第1話(3) 運命のめぐり合わせ
「ここからは会話は禁止だ」
ノームが人差し指を口元に当て、静かにするよう促す。
その声音には、場の決まりごとを守らせる程度の穏やかな響きがあった。
司は小さくうなずきながらも、少しだけ胸の奥が落ち着かないが、ノームの背中からは妙な安心感が伝わってきた。
司はその大きな背を追いながら、自分も自然と声を潜めて歩き出した。
廊下に出た瞬間、司はこの建物が完全な木造であることに気づいた。
人が横に五人ほど並んで歩ける幅の廊下。
部屋と同じガラスの窓が等間隔に並ぶ壁、節目の見える天井のすべてが木でできている。
古びてはいるが、しっかりと手入れされており、歩くたびに床板がかすかに軋む。
その音は、ただの生活音でありながら、妙に耳に残る。
司の頭に、中学校の離れにあった旧校舎の匂いと手触りがよみがえった。
ほこりと木の香りが混じった空気があった。
目の前を通り過ぎるのは、同じ“異人”たち。
老人もいれば、司より背の低い小学生ほどの少年もいる。
全員が同じ茶色の布服を着て、無言で同じ方向へと歩いていた。
その表情には、生気の薄い者もいれば、ただ眠そうにしているだけの者もいる。
司は、彼らと目を合わせるべきか迷い、結局うつむいたまま歩を進めた。
やがて一行は建物の外へ出る。
ふわりと頬を撫でる風と共に、澄んだ朝の空気が体を包み込んだ。
太陽の光が司の顔を温かく照らす。
空はほんのり赤みを帯び、雲は少なく高く、どこまでも広がっている。
吸い込む息には森林のような清々しい香りが混じり、まるで神社の境内にいるような落ち着きが胸に広がった。
空気は秋から冬へ移ろうとする頃のように冷たいが、歩けば心地よい。
司は思わず肩の力を抜きそうになったが、すぐに背筋を伸ばした。
まだ、ここがどういう場所か理解できていない。
油断は禁物だ。そう心にとどめて二人の後に続き歩き出す。
視界の先には、広大な敷地と、その向こうにうっすらと連なる巨大な山脈が見える。
周囲には、先ほど出てきたのと同じ造りの木造の建物がいくつも並び、そこからも同じ服の異人たちが列を作って出てきていた。
そして、その群れが一斉に目指すのは、一階建ての巨大な八角形の木造建築。
田舎の祖母の家の近くで見た砂利道のような感触が、靴底越しにじりじりと伝わり、司はその建物へと進んでいく。
歩みを進めながら、司は人々の背中をぼんやりと眺めた。
誰も声を上げず、ただ同じ方向へと歩き続ける様子は、まるで見えない糸に操られているようだ。
その中に自分も混ざっていることが、じわじわと現実味を増し、胸の奥に小さな圧迫感を生む。
道幅は廊下よりも広く、両脇を木柵が囲んでいる。
柵の向こうに緑色の服を着た男たちが三人並んで歩いていた。
右手には木製の警棒を携え、目を光らせて周囲を見回している。
すれ違いざま、タカギが耳元で低く囁いた。
「あいつらが異人兵だ」
異人兵は三人一組で行動し、この施設を巡回する。
異人の監視や規律の維持、新たに現れた異人の捕縛が彼らの役目だ。
その言葉を聞いた途端、司の背筋にぞわりと冷たいものが走った。
視線を合わせれば、その瞬間に何かを見抜かれるような気がして、反射的に目を伏せる。
靴底が砂利を踏む音さえ、異人兵の耳に届いてしまうのではないか――そんな錯覚に足取りがぎこちなくなった。
目的地である食堂は、切妻屋根を八方向から寄せたような、奇妙な形の一階建てだった。
太い梁が交差する屋根が低く広がり、上から見れば八角形を描いているだろう。
外壁は日に焼けた木板が幾重にも組まれ、節や割れ目が時間の経過を物語っている。
屋根の端には朝露がきらりと光り、かすかな風に揺れて落ちていく。
入り口は一か所だけで、その前には列ができていた。
列に並ぶ人々は皆、茶色の布服を着ている。
足元の砂利が踏みしめられる音だけが、重苦しい静けさの中で規則的に響いていた。
近づくにつれて、湯気とともに漂ってくる香りが鼻をくすぐった。
塩気と油の混じった、胃袋を直接揺さぶるような匂い。
司は思わず鼻をひくひくさせ、匂いの正体を探ろうと身を乗り出した。
朝の冷たい空気で縮こまっていた体に、その香りはじわじわと熱を通すように広がり、理性よりも先に空腹が顔を出す。
