第1話(4) 運命のめぐり合わせ
八角形の食堂を中心に、いくつもの建物が輪のように取り巻いている。
そこは異人たちの居住地――異人棟と呼ばれ、この一帯はまとめて居住区と呼ばれている。
棟の外壁は古い木板の継ぎ当てで、色の抜けた灰褐色に松脂の黒がにじんでいる。
要所は太い木杭で内側から押さえられ、乾いた木の匂いに、油と土の匂いが混ざって鼻をくすぐる。
雨樋代わりの竹が斜めに渡され、節の合間から雫がぽとり、ぽとりと溝へ落ちるたび、小さな輪が広がっている。
通りには踏み固められた土の道と浅い溝が並び、撒かれた砂利が部屋を出るときに渡された革製の靴底の下でじゃり、と短く鳴る。
陽はまだ低く、斜めの光が舞い上がった塵を金色に浮かび上がらせ、空気はひんやりとしているのに、地面からだけは昨夜の熱がじわりと返ってきた。
司たちは建物を出て、先ほど食事をした八角形の食堂の外縁を半周し、さらに足を進めた。
先頭はノーム、半歩うしろに司、その後ろをタカギが肩を揺らしながらついていく。斜めの朝日が三人の影を細長く伸ばし、踏み固められた土道の砂粒がかすかに白く光っている。
やがて、道の両端に低い屋根の小屋が二つ、向かい合うように現れた。
小屋は駐屯所だ。
戸口は半開きで、内側に油と革の匂いがこもっている。
その奥に、三メートルの板塀が帯のように続いていた。
分厚い板が横にわたり、間を噛む丸太の節が黒く沈む。
打ち込まれた楔の頭には鉄の鈍い光。
塀の向こうから、見えない風が木の皮を撫で、低くこすれる音が返ってくる。
居住区の内側では、異人兵が巡回している。
緑の上衣、黒い革帯、腰には短い角笛。
三人一組で歩幅はぴたりとそろい、視線は塀と道の先を交互に掃く。
靴底が土を押すたび、ざり、と同じ音が三拍子で刻まれた。
これらは脱走を防ぐための囲いだ。
塀は高く、門は厚く、見張り台から道は一望できる。
司は歩きながら、冷たいものが胸の奥をすっと撫でていくのを覚えた。
喉に乾いた土の匂い、舌にほんの少し鉄の味がした。
板堀を抜けると、二階、三階の木造家屋が道沿いに肩を並べていた。
戸の隙間から白い蒸気が吐き出され、朝日を受けて粉じんが金色に舞う。
すでに作業中なのか、屋内からノコギリが木を挽く甲高い音、木槌の重い拍、鉄を叩く乾いた響き、掛け声の合間にふいごがゴウ、と息を吐く音――それらが層になって通りを満たしている。
軒先には木屑が薄くこぼれ、樹脂と油、熱い鉄の匂いが鼻を刺した。
戸口ごとに「製材」「革打」「釘場」の焼き印札がぶら下がり、梁の間を黒い軸と滑車が走る。
動力は川べりの水車と大きな送風箱で賄われ、湿った風と温い気配が交互に肌を撫でていく。
この一帯は工場地帯だ。
居住区で回収された破損品はここで解かれ、金具は釘場へ、布は繕い場へ、木材は製材所へ運ばれて再利用されている。
作業台の下では鋲の入った桶が鈍く光り、革打ち場からは膠の匂い、釘場の炉からは鉄と煤の熱がじわりと漏れている。
通りの温度は場所ごとに違い、日陰に立つと川風がひやり、次の軒先では熱気が頬に張りついた。
さらに先には農業地帯と採掘所へつながる荷道があり、荷を飲み込む大きな木造倉庫が並ぶ。
戸板には「冷」「乾」の印、内側には風路と火室が走り、吐き出し口からは冷えた空気が薄く洩れていた。
朝と夕に荷は集まり、番号札どおりに積み替えられて各区画へ戻っていく。
司たちの目的地は、さらにその先の農業地帯だ。
居住区、工業地帯、農業地帯――それらをまとめて異人街と呼ばれている。
およそ千人の異人が組ごとに役割を割り当てられ、日が落ちれば仕事を終えて、同じ道筋を逆にたどって居住区へと帰っていく。
前を歩くノームが首だけ動かして、「ここからは、馬車で移動する。」と小声で教えてくれた。
