第1話(5) 運命のめぐり合わせ

異人達が一列に並び、看守の号令に合わせて鍬を上げて、降ろすという行為を一切の乱れがなく行なっていた。


土の匂いがむっと立ちのぼり、鍬の金属が乾いた空気を切るたび、同じ音が規則正しく畑に沈む。

薄い靄の向こうで、看守の革靴が小さく砂利を噛み、その足音までもが拍に数えられているかのようだ。


この列に混ざりノームとタカギも同じく号令に合わせて鍬を上下させている。


遠くでは司が老人看守に見張られながら鍬を上げ下げさせようとしている。

司の肘は途中で止まり、肩だけが空回りしている。

たまにしか司の様子を見ていないが、一度も鍬を上げた所を見ることはなかった。

風が吹くたび、彼の前髪が額に張り付き、まだ体に馴染んでいない労働の重さがそのまま顔色に出ている。


「なあ、あいつ大丈夫か?」タカギは鍬を振り下ろしながらノームに聞こえるように小声で話しかけた。

声は軽く装っているが、刃先が土を噛む角度がわずかに甘くなる。

司の方へ勝手に足が向きそうになるのを、列の規律が引き止めている。


「司か?わからん。」ノームも小声で鍬を下げながら返答する。

視線だけで距離と看守の機嫌を測り、呼吸を整える。

助け舟を出せる間合いではない――そう理解しているからこそ、胸の奥がじりじりと焼けた。


もう一度司を見てみると看守に鍬を取られ、正座で説教されて泣きながら聞いていた所だった。

老人看守の叱声は低く長く、刃物で木を削るみたいに粘りつく。


「悟みたいにならないか?」

タカギの質問にノームは何も答えられなかった。

喉まで出かかった言葉が土埃で詰まり、代わりに鍬を握る手だけが強張る。


司がこの世界に来てノーム達に出会う一ヶ月前に76号組には別の男性がノーム達と一緒にいた。


彼の名前は今泉 悟 高校2年生だが1年の夏休み以降学校に登校していない。


彼は根っからの人見知りで誰とも話せずにクラスでは一人で本を読んでいた。

昼の教室は窓から差す白い光が机の木目を浮かび上がらせ、ページをめくる紙の音と、遠くで鳴る体育館の笛だけが時々混じる。

悟は表紙の角を指でいじりながら、ページの内容よりも視線を感じることの方に神経を削られていた。

そんな彼に数名のクラスメイトの男子達が悟に執拗に接してきた。


彼らは決していじめているつもりはなかった。

むしろ、悟に対して好意的に接していた。

昼休み、弁当の匂いが漂う机の島に椅子を引きずって近づき、「一緒に食おうぜ」と笑う声は明るい。

悟が返事に詰まると、「じゃあさ、これ好き?」と話題を手渡すみたいに言葉を置いていく。


好きなテレビは?アイドルは?どんな子が好み?など他愛のない会話から始まり、もっとこう話した方がいい、髪型はこっちの方が似合う、服のセンスがだめだなど、鏡代わりにスマホの画面を向けられ、肩に手を回されて前髪をいじられる。

放課後には強引に悟を連れまわし、カラオケやゲーセンなど高校生男子が遊びに行く場所へたくさん連れて行ってくれた。

ネオンの瞬き、タバコの残り香、マイクに残る甘い消毒液の匂い。

ボタンを叩く電子音の洪水の中で、悟は笑顔を作るたび、頬の筋肉だけが疲れていくのを感じた。


人付き合いが苦手で、人見知りの悟はそんな親切がとても辛くストレスを感じていた。

胸の奥で細い糸がきしむように、返す言葉を探す時間がどんどん長くなる。


彼らに悪気はない、むしろ優しくしてくれて嬉しいはずなのに、期待に、好意に素直に受け止めることができない自分の弱い心が、彼らに対して鬱陶しいという感情を持つようになっていた。