すると、横のノームたちが「何してるんだ?」という目でこちらを見てくる。
その視線に気づいた瞬間、胸の奥で小さな羞恥心が弾けた。
無意識に子どものような反応をしていたことに気づき、司は頬を赤らめ、慌てて視線を落とした。
入り口の前には、異人兵が三人、看守が三人が立っていた。
全員が木製の警棒を腰に下げ、看守が受付をしているようであった。
異人兵の一人は腕を組んだまま視線だけを流し、もう一人は何かを思い出したように腰の警棒を軽く直した。
司は、その仕草が相手も自分と同じ人間だと理解して、少し安心して肩の力を抜く。
ノームが一歩前に出て、胸を張ったまま看守を見据える。
「七六組、三人、全員いる」
声は低く、揺るぎなく、余計な言葉は一つもない。
看守の一人は手元の紙を指先で軽くなぞり、特に表情も変えずにうなずくと、手で中へ入るよう合図した。
司は小さく息を吐き、列の動きに合わせて足を前へ運んだ。
異人は三人一組で行動することが義務づけられている。
組長がすべてのやり取りを担い、残りの二人は黙って従わなければならない。
これは単なる形式ではなく、反抗心や逃亡の芽を摘み取るための仕組みだ。
三人のうち一人でも異常な行動をすれば、残りの二人が“証人”として機能し、その日のうちに処分が下される。
お互いを監視させ、同時に疑心暗鬼を植え付ける――この施設の秩序は、そうした細工の上に成り立っていた。
組長の指示を無視したり、逆らったりすれば、その場で看守に報告が行き、
“監督官”のもとへ連れていかれる。
監督官は異人に対して異常なほどの憎しみを抱く存在であり、
その執務室は厚い扉と窓のない壁に閉ざされ、中の様子を知る者はいない。
そこから先に待つ“お仕置き”の詳細を語る者はいない。
ただ一つ確かなのは――戻ってきた者は、例外なく従順で物静かになっていることだ。
中には、二度と戻らない者もいるという。
異人の中にも明確な階級がある。
看守、異人兵、そして“その他”。
司たちは最後の“その他”、つまり有象無象の消耗品だ。
彼らには権限も発言権もなく、ただ割り当てられた作業と生活を淡々とこなすことしか許されない。
建物に足を踏み入れると、漂っていた香りが一層濃くなり、はっきりと正体がわかった。
白米、味噌汁、焼き魚だ。
理解した瞬間、司の口の中に唾が溢れ出す。
鼻腔を満たす湯気と匂いが、実家の朝食や休日の昼下がりを一気に呼び覚まし、
心の奥で固く閉ざしていた空腹と郷愁を同時に叩き起こす。
天井の低い廊下は、三人が横に並べば肩が触れそうな狭さだ。
圧迫感と、周囲から響く靴音や衣擦れの音だけが耳に残り、司は自然と息を浅くしていた。
やがて大きな扉を抜け、目の前に広大な空間が開けた。
その瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が少し緩む。
閉じられた空間から解き放たれた安堵と、目に飛び込む光景への驚きが同時に押し寄せてきた。
八角形の中心は吹き抜けになっており、天井の窓から差し込む光が空間全体を明るく照らしている。
高く広がる天井の青が、まるで外の空を切り取ってはめ込んだようだった。
思わず見上げた司の胸に、解放感とわくわく感が広がっていく。
食堂スペースには、六人掛けの縦長の木製テーブルが等間隔に並び、
背もたれのない丸椅子がきっちりと六脚ずつ添えられている。
すでに半数以上の異人たちが席について食事をしていたが、
誰一人として口を開かず、ただ黙々と箸を動かしていた。
この食堂は、この土地に収容されている約千人の異人が一度に入れるほどの広さを誇る、
唯一の“楽しみの場”でもある。
巨大なコンサートホールの様な規模を感じながら、
司はノームたちの後を追い、右手側の配膳カウンターへ向かう。
広々とした空間と漂う温かな匂いが、お腹の空腹感を思い出させる。
カウンター前には長い列ができており、順に進みながらトレーを手渡される。
前へ進むたび、香りが濃くなり、胃の奥が期待にきゅっと収縮する。
司の順番が回ってくると、匂いで予想していた通りの朝食は白米、味噌汁、焼き魚、そしてコップ一杯の水が次々と載せられていった。