馬車は工業地帯―農業地帯をぐるりと回る循環路を巡回しており、常に走り回っている。
乗り場は目的地ごとに割り当てがあり、乗車は組長の申告と看守の確認で許可が出る仕組みだ。
道は砂利と土で、歩けば往復に半日かかる区画もあるため、馬車移動が原則になっている。
側道には一定間隔で詰所が置かれ、異人兵が巡回して逃走と混雑を抑えていた。
居住区の部屋以外は会話が禁止されているが、組員への指示のために、組長だけは発言を許されてはいる。
しかし、小声での会話で多少であれば雑談を黙認されている。
居住区からここまで歩いて30分ほどではあるが、
司は背を丸め、肩で息をしながら「た、助かった……足、もう無理……」とかすれ声でこぼした。
額には薄い汗、頬は上気して、吐く息が熱い。
顔は険しく、呼吸は荒い。
司は絵に描いたような運動音痴ではあるが、毎日の通学は30分はあるのでこれぐらいは慣れっこのはずだ。
だった。
だがここは違う。
舗装の代わりにごつごつした土、足首をすくう急な勾配、背丈ほどの茂みが風を遮ってぬるい空気が肌にまとわりつく。
薄曇りの白い光が土埃を浮かせ、鼻先には干し草と獣舎の甘い匂い。
更に、時おり遠くから監視の目がこちらを凝視して精神的に疲れる。
タカギが背後でゲラゲラ笑った。
「バカ、これからが本番だぞ。今からバテてどーすんだよ」
ノームがちらと司を見て、声を落とす。
「まあ、初めて歩く場所だからペース配分が難しかろう。だが、タカギのいう通りここからが本番だ。」
司は帰りたいという顔をしたが、タカギが子どもみたいな笑みで肩をがっしりと掴み、ずるずると前へ引っ張っていく。
馬車寄せに着くと、すでに十台ほどの幌馬車が鼻息を白くして並んでいた。
灰色の朝の光が幌布の継ぎ目を淡く透かし、鉄の轅金具がかちり、かちりと小さく鳴っている。
馬は汗で首筋が濡れ、藁と獣脂の匂いが土の匂いに重なってむっと立ちこめた。
荷台が満員になるたびに荷台がぐっと沈み、すぐさま軋みを残して発進する。
空いたスペースへ次の一台が前に詰め、列の後方から人が波のように吸い込まれていく。
目的地で人を降ろし、荷が空になればまたここへ戻る――その往復が、朝の空気に規則正しい車輪の響きを刻んでいた。
「その小さな荷台に十人は座る。狭いから覚悟しておけ」とノームは警告するが、司は「そうなんだ」と軽く聞き流したが、すぐにその理由を知ることになる。
割り振りを決めるのは看守で、乗り場は組ごとに分けられている。
月一の組長会議で乗り場と労働内容が伝えられる。
幌の縁には太い筆の黒で大きな番号が書かれており、御者台の脇にも同じ番号の木札がぶら下がっている。
番号は往復経路と作業場所を示し、間違えれば看守に怒鳴られる。
馬車待ちの列に並んでいると、空の幌馬車が乗り場に着くたび、列が少しずつ前へ進んでいく。
数分後、ついに乗車目前まで来たが、運悪く定員オーバー。
次の馬車を待つことになり、司はその先頭へ回された。
そして次の馬車が来ると、後方の踏み板に真っ先に足をかけ、体をぐっと引き上げる。
ぎし、と荷台が沈んだ。
踏み入れた瞬間、むわっと熱気が顔にまとわりつく。
幌は前後が開いているのに熱が籠っている。
汗と革と藁、古い油の混じった匂い――真夏の更衣室みたいな匂いがした。
薄暗い幌の内側では、縫い目の隙から差す灰白の筋が、舞い上がる埃を銀粉のように浮かび上がらせ、車体が揺れるたびにふるえた。
荷台には座席は見当たらない。
狭い箱に皆で肩を寄せ、床にじかに座り込む。
床の木板は年季でぬめり、板口はささくれて靴底に引っかかる。
斜めに白く擦れた筋が幾本も走り、踏むたびにぎし、ぎし、と低い音が腹に響いた。
壁には細かな傷が無数に刻まれ、数取りの横線が幾重にも重なる。
