第1話(2) 運命のめぐり合わせ
玄関で靴を脱いで、台所へ向かうと母親がちょうど料理を作り終えたところだった。
「おかえり 卒業式はどうだった?
父さんがもうすぐ帰ってくるからご飯運ぶのを手伝って」
母親の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
卒業式の疲れも、外の冷たい空気も、唐揚げの香りと母の笑顔に一瞬で溶かされていく。
机の上に置かれた皿へと手を伸ばしながら、久しぶりに「当たり前の幸せ」に触れたような気がして、心がふわりと軽くなった。
その唐揚げを運ぼうと一歩踏み出した瞬間——
「そろそろ朝飯だ 起きるんだ」と聞き覚えのある野太い声が聞こえてきた。
柔らかな家の空気が、脳裏から音を立てて剥がれ落ちる。
さっきまで胸いっぱいに満たしていた温もりが、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていった。
司は気持ちのいい眠りの妨げる声を追い払うように、小声で答える。
頭の中では、まだ自分は家の布団にくるまり、母親の声で起こされているつもりだ。
「あと5分だけ寝かせてよ。」
布団に顔を埋めたまま、くぐもった声が漏れる。
「おいおい、また寝ちまったよ。起きるんだ。」
ノームは困ったように眉を寄せながらも、まだ子供らしい司の反応に少し安心していた。
タカギは呆れ半分、これから毎朝このやり取りが続くのかと思うとげんなりした気分で、だが妙に憎めないとも感じていた。
起床時間になり、司を起こそうとしたノームとタカギは、お互いに顔を見て呆れていた。
「昨日あれだけのことがあったのに、この熟睡っぷりか……肝の据わった奴だな」
ノームは口元を緩め、感心半分、呆れ半分の笑みを浮かべた。
「だろ? さっきから水晶のアラームが鳴りっぱなしなのによ」
タカギは棚の上を顎でしゃくりながら、鼻で笑う。
水晶には複数の使い道があった。
一つは昨日タカギが使ったように看守と連絡を取るために電話として、
もう一つは目覚まし機能がついている。
これは看守室にあるメインの水晶から各部屋に置かれた水晶へと指令が送られ、起床時間になると一斉に鳴らされる仕組みだ。
この施設では、異人たちの一日の行動はすべて看守の管理下にあり、時間の流れすら彼らの手の中にある。
水晶は単なる通信具ではなく、監視と統制の象徴でもあった。
部屋中にうるさい程の起床音が鳴っているが、司は気にせず寝ている。
その寝顔はあまりにも無防備で、ここが見知らぬ場所であることも、昨日あれほど泣きじゃくったことも忘れてしまったかのようだった。
「これから毎朝こいつを起こすことになるのか…」
タカギは明日以降の自分を想像して大きくため息を吐いた。面倒くささと同時に、なぜか少しだけ安心もしている自分に気づく。
ノームが司の肩を掴みユサユサと揺らすが全く起きそうもなかった。
その様子を見ながら、ノームは「まだ子供だな」と小さく心の中で呟く。深く眠る司に、昨晩は久しぶりに見た“守らなければならない存在”の匂いを感じていた。
そんな生半可じゃダメだとタカギは司に近付き、おもいっきり司の右頬を平手で叩いた。
その手のひらに伝わる感触に、少しだけ申し訳なさを覚えながらも、ここで起こさなければこの坊主は昼まで寝ていそうだ、と腹をくくる。
「あいた!」
司は叩かれた痛みで飛び起きた。
目を白黒させながら周囲を見回し、状況が飲み込めないまま口をついて出たのは――
「え?唐揚げは?」
「寝起きの第一声が食い物か」
思わず二人は口を開けて大きく笑った。
タカギは、こんな場でも食い物を思い出せる図太さに、少し肩の力を抜く。
ノームは、その無邪気さの裏に隠れた強さを感じ取り、心の中で静かに頷いた。
混乱しつつも、
司は二人に合わせて愛想笑いをする。
正直まだ寝ていたいが、
自分が置かれている異常な状況を整理するために、寝ぼけながら周りを見回してみると、布団の上に座っていることに気がついた。
いつ寝たのか思い出せない。
記憶の最後が、ノームの腕の中で泣きじゃくっていたことだけだ。
その時の温もりと、背を支えてくれた大きな手の感触がまだ体に残っている気がする。
おそらくそのまま寝てしまい、ノームが布団を用意してくれたのだろう――そう考えると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