カウンターの奥では、調理担当の異人たちが汗だくになって鍋や網の前を行き来している。
その中にも看守や異人兵の姿があり、忙しげに働く者たちを鋭い目で見張っていた。
その光景には張りつめた緊張があるはずなのに、漂う湯気と食欲をそそる香りが、どこか柔らかな膜のように場を包み込んでいた。
司は、背後から押し寄せる人の気配や、木造の壁に反響する小さな物音さえも、不思議と耳に心地よく感じる。
ふと司の頭に、「あれだけ汗かいて……これ、衛生的に平気なのかな?」という疑問が、ひょいと顔を出す。
鼻の奥がむずむずしかけたが、その前に漂う香りにお腹がぐうっと鳴り、苦笑しそうになる。
――まあ、今さら気にしても仕方ないか。
司は小さく息を吐き、気持ちを切り替えるように前を向き、黙って列を進めた。
空いている机に、右端から順にノーム、タカギ、そして司が腰を下ろす。
椅子の脚が床板をこする乾いた音が、静まり返った食堂に小さく響いた。
テーブルの向かい側には、すでに別の三人組が座り、無言で箸を動かしていた。
司の正面にいるのは、どこか遠くを見つめ、焦点の合わない目をした髭面の男だ。
首には赤い革製の首輪が巻かれ、その上に「300」と黒い数字が大きく記されている。
男の手元では、箸が一定のリズムで皿と口を往復し、その音が妙に規則正しく耳に残った。
その男の左隣には、ノームに負けず劣らぬ体格を持つスキンヘッドの男。
さらにその隣には、白髪を小さなお団子に結った背の低い男性が、淡々と食事を口に運んでいる。
三人の間には一言も交わされず、ただ湯気と食器の触れ合う音だけが漂っていた。
この席順には決まりがある。
組長は必ずテーブルの一番右端に座る。
つまり、司の正面にいる髭面の男が、その組の組長というわけだ。
理由は二つある。
ひとつは、長く組長を務める者同士が顔見知りになり、組同士で何かを企てることを防ぐため、必ず対面に座らせること。
もうひとつは、看守や異人兵が誰が組長なのかを一目で見分けられるようにするためだ。
この配置は、食事の場でさえ管理の手を緩めないための仕組みだった。
組長同士の視線が交わるのも、互いを牽制させる意図があるのだろう。
司は改めて目の前の朝食を見つめ、少し不満げだった。
これまでの朝は、母が用意してくれた食パンにジャム、目玉焼きとウィンナー、デザートまで付くのが当たり前だった。
だが今あるのは、ご飯、味噌汁、焼き魚だけだ。
この場にいる全員にとっては、きっとこれが日常なのだろう。
けれど司にとっては、見慣れた朝の風景がまるごと消え失せたような寂しさがあった。
母の声も、焼きたてのパンの香りも、ここにはない。
パン派の司は、朝食は少し焦げ目がついた食パンが食べたい気分ではあるが、
空腹には抗うことが出来ずに、不満げな顔で味噌汁を一口すすった。
その瞬間、目を大きく見開き、思わず大きな声で「……うまい」と声を出した。
正面の男が驚いたように視線を向けてきたが、今の司にはどうでもよかった。
味噌の温もりが喉を通り、胃へと染みわたる。豆腐もワカメもない、ただ味噌を溶かしただけの汁。それなのに、これまで味わったことのない深い旨味だった。
胸の奥がじんわりとほどけていくようで、知らず息が長く漏れる。
こんな場所で、こんな気持ちになれるとは思っていなかった。
続いてご飯を一口。
以前なら味気なく感じ、ふりかけがなければ食べられなかった白米が、噛むたびにほのかな甘みを広げていく。
「なあ司、まず米を口に入れてから味噌汁で流してみろ。びっくりするくらい旨くなるぞ」
隣のタカギに言われるまま試すと、ご飯の甘みと味噌汁の旨味が混ざり合い、まるで別の料理になったような感動が走った。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけ、思わず唇が緩む。食事を“美味しい”と心から感じたのは、いつ以来だろう――そんな考えが一瞬よぎる。
残る一品は塩焼きの魚。
司には、小学校の給食で骨が喉に刺さった苦い記憶があり、それ以来、魚を避けてきた。
あの時の痛みと恐怖は、今でも喉の奥に残っている。箸を伸ばす手がわずかにためらい、指先が冷える。
