小研寮
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小研寮
小研工業第一工場の建築完了が昭和四十二年。当時より工場敷地内に小研寮は存在していたが、その頃は「小研寮」とは呼ばれず、単に「寮」とのみ呼ばれていることが多かった。
この「寮」が「小研寮」と呼ばれ始めたのは、昭和五十九年、工場の第三期拡張工事に伴い採用人員を増やしたことから、その結果寮の部屋数が不足するという理由で工場敷地外にもう一つ寮が建設されてからである。新しい寮はその所在地の名をとって「楠田寮」あるいは「楠田新寮」とも呼ばれたが、当時は単に「新寮」と呼ばれることが最も多かった。それにともない、区別をつける意味で敷地内にあった寮は単に「寮」という呼び名から、一般に「小研寮」と呼ばれ始めたのである。
しかし、「寮」あるいは「小研寮」という呼び名は通称であり、正式名称は寮の入り口にある小さな門に掲げられている表札にも示されているとおり「小研工業第一工場寮」である。この正式名称が滅多に使われないのは、ただ単に呼び名が長くて面倒であるというだけではなく、その表札そのものが木製でその上に墨で文字が書かれたようなものであったため、永年の雨風に打たれ、すっかり文字が薄れてしまったということも要因の一つであることには間違いなかった。加えて寮の玄関が寮生達にほとんど使用されなかったということも原因として挙げられるだろう。小研寮は小研工業の敷地内に建設されているため、出勤時はそのまま敷地内の工場に向かうし、また休日のときも駅繁華街方面に向かう時は、この寮の出入口よりも工場の正門を通った方が近道になる。そこで寮の出入口は事実上、郵便配達員や、食事の材料を届ける業者らのみによって使用されているといってもよかった。これらのことから、表札に書かれた寮の正式な呼び名は年と共に忘れ去られ、完全に「小研寮」という呼び名が定着してしまったのである。
新寮ができた当時、従来より小研寮に住んでいた寮生はそのまま小研寮に住み、新入社員から順次新寮に入るということになっていたのだが、ここで従来よりの小研寮生からの抗議が起きた。どうして従来より勤務している者が古い寮に住み、新しく入ってくるものの方が待遇がいい新寮に入れるのか、というのがその主旨である。たしかに小研寮と楠田新寮を比べた場合、その設備はまったく変わってくる。木造で冬になると隙間風が容赦なく吹き込み、暖房器具はせいぜい炬燵くらいのもの、夏は夏で当然冷房設備はなく、本来は取り付けられていたはずの網戸も今や完全に外れてしまっているかそうでなくとも半分以上が破れてしまったその窓を開け放ち、多くの蚊の来襲を防ぐための蚊取り線香と扇風機で凌ぐしかない小研寮に比べ、楠田寮は鉄筋コンクリートで冷暖房完備、風呂もシャワーであれば二十四時間湯が使える上、部屋も若干広く収納スペースも考慮された設計になっていた。小研寮生のこの抗議に対して総務部では寮生達を納得させることができる理由がついに見つけ出すことができず、結果として希望者は新寮に移ってよいという通達を出さざるを得なかった。しかし実際にこの機会に新寮に移ったのは、意外にも小研寮全寮生のうち三分の一にも満たなかった。小研寮を出て行かなかった人達の言い分は、たとえ自転車で五分という時間であろうとも敷地内にいる現在よりも通勤時間が延びるのが嫌だという人や、引っ越しが面倒だという人(この中には結婚を控え近々寮を出て行く予定のある人も含まれている)などがいたが、実際の理由はそんな仕事が終わった後で過ごす部屋に云々し、こだわることになんとなく恥じらいを感じている人が多かったというのが実情であった。
このように寮建設以来これまでこの寮の歴史の中には様々な事件や問題、さらには逸話や伝説が沢山生まれ、そしていつとはなしにそれらの事柄は消え去っていった。それは二階へ上がることのできる唯一の階段の踊り場にある北東の隅から右三枚目の板がこれまでに七度にもわたって破損しその度に張り替えられたことであり、室内へのヌードポスターを張る権利をめぐっての寮生による抗議活動であり、共同便所に並んだ便器の汚れ具合に反比例した使用頻度の時間的変化であり、朝共同洗面所にやってくる人の曜日や季節による順番の変化具合であり、廊下に落ちている通常では考えられない種類のゴミであり、各階に一ヶ所づつ設けられたごみ捨て場に出された雑誌の種類による他の寮生によって持っていかれる確率分布であり、それ以外にも数えあげればきりがないくらいこのような大事件がこの寮の中では起こり、そして時間は経過してきた。これら一つ一つにわたっての詳細を述べる余裕を今回残念ながら有しないが、これらの事柄自体がこの寮の歴史そのものといっても過言ではないだろう。