一番乗りの司がまん中へ腰を落としかけた時、幌越しに酒焼けのがらついた声が裂いた。「真ん中、邪魔だ。端に寄れ」――空気がびりりと震え、司は条件反射で背筋を伸ばして「はい!」と返事した。
御者である看守の顔は年月の跡がはっきり出ている。
角刈りの間からは白髪が見え、浅黒い肌には深い皺。
眉間は常に寄り、縄のように固い右手が手綱を握っていた。
結び目は幾度も結び直されたのか毛羽立ち、革の長靴は泥をはじいて鈍く光る。
腰の警棒が膝に当たるたび、乾いた小さな音が幌の内側に跳ねた。
「ご、ごめんなさい」――声は砂粒みたいに小さい。
司は壁づたいに身をずらし、御者台側の奥へ潜り込む。
壁板がぎし、と背中で鳴る。
すぐ右隣にノームが膝を寄せて腰を下ろし、出入口寄りにはタカギが片足を引いた姿勢で構えた。
三人の肩が順に触れ、熱が肌に移る。
「暑いだろ? だが、馬車が動き出せば風が通り抜けて涼しくなる。」ノームが小声で言い、司の肘をそっと持ち上げる。
「肩と膝で揺れを受けろ。ほら、ここに足をかけて」とノームは、踏ん張りやすい姿勢を教えてくれた。
司は言われた通りに踵をずらす。
三人の呼吸が重なり、荷台の暗がりで、汗の塩気と木の匂いがゆっくりと混じっていった。
10人定員の馬車に15人ほどを無理やり押し込むと、御者台の看守が手綱を小さく鳴らす。
二頭立ての首が同時にしなり、くつわ金具がしゃらりと鳴って前脚が土を掴む。
荷のように詰まった体が一斉に揺れ、馬車はぐっと腹を据えて動きだした。
加速とともに幌の口から風が流れ込み、汗ばんだ首筋をなでて抜けていく。
乾いた土の匂いに、干し草、馬の体温の甘い匂いが混じって喉を通る。
固めた道の轍に車輪がはまり、左右にこつ、こつ、と一定に揺れた。
天井の継ぎ目から射す薄い光が、舞い上がる埃を細い筋で浮かび上がらせる。
壁に打たれた縄の取っ手がきしり、軸の金属が短く鳴るたび、肩と膝で衝撃を受け止める人々の息が重なった。
司は御者側の奥、壁板に背をあずけ、右隣のノームと肩が触れ合う。
前には見知らぬ男の背中、密着した肌から熱が移り、シャツがじっとり貼り付く。風は涼しいはずなのに、ノームの体温がじわりと伝わってくる。
目を閉じると、革のこすれる音、蹄鉄が石を打つ乾いた高音、誰かの喉が鳴る小さな飲み込み――それらが幌の薄暗がりで層になって渦を巻く。涼しさと暑苦しさが交互に押し寄せ、司は息を浅くしてやり過ごした。
司達を乗せた馬車は工場地帯の外れを抜けていく。
軒先の蒸気が薄く漂い、鉄と油の匂いが幌の隙間から一度だけ流れ込み、すぐに後ろへちぎれていった。
道の両端には、先ほど見たのと同じ小屋が肩を並べ、駐屯所の前で3人組の異人兵がこちらを横目に追う。
御者が右手をひょいと上げると、異人兵達も片手を上げてそれに応じた。
手綱金具がしゃらりと鳴り、速度は落とさない。
やがて板柵をくぐると、幌の口から当たる風が一段ひんやりして、土と草の匂いがいっぺんに強くなる。
視界がぐんと開け、光が明るい平面になって押し寄せてきた。
前方には、どこまでも続く四角い田畑が畳を敷くように並び、その先を取り巻く山々が、濃い緑の層を重ねて静かに起伏している。
空は工場地帯よりも遠く、薄い雲が裂け目のように伸びて、陽が田の水面に細い銀を落とした。
畦は低く、東西に真っすぐ伸びる。
畦の脇を細い溝が走り、遠い水車が回るたび、水の筋がきらりと動く。
風車の羽根が一定の間隔で軋み、牛の短い鼻息が低く混ざっている。
馬車道は畑の間を幾筋も通り、固まった車輪跡が帯になって重なっていた。
朝の空気は静かだが無音ではない。
風に揺れる穂が擦れ、遠くで木槌が一度だけ乾いて鳴る――規則を乱さない音ばかりで、胸の内側もそれにつられてゆっくり落ち着いていく。