だが今は、ご飯と味噌汁の美味しさに背中を押され、恐る恐る箸を伸ばす。
ほぐした身を口に入れると、塩だけの味付けながら、ふわりと広がる塩味が舌を包んだ。
思っていた刺々しさも生臭さもなく、噛むほどにやわらかな旨味が滲み出す。
「……うまっ、これうまっ」
気づけば夢中で食べ進め、面倒だった骨取りさえ苦にならず、皮と骨だけを残してきれいに平らげていた。
「お、皮残すの? じゃ、もらっていい?」
「どうぞ」
タカギは待ってましたとばかりに皮を摘み、迷いなく口へ放り込む。
「……うん、パリッパリ。これがうまいんよ」
得意げに親指を立てるその声が大きかったのか、看守が注意しに近づいてくる。
食事中は黙食と決まっているが、騒がないのであれば多少は黙認されている。
ノームがタカギの頭を押さえて無理やり下げ、「気を付けます」と無言で伝える。
タカギは照れくさそうに笑い、「悪い悪い、ついな」と軽く謝った。
そのやり取りに、司は思わず口元がゆるみ、肩の力がふっと抜けた。
「……ふふっ」
漏れた笑いは、冷えた胸の奥にぽたりと落ちた湯のように広がり、じんわりと温めていった。
こんな見知らぬ場所、見知らぬ人々の中でも、こんなふうに笑えるんだ。
その事実が、なぜか心強かった。
食事を終えると、ノームが椅子から静かに立ち上がり、短く言った。
「……行くぞ」
低く落ち着いた声は、急かすでもなく、ただ当たり前のことを告げる響きがあった。
「へいへい」
タカギが名残惜しそうに最後の一粒を箸でつつき、渋々立ち上がる。
司もそれに続き、温かさが残る腹をそっと押さえながらトレーを持ち上げた。
三人は自然な間合いで列になり、返却口へと歩き出した。
食器を返した後、三人は無言のまま部屋へ戻った。
ノームは部屋の隅に置かれた水晶玉へ歩み寄り、短くも確かな声で告げた。
「七六組、全員戻った」
報告を終えると、三人は部屋の中央でちゃぶ台を囲んで向き合い、腰を下ろした。
司は腰を下ろした瞬間、足元からじわっと疲労がせり上がってくるのを覚えた。それは肉体的な疲れだけではなく、この場所の規則や空気の張り詰め方に慣れようとする精神の疲れでもあった。
「あの……ここの料理って、どうしてあんなに美味しいんですか? 本当に……今まで食べた中で一番でした」
司は、胸に広がった温もりがまだ冷めきらないうちに口を開いた。
舌の奥に残るやわらかな余韻と、胸の奥でふわりと膨らむ高揚感が混ざり合い、自然とその言葉になった。
ノームは少し考えてから答える。
その目には、軽く笑みを浮かべながらも、若者の素直な感想をどう返すか探る静かな思案が宿っていた。
「特別なことはしていないだろう」
ノームは少し首をかしげ、ゆっくりと言葉を続ける。
「……ただな、司。今までの食事、惰性で食べてなかったか? 本読みながらとか、他のこと考えながらとか」
「え……惰性、ですか?」
司は眉を寄せる。
「本来、食事は“対話”なんだ」
「対話……?」
「そうだ」
ノームは指先で机を軽く叩きながら、穏やかに続ける。
「魚や野菜、肉を育てたり獲ったりする人、加工する人、調理する人、食器を作る人……そのすべての時間と労力が、一皿の中に詰まってる。労働の時間は寿命だ。つまり、それは命をもらうのと同じことだ」
一呼吸置き、静かに言い切る。
「だからこそ、自然の恵みも人の手間も、ちゃんと味わって感謝する。そうやって得た命に恥じない生き方をする……それが食事だと、私は思う」
司は無言でうなずく。
脳裏には、テレビを見ながら、スマホをいじりながら口にしていた日々が浮かんだ。母の料理も、当たり前のように受け取っていた――その「当たり前」が、どれだけの時間と手間の上にあったのかを、今さら痛いほど思い知る。
「……なるほど」
ノームの言葉に納得して今までの自分の行為に恥ずかしさくなり、思わず視線が落ちる。
「おいおい、真に受けすぎだ。歳取ると、つい説教くさくなるんだよ」
タカギが笑いながら司の肩を軽く叩く。
「タカギ! 誰が年寄りだ!」
ノームが目を吊り上げるが、タカギは両手を上げて「悪かった、悪かった」とにやりと笑う。
そのやり取りに、司もつい口元を緩めた。先ほどの気恥ずかしさが、少しだけ溶けていった。