笑い声が近づくたび、胃が痛みだす。

帰り道、電柱の影を踏みながら「ありがとう」と言えなかった自分自身が情けなくなってくる。


ある日の教室で大声で「もういいかんげんにしてくれ! ほっといてよ!」と怒鳴ってしまった。

蛍光灯の白い光が黒板の粉を照らし、静まり返った教室に自分の声だけが鋭く残った。椅子の脚が一つ、きい、と鳴り、悟は言い切った直後に舌の根が凍るような後悔を覚えた。


悟が気がついた時にはすでに遅く、男子生徒達は目を丸くした後に悪かったと一言謝り、それ以降は悟に近づこうとはしなかった。

帰りのホームルーム、彼らの笑い声は遠巻きに輪を作り、悟の机の周りだけ空気が薄い。

謝らせたのは自分だ、なのに「ごめんなさい」の一言も出てこなかった。


益々自分が嫌になり、次第に欠席が増えていき夏休みが明けてもなお登校をしないでいた。


初めは両親、特に父親が悟を登校させようと躍起になっていたが、部屋から出てこない息子に対して次第に諦めていった。

ドア越しのノックは毎朝きっちり同じ時刻に続いたが、やがて回数が減り、次第に親子の会話がなくなっていった。


登校拒否をしてから気がつけば半年以上経ち、3月が終わろうとしている。

今だに不登校を続けている悟にはたった一つの楽しみがあった。


それはアニメだ。


4月から大好きなアニメのシーズン3が始まる。

主人公の高校生男子が異世界に転生して、複数人の年齢様々な美少女達と特殊な力や魔法などを駆使して冒険をして世界を救うという異世界物にハマっていた。


自分もいつか異世界へ行き人生を謳歌したいと日々妄想をして、現実から目を逸らすように深夜アニメをリアルタイムで視聴していた。


その後、今回の放送内容をネット掲示板で他人の感想に賛同したり、些細な矛盾を拾って批判していた。

肯定されると息が軽くなり、反論が刺さると顔を真っ赤にして反論する。

そうして朝日が昇る頃にやっと目を閉じる。


ある日いつものように朝日が昇る前に目を閉じ、スマホの青白い残光がまぶたの裏から薄れていくのを感じながら、しばらくするとウトウトと夢の世界へ誘われていった。


草花の匂いがしてきた。


畳でも洗剤でもない、生きた葉の青さと土の湿り気が鼻先をくすぐる。

あまりにも現実的な匂いに脳が反応して、悟は反射的に瞬きをした。

目を覚ますとそこは草原であった。


一面緑色の草原はまるで波のように風に吹かれてなびいている。

風は頬を撫で、遠くで虫の羽音が細く震えている。

空は高く、雲はゆっくり形を変え、どこにも見慣れた電柱がない。


悟は上体を起こし、手のひらで草をつまんだ。

冷たく、ぬれている。「……え?」声は喉に引っかかり、心臓だけが速く打った。

アニメの見過ぎだ、これは夢だ、と言い聞かせるほど、足の裏に伝わる地面の固さが否定してくる。


そんな異常な風景に呆気に取られていると三人組の男達が現れ、影がすっと覆いかぶさる。

悟が立ち上がる前に、彼らは腕を取り、問いかけより先に体を起こさせた。


悟は慌てて「あ、あの、ここどこですか?」と質問するが、男達は無言のまま悟をどこかへ連れていく。

彼らは異人兵だった。


異人兵達は牛や馬などを放し飼いにしている広大な牧場に新たな異人が倒れていると通報を受けて悟を探しにきたのだ。

悟はそのまま監督官の前に引きずられて、76号組の部屋へ放り込まれた。


ノーム達から異世界の話を聞き、先程の恐怖を忘れて悟は大興奮した。

壁に反響する声は自分でも制御できない。

目は爛々と輝き、指先は震え、狭い部屋の空気が熱を帯びた気がした。

あまりにも大声で叫ぶものだから看守が飛んで来て怒鳴られるほどに。


しかし、悟の念願の夢は悪夢へと変わっていった。

配られたのは剣でも魔法でもなく、農具。

ハーレムどころか屈強な男しかいない。

汗と土と鉄の匂い、湿った縄の擦れる音。

毎日肉体労働で奴隷生活を強いられ、手のひらの皮は一週間もせず剝け、夜になると指が勝手に痙攣した。

二度と元の世界に帰ることができない――その言葉だけが、暗がりで何度も頭に浮かんでは重く沈んだ。


悟は次第に元気がなくなっていくのを見てノーム達は話しかけて元気をつけようとするが、逆効果だった。

「無理はするな」「今日はよくやった」と二人は優しく話しかける。


しかし、ノーム達は知らなかった。

悟がクラスメイトの善意に対して唾を吐いたことを、

そのことを悟がどれほど後悔して悔やんでいたことを。


悟にはノーム達の優しさがとても辛かった。

あのクラスメイト達の優しさを思い出し、

自分の惨めさを思い出させられたことを。


この世界に来てから1週間が経ち、悟は食堂から逃げ出した。


今日の労働が終わり食堂にて食事をしていたとき、悟はトイレに行きたいと席をたった。

悟の椅子が床を引っかく高い音を残し、彼は肩をすぼめて人の間を抜けていった。振り返りもしない横顔は、どこか遠くを見ているようで、ノームは嫌な予感を覚え、箸を止めた。