だが同時に、そんな自分の無防備さに戸惑いも覚えた。
昨日、散々泣いたお陰なのか、胸の奥のざわめきがほんの少しだけ静まり、今までの出来事をようやく順序立てて思い返せるようになった。
中学最後の下校中に、ふと気づけば見たこともない道を歩いていて――そこから先は、ただ流されるままだった。
よくわからない連中に囲まれ、逃げる間もなく連れ去られ、裸にされ、この部屋に放り込まれた。
思い出すたび、あの時の心臓の高鳴りや、足が震える感覚が蘇る。
やはり未だに「夢であれば」と願ってしまうが、頬のひりつく痛みが、その望みをあっさりと打ち砕く。
もう一度、あの夢のような日常に戻りたい――そう強く思うほど、胸の奥に小さな痛みがじわじわと広がった。
あれほど行きたくないと思っていた学校の校舎や教室、特に顔すら覚えていないクラスメイトたちでさえ、今はどれも恋しい。
不思議なことに、あの何気ない喧噪や、教室に漂っていたチョークと消しゴムの匂いまでも、はっきりと思い出せる気がした。
もう一度、あの教室に戻りたい――心の中でそう繰り返すたび、現実との距離が痛いほど際立っていく。
しかし、この妄想から現実に引き戻そうとするこのアラーム音が気になり、司は質問をした。
「これは起床アラームだ。よくこの状況で寝れるな」
ノームは感心するように司に尋ねたが、その瞳の奥には、幼さが残る少年がこうして笑って話せることへの安堵がうっすらとにじんでいた。
「目覚ましじゃ全く起きられなくて。だから、母さんがいつも叩いて起こすんです。」
司は、思い出すように小さく笑う。ほんの数日前まで当たり前だった光景を口にすることで、少しでも自分がまだ“元の場所”に繋がっている気がした。
「おまえもすごいが、母ちゃんは暴力的だな」
タカギが呆れたように話すと、その表情には、口ではからかいながらも、こうして冗談を交わせるだけの余裕が司に戻ってきたことへの安心が隠れていた。
司が「小さい頃からずっとだから…」と答えると、二人は互いに視線を交わし、小さく頷いた。これから先、この朝のやり取りが日常になっていく――そんな予感と、少しの覚悟が胸に芽生えていた。
「タカギ、看守に全員起床したと伝えてくれ」
ノームに言われ、タカギは「はいよ」と気の抜けた声で返しながらも、水晶玉へと向かう足取りは案外軽かった。少年がこうして無事に起き上がり、まだ笑顔を見せられることに、口では何も言わずとも胸の奥でほっとしていた。
「76組全員起床」
タカギが告げると、部屋を満たしていた騒がしいアラームがぴたりと止まった。静寂が戻ると同時に、司はようやく耳の奥に残っていたざわつきが消え、わずかに息をついた。
「この水晶玉に話しかけると看守室に繋がる。アラームは全員起床してから止めて貰う規則だ」
ノームは淡々と説明するが、その声色には、こうして一つひとつの規則を教えることで、司が少しでも早くこの環境に慣れ、恐怖を和らげられればという思いが込められていた。
昨晩とは違い、大きな窓からやわらかな日射しが差し込み、淡い金色の光が部屋の隅々までやさしく浮かび上がらせていた。
外から流れ込む空気はひんやりとして鼻先をくすぐるが、光に温められた床や壁からは、ほんのりとした温もりがじわりと足元に伝わってくる。
その空気は木の匂いと、わずかに乾いた土の香りを含んでおり、昨日までの冷たい空気とはまるで別物だった。
窓には木製の枠に古びたガラスがはめ込まれ、表面には細かな擦り傷と曇りが薄く広がっている。
陽の光がその傷に沿って反射し、小さな虹色の筋が壁をかすめた。
横にスライドすれば換気ができる造りだが、その外側を覆う太い鉄格子が、自由への道を断ち切るように無骨な影を床へ落としている。
司はその影越しに外を眺め、遠くの景色がまるで絵画の中に閉じ込められた世界のように思えた。
窓の正面には重厚な鉄製のドアが無言で立ちはだかっている。
昨日はその扉が音もなく開き、知らぬ世界が自分を呑み込んだ。
扉の上部に小さな覗き穴があった。だが内側からは外が見えぬよう目隠しが施されており、まるで外の誰かがこちらを監視するためだけに取り付けられたようだった。
部屋の隅には、昨日タカギが服を出してくれた三段の棚が静かに佇んでいる。