やがてノームが腕を組み、司に向き直った。
「もう少ししたら仕事だ。農業の経験はあるか?」
ノームが腕を組んだまま尋ねる。
「ありません、ノームさん」
「敬語は要らん。ノームでいい。……タカギも構わんな?」
「おう、そのほうが呼びやすいだろ。これから頼むぜ」
タカギは親指を立て、にかっと笑う。司もつられて笑顔になる。
「じゃあ……他に質問は?」
促され、司は少し身じろぎしてからおずおずと口を開いた。
「あの……ト、トイレはどこでしょう?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ノームとタカギが同時に吹き出した。
「そこかよ!」
「ははっ、もっと深刻な質問かと思ったぞ」
三人の笑い声が、厚い扉を抜けて廊下にこぼれた。
タカギは木の床に両手をつき、背をそらして息を整え、ノームは膝の上で片手を添えて笑いの名残を飲み込む。司は前のめりの姿勢を戻し、頬の熱を手のひらでそっとなぞった。
やがて笑いは静まり、部屋には落ち着いた空気が降りる。
さっきまで温もりで満ちていた空気が緩み、ちゃぶ台と床がわずかに軋む音だけが残った。
「……あの、ちょっと気になったんですけど」
司は視線を落とし、指先で膝をなぞりながら口を開いた。
「こんなにゆっくりしていて……本当に大丈夫なんですか? これから仕事なのに、時間って……足りるんでしょうか」
それも無理はない。
異世界とはいえ、“奴隷”と聞けば──
鞭で叩かれ、食事もろくに与えられず、薄暗い小屋で眠り、長時間の労働を強いられ……やせ細って死ぬまで馬車馬のようにこき使われる。そんな地獄のような日々を想像していた。
だが、昨日の夜も、そして今朝も、ここでは温かい食事がしっかり出された。
私語は禁じられているものの、部屋にいるときは会話は許可されている。
司の思っていた“奴隷生活”とは、あまりに印象が違っていた。
もちろん、まだ一日も過ごしていないので、これが本当の姿なのかはわからないが……。
そんな司の問いに、タカギが口角を上げながら「まったくその通りだ」と即答した。
「司の質問は、ごもっともだな」
タカギが口角を上げる。
「実際はよ、そんなにのんびりできねぇ。起きる時間、飯の時間……ぜーんぶきっちり決まってる」
彼は腕を組み、胸を張って続けた。
「でもな、うちの組長さんは時間の使い方がうまい。詰め込みすぎねぇし、無駄もない。おかげで俺ら、バタバタせずに済んでる」
「……まあ、長く組長をやってりゃ、そのくらいは当然になる」
ノームは淡々と言いながら、ほんの少しだけ目をそらす。
「別に私が特別ってわけじゃない」
異人の行動は、すべて細かく管理されていた。
この施設は巨大な共同生活の場であり、全員の行動がひとつの時計の歯車のように連動している。
日の出と同時に起床し、建物内の全員が起きたのを確認してから、ようやく部屋からの退出が許可される。
つまり──今朝の司のように寝起きが悪い者が一人でもいれば、建物全体の朝食時間が短くなるのだ。
もし誰かの寝坊で食事の時間が削られれば、
「どこの組が遅れたのか」という情報が、なぜか施設中に瞬く間に広まる。
そして数日は、廊下を歩くだけで刺すような視線を浴び続けることになる。
もちろん、その“情報”をわざわざ吹聴するのは看守だ。
これは罰というより、組同士を監視させ、互いに締め付け合うための仕組みでもあった。
だからこそ、ノームとタカギは必死に司を起こしたのだ。
それが毎朝の現実であることを、司もようやく理解した。
三人が短い談笑を交わしていると──
部屋の隅に据えられた水晶玉が、ぼうっと赤く輝き始め、耳障りなアラーム音が鳴り響いた。
それは、“労働開始”を告げる合図だった。
この音が鳴れば、施設中の全員が作業場へと動き出す。遅れれば罰は免れず、誰もが条件反射のように足を向ける。
この時間までに朝食から戻らなかった組には、異人兵が直々にやってくる。
そして、その後には──監督官による“厳しい教育”が待っている。
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