深く息を吸うと、干し草と土に、家畜のぬるい体温の匂いが混じって喉を抜けた。
幌馬車の先頭に座る司は、その景色に既視感を覚えた。
「同じだ。あの場所だ。」
気づけば声が出ていた。
幌の中の空気が一瞬止まり、何人もの顔が一斉に司へ向く。
耳の先が熱くなり、汗が首すじをつっと落ちた。
司は思わず膝を抱え、顔を深く伏せる。
幌布の影が自分だけ濃くなった気がして、消えてしまいたくなる。
ノームの左隣、入口側に座るタカギが身を乗り出し、「どうした、司。バカみたいにでかい声出して」と茶化してくる。
ノームは目だけ動かし、司の肩の強ばりを静かに見た。
「い、いや……なんでも、ない……です」
顔を真っ赤にして司は体育座りのまま顔を伏せる。
「すまねえな皆の衆。こいつは昨日来たばかりの新入りでまだルールを理解していないんだ」
タカギがわざとらしく大声を張る。
すぐさま御者が「うるせぇぞ! 静かにしないと叩き下ろすぞ」と怒鳴り、手綱金具がしゃらりと鳴った。
「すまんすまん。」タカギは口先だけで謝り、肩をすくめてみせる。
「どーだ司、俺の方が目立ったもう恥ずかしくねぇだろ?」
タカギが満面の笑みで話しかける。
司はますます顔を膝に沈める。
「逆効果だ。余計に目立っている」
ノームが短く指摘する。
「……まぁ、すぐ忘れられるさ」と笑いながらタカギが片目をつぶる。
たしかに余計に注目を集めたが、なんだか心が軽くなった気がして司はうれしくなった。
馬車は田園を突っ切り、軽い跳ねとともに減速して、ある田んぼの前でぴたりと止まった。
車輪が固い土を噛む最後の「ぎし」で静まり、二頭の馬が鼻を鳴らす。
「着いたぞ」と御者が言うより早く、後方の帆布がめくれて人が次々と降りる。
入口側に座っていたタカギが先に立ち上がり、先に降りていく。
奥の御者側に詰められていた司は、ノームに「降りるぞ。手を出せ」と言われ、彼の手を取り、立ち上がって荷台から恐る恐る飛び降りた。
靴底が固い土を踏み、わずかに沈み、かすかな湿りが底から伝わる。
荷台から離れると、心地よい風が汗の膜をはがすように全身を撫でた。
頬を抜ける風は少し湿っていて、川水の冷たさをかすかに含んでいる。
思いきり両手を伸ばすと、固まっていた筋肉がほぐれていくのがわかった。
視線の先では、田の向こうに細い畦道が糸のように曲がり、そのさらに先で同じ服の人影が列を作ってゆっくり動いている。
目の前に広がる田園畑は、どこまで続いているのか分からないほど広大で、思わず立ち尽くしてしまう。
若い稲の薄緑、麦の黄金色、畑の濃い黒土――帯のような色の層が水平に重なり、陽を受けて鈍く光る。ここで育つ作物は、異人、そしてこの世界の人間の皆の腹を満たすためのものだ。
米、麦、とうもろこし、きゅうり、トマト、芋、キャベツ。りんご、メロン、ブドウ、みかん。少し離れた柵の向こうには、牛や豚、鶏、山羊、羊が点々と動き、時おり短く鳴いた。
道の端を浅い水路が走り、透けるような水がさらさらと流れている。
遠くの水車が「ぎい」と規則正しく鳴るたび、冷たい水がわずかに増し、流れの音が少しだけ太くなる。水面には白い雲がゆらぎ、風が渡ると細かい波が光を砕いた。
脇の道具小屋には、使い込まれた鍬や鎌が壁に立てかけられている。
柄は汗で黒光りし、無数の手の跡が輪になって重なっていた。刃の縁は薄く光り、ところどころに土が乾いて固まっている。
司たちの今月の仕事は、田を耕すことだ。
もちろん機械はない。ここでは、土は人の腕で耕す。
エンジンの唸りも油の匂いもない代わりに、木と鉄のきしみ、土がほどける音、体温と呼吸だけが積み重なっていく。
ノームが一歩前へ出て、鍬を一本取り、司へ渡した。