木の表面は長年の使用で角が丸みを帯び、手触りは滑らかだが、指先でなぞれば深く刻まれた傷がいくつも感じられる。
その前にはタカギが立ち、腕を組んで司をちらりと見ていた。
反対側には、大きなちゃぶ台が脚を畳んだまま壁際に寄せられている。
その前には二人分の布団がきちんと畳まれ、日の光を受けて白布がほのかに輝いていた。
普段はこの机を中央へ運び出し、食事や作業に使うのだろう。
床は節目のはっきりとした木材で作られ、年季による黒みと無数の擦れ跡が、この部屋を通り過ぎた年月を物語っていた。
歩けば、その板がかすかにきしみ、乾いた音が室内に溶けていく。
天井には電球ひとつなく、今この部屋を満たすのは窓から注ぎ込む陽光だけ――それが、この部屋で唯一、外の世界と繋がっている証のように思えた。
司はゆっくりと布団から立ち上がると、ノームが「片付けてくれ」と短く指示をしてきた。
しかし、昨日までベッドで寝ていた司には布団の畳み方など皆目見当がつかない。
端を持ち上げては形が崩れ、もたつく自分の手元に、胸の奥で小さく焦りが広がる。
見よう見まねでやってみるも、どうにも整った形にはならず、司は視線を泳がせた。
それを察したのか、タカギが「こうやるんだよ」と声をかけ、膝をついて布団を手際よく折りたたんでみせた。
動きは粗野で無駄がないが、そこには何度も繰り返してきた慣れがにじんでいる。
司はその手つきを黙って見つめながら、妙に安心感を覚えた。
タカギは作業の途中、一瞬だけ目を上げ、にやりと笑った。
からかうようにも見えたが、それが不思議と嫌ではなかった。
司は小さく「ありがとう」と告げ、胸の中で、意外と面倒見のいい人なのかもしれないと思った。
そして今度は、改めて2人をよく観察してみることにした。
昨日見た時はノームはずっと座っていたため身長があまりわからなかったが、
2mほどあり、茶色の布製の長袖越しでもわかる程の筋肉の塊だった。
その体格は威圧感こそあるものの、動きは落ち着いていて、どこか年季の入った職人のような余裕を漂わせている。
髪は白髪混じりの黒髪で、後ろで髪を紐で縛ってあり、小さなポニーテールが見える。
肌は健康的に焼けた茶色で、屋外での作業や長年の労働で鍛えられてきたことが容易に想像できた。
髭は整えてあり、顎下からもみあげまで繋がっている。
歴史の授業で習ったリンカン大統領のような髭だと司は思った。
眉間には皺があるが、とても優しい顔つきでよく微笑んでおり、その笑みには相手の緊張を和らげる不思議な力があった。
首には少し首周りに余裕がある大きめで赤い革製の首輪を巻いていた。
首輪には大きな黒字で「76」と書かれている。
その番号が意味するものはまだわからないが、ノームがそれを気にしている様子はなく、まるで体の一部であるかのように自然に受け入れているように見えた。
もう1人のタカギは身長が170cm程で、
鳥の巣の様なボサボサ頭で、髭は適当に剃ったのか整ってはいなかった。
ノームに劣るが全身が鍛えられた体をしており、動きに無駄がなく、獲物を狙う獣のような素早さを感じさせる。
ノームとは違い、半袖を着ており、
腕には無数の傷跡が見える。戦いの痕か、過去の荒事を物語るそれらは、彼が口数少なくとも容易に侮れぬ相手であることを示していた。
顔つきは常にニヤニヤしている怪しい感じはするが、
その笑みの奥にほんの僅かに人懐っこさと茶目っ気が混ざっており、今の司には不快感は感じられなかった。
ノームがこちらに振り返ると、微笑みながら話しかけてくれた。
その眼差しは柔らかく、昨日の混乱と不安に押し潰されていた少年を、少しでも安心させようという思いが滲んでいた。
「少し時間があるな。
昨日のことはあまり覚えていないかもしれないな。
改めて自己紹介をしよう。
私はノーム 歳は51、この部屋の組長だ。
そして、彼はタカギ 31歳――まあ、いいやつだよ」
タカギは口元だけで笑い、軽く顎を引いて会釈する。その仕草は不器用だが、どこか照れくさそうでもあった。
「あの、昨日はありがとうございました。
僕は水野 司と言います。年齢は15歳です」
司が自己紹介を終えると、2人が驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
「ほう、二つ名か珍しいな たまにいるが それにしても15歳だって?
