリズムで噴き出していた。

噴射口の縁には薄い湯気がまとわりつき、光を受けてぼんやり白く滲む。


床は鉄の網板で、一センチほどの穴が格子状に続いている。落ちた湯はすぐに吸い込まれ、足裏にはひやりとした金属の感触と、水が抜けていく微かな振動だけが残る。男たちはその上を少しずつ前へと進んでいる。

司はその整った流れを見て、学校の水泳の前に浴びたシャワーを思い出し、思わず口元がゆるむ。


列に続き司も歩き出す。

頭上から噴き出す温水にそっと手の甲を差し入れると、じん、と骨まで温みが走る。

肩に落ちる水は思ったより重く、こわばった筋を指でほぐすみたいに押し広げ、背中を伝うたびに息がひとつ抜けた。


司はシャワーを浴びながら全身を隈なく洗っていく。

泡は掌の動きに合わせてむくむくと盛り上がり、首筋、鎖骨のくぼみ、脇の下をなぞると、きゅ、と指先に小さな抵抗が返ってきた。

胸から腹へ、腰、腿、ふくらはぎへ――滑る泡の間に、汗の塩気と石鹸の甘さが混ざった匂いが立ちのぼる。

髪はぺたんと額に張り付き、こめかみを伝う泡が耳の縁でぷち、と弾けた。


卒業式以降の一日は、とても長く、辛く、そして妙に忙しかった。

握りしめていた鍬のせいで、手のひらの豆がふやけて白く皺になっている。

腕のだるさ、背中の鈍い痛み、胸の奥の不安――温水はそれらを少しずつ薄めて、流していってくれる。

体の内側で固まっていた何かがほどけていく気がした。


本当は、湯船にどっぷり浸かりたい。

けれど、ここにそれはない。

人前で肌を晒す恥ずかしさも、湯気と一緒に遠のいていく。

(そうだ、ここは銭湯と同じだ。だから、人前で裸になり体を洗うことは恥ずかしくない。)と司は自分に言い聞かせ、泡をさらに丁寧に伸ばした。


全身の泡を洗い流しながら歩くと、出口の扉が近づいてきた。

肩を丸めて水を受けると、白い泡が銀色の糸くずになって足元の網へ吸い込まれていく。

鉄の床がかすかに震え、流れ落ちる音が足裏から伝わる。


扉を抜けると、司はまた驚いて目を見開く。

黄白色の灯りが霧に砕け、空中で粉のように瞬いていた。

先程と同じように男達は列を作り、ゆっくり前へ歩く。

裸足が金属の床をぺた、ぺたと叩き、そのたびに薄い振動が足裏に返る。

どこからともなく低い唸りが続き、風が部屋じゅうを巡っている。


作りはシャワー室と同じだが、天井から落ちてくるのは湯ではない。

等間隔に並んだ丸い吹き出し口が口を開け、ごう、と温風を吐き出す。

風に巻き上げられた白い霧が斜めに流れ、灯りを受けて銀砂の帯になった。

温められた鉄と石鹸の甘い匂いが混ざり、喉の奥がほんの少し乾く。


ここは”乾燥室”と呼ばれている。

頭上からの強い風に、男達の濡れた髪が大きくなびく。

肩に残った水滴は細かな粒に砕け、針のように散って後ろへ飛ぶのが見えた。

腕を上げれば、風が肘の内側をなでて鳥肌を平らにしていく。


水を真下へ押し落とすほどの勢いで、体感はまさに巨大なドライヤーだ。


司は二つの部屋の流れで車の洗車機を思い出し、(これは“人間用洗車機”だ)と楽しい気分になった。

温風はぶお、と低く唸りながら肌の上を走り、産毛を逆立てて水滴を一粒ずつ剥がしていく。


風を受けて立つだけで、体の表面が一枚軽くなる。肩から肘、腰、ふくらはぎへと順に乾き、足元の網に水がぱらぱら落ちていく音がした。

思ったより風は強くなく、包むような温かさで、むしろ気持ちいい。(そうだ、あの時の——)以前、叔父のオープンカーに乗ったとき、前からの風が頬をやわらかく撫でた感覚に似ている、と司は目を細めた。


やがて温気の層が薄くなり、扉の先からひやりとした空気が流れ込んでくる。

乾いた肌に冷気が薄い布みたいに張りついた。

出口に向かうと先に出たノームが待っていた。

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