タカギは小屋の戸を押さえながら、後ろから様子を見ている。
司は両手で柄の感触を確かめ、掌にざらりとした木のささくれを感じた――これで掘り起こすのだ、と胸の奥で小さく息を整えた。
司は農業経験がないのでノームから説明を受ける。
「以上が鍬の使い方になる。コツは無駄に力を入れずにゆっくり持ち上げて体の重みで土を崩すことだ。」
ノームは司の正面、半歩分だけ近づいて、長い柄をゆっくり握り替えた。肩の力を抜き、腰をわずかに落とす。
左足を半歩前、刃先を土に「そっと」置く角度――ひとつひとつを見せるように、土をえぐっては返す。
ざく、ほろり。黒い土塊が裏返り、湿った匂いがふっと立ちのぼる。
足元では小さなミミズがきらりと赤茶に光り、土の粒が陽に反射して細かく瞬いた。
「さあ、やってみろ」
そう言われた司は、両手で鍬の柄を握った。
思ったより重い。
教えられた通りに鍬を持ち上げようとするが、先に上がるのは肩だけで、肘も手首もぎこちない。
刃は土から離れなかった。
腕は細く白く、骨ばった筋が頼りなく浮いている。
情けない、と胸の中で小さくつぶやく。
ここで役に立てなかったら――不安が熱となって胸に広がる。
「司、勢いよく振り上げてみろ」
隣で見ていたタカギにアドバイスされたので、司は言われた通り目一杯振り上げてみた。
天高く鍬を引き抜く瞬間、重さが腕から肩、さらに背へとずしりと移った。
ぐらり、と視界が傾き、そのまま後ろへバタンと倒れこんだ。
空の青が円を描いて回り、背中に乾いた土の硬さが直に刺さる。
鼻先で土埃がむっと立ち、湿った匂いが喉に引っかかった。鍬の刃が畦の杭に「こん」と鈍く当たり、余韻が指先まで響く。
「おいっ」
ノームが一歩踏み出し、司の肩へ影を落とす。
「だからって全力は極端すぎだろ」
タカギが半笑いで言いながら、土を払うように司の肘を片手で引き起こした。
司は、とにかく力がなかった。
教室の掃除で机を一つ運ぶだけでも、腕が震えてふらつく。
雑巾がけなんて一往復しただけで息が上がり、手首はじんじんと熱を帯びてくる。
そのうち、クラスメイトから
「司は掃き掃除だけしてればいいよ」
なんて笑い混じりに言われるようになった。
冗談のつもりなのは分かる。
机の間に広がる笑い声に合わせて、司も「うん」と照れたように笑い、ほうきを手に取った。
小学生の頃、司は幼馴染の女の子に腕相撲で負けたことがある。
昼休みのざわめきの中、二人は机をはさんで向かい合った。
相手の彼女は右、司は左。周りにはクラスメイトが肩を寄せ合って輪をつくり、息をひそめて見守っている。
合図の前から、司の手首はもう小さく震えていた。
そして――始まった瞬間だった。
司の手はあっけなく「こん」と机に倒される。
「きゃっ!」
明るい歓声と笑い声が弾ける。
頬が一気に熱くなる。
それでも司は、照れ隠しのように笑ってみせた。
――ぼく、こういうの向いてないんだな。
力もなければ、体力もない。
そのうえ学力まで低くて、テストで0点を取ったことも何度かあった。
返ってきた答案の、赤ペンで大きく描かれた「0」を見た瞬間、
司はそっと紙をノートの下に滑り込ませ、ちらつく蛍光灯だけをぼんやり見上げた。
たった一度だけ50点を取ったときは、なぜか先生にクラス全員の前で発表され、教室がざわついた。
背中がむずむずして落ち着かず、司は照れ隠しのように窓の外の雲を数えた。
――まあ、いいか。
いつもの癖みたいにつぶやく。
立ち止まると、なんだか苦しくなる。
だから司は、いつもそうして流してきた。
地面に背をつけたまま、司は「アハハ、難しいや」と笑ってごまかした。
陽は白っぽく高く、視界の端で雲が薄く流れる。
両手のひらはじんじん痺れ、指の間に湿った黒土がねっとり貼りつく。手を開くたび、土が糸を引いて落ちた。