もう少し幼いかと思っていた。」
驚きと興味が入り混じったような声だった。
隣のタカギも、からかうでもなく、妙に真剣な視線で司を観察している。
二つ名――どういう意味だろうという顔を司がしていると、ノームが説明をしてくれた。
「私もタカギも、そしてこの世界や、他の世界の者達はほとんど名前は一つしかない。」
「君は水野といった後、少し間を空けてから司と名乗ったね?
以前、二つ名の者から聞いたことがあるが、
名前には2種類、もしくは3種類以上あり、大抵は生まれの家族の名前で、自分がどこの誰か証明するためのものだと。
もう片方が、本当の自分自身の名前だと聞いたが…合っているかね?
君の本当の名前はどっちだね?」
どうもわかりにくい説明だが、つまり苗字があることが珍しいようだ。
司は少しだけ考え、「司です」と静かに伝える。
「そうか、これから司と呼んでいいかね?」とノームが嬉しそうに尋ねたので司は頷いた。
自分の名前を呼ばれるだけで、胸の奥が少し温かくなる。けれど、それは完全な安心ではなく、知らない場所で手探りに歩くような心もとなさを伴っていた。
この人たちが敵でないことはなんとなく分かる。それでも、信じ切ってしまうにはあまりにも昨日の出来事が生々しく残っている。
「これから朝飯だ。食堂に行くぞ。ただし、看守がドアを開けるまでは部屋から出られん。……その前に、ここでのルールを簡単に話しておこう。」
ノームは腕を組み、ゆっくりと司の目を見る。声は穏やかだが、言葉の芯は揺るがない。
「まず――君も含め、異世界から来た人間を“異人”と呼ぶ。
異人は三人一部屋で、共同生活をする。部屋では組長が一番上だ。私はこの部屋の組長だ。」
司は小さく頷く。ノームは続けた。
「他の部屋の異人とは、極力話すな。大抵は無視される。
それから、この世界で生まれた人間には絶対服従だ……もっとも、会うことは滅多にないがな。」
ノームは一拍置き、声を少し低くした。
「最後に――異人には労働の義務がある。与えられた仕事は、必ずやり遂げなければならない。」
その言葉は淡々としているのに、胸の奥にずしりと落ちてきた。
司は喉をひとつ鳴らし、ほんの少しだけ視線を逸らす。見えない鎖が首にかけられたような感覚が、背筋を冷たく撫でた。
対するノームは、いつもと変わらぬ柔らかな表情を浮かべている。だが、その穏やかさが逆に規則の重さを際立たせていた。
「――以上だ」
ノームは腕を組み、わずかに顎を上げて司を見下ろす。
「何か、聞きたいことはあるか?」
規則を一通り聞いただけで、胸の奥がじわりと重くなる。
どれも自分の自由を縛る鎖のように思えて、息苦しさが増していく。
まるで見えない檻に閉じ込められたような感覚に、思わず唇を噛んだ。
それでも、今の状況を知るためには聞かなくてはいけない――そう自分に言い聞かせ、司がもっとも気になったことをノームに聞いてみた。
「あの……異世界って、何なんですか? ここって、日本じゃないんですか?」
司は言いながら、自分でもおかしな質問だとわかっていた。けれど、口にしなければ胸の中の霧がますます濃くなってしまいそうで、声を絞り出した。
ノームは少し目を細め、わずかに肩を揺らして息を吐く。
「異世界は――異世界だ。君のいた場所とは、まったく別の世界さ」
その口調は淡々としているが、妙に重みがあった。
「本や物語で、そういう話を聞いたことはないか?」
ノームはわざと間を置いて尋ねる。その声音には、司が現実を受け入れやすい形で伝えようとする、静かな配慮が滲んでいた。
司はぽかんと口を開けたまま、小さく首を振った。
「……異世界なんて、聞いたこともないです」
声に混じった戸惑いは、自分でも隠せなかった。
その単語が頭の中を何度もぐるぐる回り、落ち着く先を見つけられない。
元いた世界? 別の世界? なんのこと?――と思う一方で、視界の端に映る鉄格子や、どこか彫りの深い見慣れぬ顔立ちが、ここが日本じゃないことを無言で突きつけてくる。