予感は的中した。

悟は戻らなかった。


ノームとタカギは騒ぎにならないように二人で手分けをして探した。

タカギは便所と配膳口の裏側、食堂内部の従業員通路を駆け足でのぞく。

ノームは三人揃わないと食堂の外に出ることは許されていないので、出入り口の手前までを見回り、当番の看守に笑顔を作って世間話のふりで所在を探る。

胸の奥は落ち着かないまま、表だけを静かに保ちながら。


だが、就寝時間が迫ってきた。

ノームの心の中で「間に合わなかった」という言葉が形をもちはじめる。

タカギは歯噛みして拳を握りしめ、「もう一周だけ」と言いかけたが、ノームは小さく首を振った。


二人は仕方がなく看守に相談をした。

なぜ、もっと早く相談しないのかと怒られたが、今日は部屋に戻るようにと指示されたので、二人はそれに従い部屋に戻り就寝した。

戻る途中、薄暗い廊下の空気がやけに冷たかった。

部屋に入ると悟の寝具だけがきれいに畳まれたまま残っている。

タカギはその前で立ち尽くし、ノームは小さく「明日、もう一度探そう」とだけ言って眠りについた。


翌朝、起床アラームが鳴り目を覚ますと看守がドアを開けて入ってきた。

靴音が二歩、三歩。短い沈黙のあと、乾いた声で看守が話した。


「悟は事故で死亡した。」


それだけ伝えると看守は出ていった。

扉が閉まる音がやけに大きく響いた。

タカギは反射的にドアまで踏み出し、何かを言おうとして思いとどまる。

ノームは目を伏せ、拳をゆっくり開く。(事故、か)胸の奥でその言葉だけが、石のように重く沈んだ。


のちに風の噂で聞いた話だが、

悟は他の組に紛れて食堂から一人で出て脱走を企てた。

食堂から出ようとする列が動き出す一瞬――悟は肩をすぼめ、顔を伏せ、他の組に紛れようとしたのだ。


たしかに、日没で周りは暗くなり見つかりにくいかもしれない。

しかし、食堂から出る時は組長が出入り口の看守に組全員が集まっていることを報告する義務があり、知らない異人が組に混じっていればすぐにバレてしまう。


悟が看守の隙をつき扉を抜けようとしたその時、横合いから荒い声が肩を掴み制止した。「おい、そこで止まれ」


1週間もここで生活をしていてなぜ悟はこんな簡単なことすら気が付かなかったのか。

ここ数日の夜、布団の上で天井を見つめるたびにずっと考えていたこと、ここを抜け出したい。

あのいつもの部屋でゴロゴロしてアニメを見たい。

ここを出れば念願のハーレムや冒険が待っているのではないだろうか。

思考は破れた紙のようにちぎれ、都合のいい言葉だけが強く彼を引きつけた。


彼はそれほど苦しんで悩んでいた。

もはや彼にはまともな考えはなかった。


腕を後ろで縛られ、石畳に引きずられるたび、足首へ鈍い痛みが走る。視界の端で、別の組の背中が遠ざかる。誰も振り返らない。


そして異人兵によって、監督官の前に突き出された。

部屋は冷たく乾いており、壁に掛けられた道具の影が長い。

監督官の靴音が近づくたび、悟は歯をがたがたと鳴らし、言葉にならない音だけが漏れた。(帰りたい)(ごめんなさい)(助けて)――どれも形にならず、空気の中で消えた。


事故死と看守は言っているが、それはあり得ない。


監督官の拷問の末、悟は息たえたのだ。


悟が捕まったとき、ノームたちにすぐ知らせが届かなかったのは、彼が最後まで自分の組番号を口にしなかったからだ。

何度も暴行を受けながらも、悟は「76組」という言葉だけは決して漏らさなかった。

それを告げれば、ノームたちに迷惑がかかると知っていたからだ。

おそらくそれは、彼なりの感謝と謝罪の表れでもあったのだろう。


この世界は決して優しくない。

悟だけではない。これまでも、この生活に馴染めず、同じ末路を辿った者がいた。

自ら命を絶った者もいれば、戦場で死んだ者もいる。


弱ければ生き残れない。ただそれだけのことだ。

夢など、最初から存在しない。


遠くで司が泣きながら鍬を振っている。


「なんだその屁っ放り腰は! もっと力を入れろ」――老人看守の怒鳴り声が風に乗って、ここまで聞こえてくる。


ノームは司の姿をしばし凝視していたが、気づけば悟の姿がかぶったように見えた。


しばらく考え込み、ノームは手の汗をズボンにこすりつけるようにしてから言った。

「司なら大丈夫だ。あの子は根が優しいが、いざって時には踏ん張れる――強い子だ。」


ノームの言葉にはなんの根拠はない。

しかしタカギはノームを信じている。

横目で司を見ながら、不安を追い払うようにニヤつく。

長年この世界にいて組長を務めているノームはタカギとは違い多くの若者を見ているのだろうと考えて、胸のざわめきを笑いで覆い隠す。


「そうだな、あいつなら大丈夫か」

タカギはニヤリと歯を見せて笑った。その笑みは、ノームを安心させるためでもあり、自分自身に言い聞かせるためでもあった。



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