鍬の柄は汗でぬめり、掌の小さなささくれがひりつく。
胸の奥では心臓だけが場違いにドンドンとうるさく、呼吸は熱を帯びて喉に張りついた。
周りでは一定のリズムで「ざく、ほろり」と土を割る音が続き、そのたびに薄茶の土埃がふわりと舞い上がって頬に触れる。鼻の奥がつんとし、泥と藻の匂いがかすかにからむ。
――怒られたらどうしよう。もう帰りたい。
けれど、帰る場所なんて、もうない。
そう思った瞬間、背中の土の冷たさが骨にまで染みて、体の芯が小さく縮こまった。司は肘で土を押し、ぎこちなく上体を起こす。
どうしたものかとノームとタカギが頭を悩ませていると、畦道の向こうから看守がこちらへ歩いてきた。ザリ、ザリ――乾いた土塊を踏む音が一定の間隔で近づく。
日差しの中、司の影にもう一つ大きな影が重なる。
ノームは司の右手側へ半歩出て、庇うように身を傾けて止まる。左手側ではタカギが口の端を引き、いつもの軽口を喉の奥で飲み込んで顎を引いた。
二人とも、まず相手を見極める顔だ。
また何か注意か、と司が息を詰めたところで、
「その子に力をつけさせないと今後どの仕事にも支障が出る。半日素振りさせるんだ。」
低く柔らかな声が落ちてきた。怒鳴りではない。なのに背筋の奥でひゅっと冷たいものが走る。
男は七十を越えているだろう。日に焼けた肌は黒く、そこに細かなシミと深い皺が刻まれている。汗と油と土の匂いが風にまじってかすかに漂い、近づいただけで周囲の空気がわずかに重くなる。肩幅は広くないのに、足運びは迷いがない。
目じりは下がり、穏やかな笑み――司には優しいお爺ちゃんに見えた。
――この人なら大丈夫かも。そう思った瞬間、細い目の奥で光がきらりと鋭く跳ねた。飢えた獣のような眼光。
優しさの形をした刃に触れたみたいに、司の体がこわばる。喉がからからになり、息が浅くなる。
司の勘は正しかった。
彼は二十年以上看守を勤め、新人看守の研修まで任される大ベテランである。
ノームが「……わかりました、私が――」と口を開いた瞬間、低く穏やかな声がさらった。
「ここは私が見る。君たちは持ち場へ戻れ」
柔らかいのに、逆らえない重みがあった。
ノームは一拍ためらい、「しかし――」と絞る。看守は何も言わず、ただ目で命じる。――命令だ。従うのか、と。
短い沈黙。ノームは肩を落としてうなずき、タカギは司の左後ろから視線だけで「了解だ」と合図を送る。ふたりは司の脇を抜け、畦道を背にして歩き出した。足元で乾いた土がザリと鳴り、離れるほどに水車のきしみと用水のせせらぎが耳に戻ってくる。土の匂いは濃く、風はぬるい。
司はその背中を目で追う。遠ざかる影が田の光に細く溶けていく。看守は司の斜め左前に一歩詰め、影で陽を切る。ゆっくりとした仕草で腰をわずかにひねり、場を譲らぬ位置を確かめるように立った。
助け舟を期待していた司の瞳は、ふっと影を帯びる。遠ざかる背中を、救いを求めるように目で追う。
途中でタカギが振り返り、親指を立てた。にやり、と笑うが口角がわずかに引きつる。――大丈夫だって。そう伝えたいのだと頭ではわかるのに、置いていかれる子どもへの「平気平気」に見えて、悔しさが喉の奥でじんじんした。
ふたりの影が畝の向こうへ細くほどけると、背後から大きな気配が近づく。看守が司の右肩に手を置いた。ごつごつと節の立った掌は硬いのに体温は確かで、日焼けした皮膚と汗の塩気の匂いがふっと鼻先をかすめる。
「さあ、始めよう」
柔らかい声。だが笑っているのは口元だけだ、と司は思った。逃げ道はない――そう悟った瞬間、足裏が土に沈むほど重くなり、遠くで風車の羽がひとつ、軋んだ。
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