「……でも、なんか夢みたいで」
司は視線を足元に落とし、呟くように言った。
現実感が薄いせいで、まだ自分は家の布団の中にいて、母親の声で起こされるんじゃないか――そんな感覚から抜け出せないのだ。
ノームは司の困惑を見て、ふっと目を細め、理解したように頷くと、ゆっくりと言葉を続けた。
「そうか、君は異世界というものを知らないのか。
以前この部屋にいた二つ名の彼は、異世界転生キターと大喜びしていてな。
嬉しそうに我々に異世界の物語を語ってくれた。」
「やれ、ハーレムだとか
チート無双だとか
勝ち組だとか言ってな。
しかし、彼の望みはかなわなかったな…」
その声は少しだけ低く、わずかに重みを帯びていた。
ノームの目が遠くを見つめ、ほんの一瞬だけ笑みの奥に影が落ちる。
ノームは首を軽く横に振り、「いやいや、今はよそう」と自分を押し戻すように言い、話を続けた。
「世界は無数にあるらしい。
私たちはそれぞれ違う世界から流れ着いた“異世界人”。
……もっとも、この世界じゃ侮蔑を込めて“異人”って呼ばれるがな」
ノームはそこで言葉を切り、司をじっと見た。
「……司、本は読むか?」
「えっと……本はあまり。でも、漫画やゲームは好きです」
答える司の声には、少しだけ気恥ずかしさが混じっていた。
場違いな回答を口にしてしまったような後ろめたさと、それでも好きなものを否定できない思いが、わずかに視線を揺らす。
ノームはそんな司を見て、目尻を緩め、低く短く笑った。
「ほう、漫画やゲームが好きか。なら、話は早いな」
ノームは口角をわずかに上げ、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「その物語や世界は、互いに繋がっていないだろう? 別々の舞台、別々の登場人物……」
指先で空を切るように一拍置き、司の視線をしっかりと捉える。
「それが“別の世界”だ。ここで言う異世界ってやつだ」
司は瞬きをしながら黙って聞いていた。
ノームは、さらに声を落とし、確かめるように言った。
「つまり私たちは、生まれ育った物語とは違う物語の中に、迷い込んじまったってことだ。……ここまで、イメージできるか?」
司は頷き、ノームは話を続ける。
「昔は、この世界の住人と異人は協力し合って暮らしていたらしい。
だが、あまりにも多くの異人が迷い込むようになって…仕事の奪い合いが始まった。
土地も、食い物も足りなくなった」
ノームは淡々と語るが、その奥にわずかな苦みがにじむ。
「それで、異人を集めて奴隷にした。力も時間も、全部搾り取るためにな」
司は息をのむ。
「今じゃ、毎日何十人、多い時は何百人も異人が流れ込んでくる。
ここの住民にとって、我々は使い捨ての道具だ。
……だが、いつ立場が逆転するかわからない。その恐怖は、あいつらの頭から離れないらしい」
言葉の最後だけ、ほんの僅かに低く響いた。
司は、ふと昨日の光景がよみがえり、声を潜める。
「……じゃあ、僕を捕まえたり、水をかけた人たちも、この世界の人なんですか?」
胸の間に黒いモヤモヤした思いが渦巻いた。
それは怒りなのか、恐怖なのか、自分でもはっきりとわからない。
ただ、あの時の冷たい水の感触や、突き刺さるような視線が何度も頭をよぎり、呼吸が少しだけ浅くなる。
理不尽さへの反発と、どうしようもない現実への無力感が、重く胸の奥に沈殿していくようだった。
ノームは首をゆっくりと横に振り、彼らも異人だと少し寂しい顔をして話し出した。
「さっきも言ったが、働くのは全部、異人だ」
ノームはゆっくりとした声で続ける。
「その中でも“異人兵”って役目がある。異人兵になれる条件はいろいろだが……簡単に言えば、警備役だ」
司は無意識に肩をすくめた。昨日の夜に聞いた足音や、無言の視線が頭をよぎる。
「司をここまで連れてきたのは看守だ」
ノームの目がわずかに細くなる。
「何十年もここで生き延び、信頼を勝ち取った異人だけが、その役目を任される」
一拍置いて、声が少しだけ低くなる。
「奴らは、異人同士で格差を作り、互いに争わせる。そうやって、この世界の人間に矛先が向かないよう仕組まれてる……まあ、思惑通りにはいかないさ。我々も馬鹿じゃない」
司は唇を引き結びながら、胸の奥で嫌なざわめきを覚える。
「それと……水をかけたのは“監督官”だ」
ノームは視線を司に戻す。
「異人と人間の混血――ハーフだな。純血じゃないってだけで、社会的地位は低い」
淡々とした口調の裏に、わずかな苦みが混じる。
「生まれた時から差別され、この世界の住人ではあるが、社会的地位が低くそのことに恨みを抱えたまま生きているものも多い。
異人なんかいなけりゃ、自分は普通に暮らせた……そう信じてる」
その最後の言葉は、石のように重く部屋の空気に落ちた。
司は何も言えず、ただ視線を落とした。
「オレ達はな、奴隷だ。働き詰めで、使えなくなりゃゴミみてぇに捨てられる。
……嫌でも、そういう場所だって覚悟しとけよ。」
タカギの一言で、司はずっと頭の中で渦巻いていた問いを、もう胸の奥に押し込んではいられなくなった。
本当は聞くのが怖い。答え次第で、自分の希望が砕け散るかもしれない――それでも、黙っていれば永遠にわからないままだ。
唇が乾き、喉がきしむのを感じながら、意を決して口を開く。
「い、家に帰りたい…帰れないんですか?帰る方法はありますよね?帰りたい。
帰るんだ。帰って。かえ…帰るんだ。」
言葉を出すたびに、胸の奥の帰りたいという想いが、堰を切った水のように強く、熱く溢れ出していった。
司が昨日のように大泣きしそうに涙を浮かべ、顔を下に向けて「帰るんだ」と何度も何度も力無く呟き出したのを見て、タカギは余計なことを言ってしまったと後悔した顔をした。
自分の不用意な一言が、まだ幼さの残るこの少年の胸にどれほどの重さで響いたかを、今さら思い知ったのだ。
司の震える肩と、必死に堪えている小さな嗚咽を見て、タカギの胸にも針のような痛みが走った。
昨日と同じようにノームは司を抱きしめて、優しい声で
「ああ、帰れるさ。今すぐには難しいが、家に帰れる。そう強く心に体全身に願うんだ。」
その声は、ただの慰めではなく、本当に信じている者の響きを帯びていた。
司はその温もりに包まれ、胸の奥で暴れていた不安が少しずつ鎮まっていくのを感じた。
そして、ドアが開き昨日と同じ黒い布製の服を着た男が部屋に入ってきた。
年齢は50代後半と思われ、険しい顔つきをしていた。
その鋭い眼光が部屋の空気を一瞬で張りつめさせ、司は思わず背筋を伸ばした。
ノームは表情を変えず、淡々と視線だけで男を迎える。長年の経験から、余計な感情を表に出せば相手の餌になることを知っているのだ。
男は「出ろ」と一言だけ言い残し、足音も荒く部屋から出て行った。
ノームが言った「何十年もここにいる」という言葉が、じわじわと胸の奥に重く沈んでいく。
司はその重みに押されるように顔を俯け、視線は自分の膝の上で固まった。
そこへタカギの大きな手が頭に置かれ、容赦なく髪をグシャグシャとかき混ぜる。
温もりと乱暴さが同時に伝わり、司は思わず目を瞬かせた。
「飯の時間だ。腹一杯食えば元気も出る。そうすると嫌な事も全部どっかに行くさ。」
タカギの笑い声が、狭い部屋の壁に跳ね返って広がる。
その背中がドアの向こうに消えていくまで、司は無意識に目で追っていた。
乱暴だけど不思議と安心をくれる背中だった。
「タカギは不器用でデリカシーもなく、一言余計だがいい奴だ。
初めは不快に感じる事もあるかもしれないが、あいつのお陰で私は何度も心を救われた。」
ノームの穏やかな声に、司は少しだけ肩の力を抜く。
軽く背中を叩かれ、その感触と共に、薄暗い部屋から差し込む光の中へと足を向けた。
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