ここで「大盛飯の乱」と呼ばれている一連の事件を採り上げるのは、勿論その事件がかつてなく壮大で、長期にわたり、多くの人達が関与した大事件であるという事だけではなく、それがこの永年にわたって寮生を見守り続けて来た小研寮の最期にも当たるからである。
事の発端は、小研寮での午後七時から始まる夕食の時間、変圧部主電流変圧制御課ライン担当員である山室正紀によって発せられた一言から始まった。炊事担当献僚監である龍田に、力士を連想させるような巨体を持った山室は、空の茶碗を差し出してこう言ったのだった。
「大盛り!」
なんと、この時龍田は通常どんぶりに入れる量の1.5倍もの飯を山室によって出された鉢に盛った。下表にこの日に盛られた飯の量を示す。
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| この日盛られた飯の量の全体平均 | 275グラム |
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| 山室を除いたその日盛られた飯の量の最大値 | 315グラム |
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| その日盛られた飯の量の最少値 | 244グラム |
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| 山室に盛られた飯の量 | 438グラム |
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この値から見ると、統計上明らかに有為な意味合いを持って山室の差し出した鉢に盛られた飯の量が多くなっていることがわかる。山室の前後の人達はその山室が発した「大盛り」という言葉に耳をそばだて、そしてその後、山室の鉢に盛られた飯の量を見て唖然とした。山室も周囲から唖然として見られているのを知って、同様に唖然とした。
山室はそもそもこの会社に入社してまだ二年のいわば新米であり、そのような者が大盛り飯を頼むことがあつかましいことであるがゆえ周りの人間が唖然としたのだと山室は判断したが、周囲の人間にとっては山室が新米であるかどうかということに関係なく、むしろこの食堂で「大盛り」飯を頼むということ自体に驚いていたのである。
小研寮では今まで一度も飯の大盛りを頼んだ人がいなかった。それは最初から誰もが大盛りを頼んでいるところを見たことがないゆえ、この食堂では大盛り飯を頼んではいけないということが一つの暗黙の了解になっていたのである。しかし過去に何度かこのことについて隠れるように話されたことはある。たとえば、薄暗い二階便所の中で偶然出会ったある先輩と後輩の間でこういう会話がなされたことがあった。
「先輩、ここの食堂では誰も大盛りのご飯を頼んでいる人がいませんが、頼んじゃいけないんでしょうか?」
「いや、いけないという決まりはないだろう」
「じゃ、頼んでいいんでしょうか? どうもあれくらいの量じゃ夜中にお腹がすい
てしかたがないんですが」
「いや、いや、それはやめておいたほうがいい。今まで誰も頼んでいるところを見たことがないし、もしそんなことを言ったら、あの気難しそうなおやじさんのことだ、『自分勝手なことを言うな!』なんてどやしつけられるかもしれないぞ」
他のいくつかの例もこの例とほぼ同じであり、だいたいは誰一人大盛りを頼んでいる人を見たことがないということと、寮監である龍田が気難しそうで恐いというのがその主たる理由になっていた。寮監が気難しいかどうかはともかく、たしかに老齢であり、軍隊経験もあることからかなり気骨のある人であることには違いなく、さらには生まれつきのぶっちょう面であるため寮生達からは誤解されている面もあったが、時には寮生を寮監室に招き酒を振る舞うというような非常に話のわかる部分も持ち合わせてはいた。
こうした過去の事情の中、それらを知ってか知らずかついに「大盛り」飯を頼む人が出てきたのであり、さらにはそれに対して寮監はピクリとも気難しそうな表情を変えることなく、意外にも1.5倍もの飯を盛ることでそれに応じたのだった。後日、それを見ていた人達の中から、どんどん大盛りを頼んでいく人が増えていったことはいうまでもない。下表に最初に山室が「大盛り」飯を頼んだ日から、大盛り飯を頼む人の数の変化を示す。
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| 年 | 月 | 日 | 曜日 | 大盛りを頼んだ | 大盛りを |
| | | | | 頼んだ人の数 | 頼まなかった人の数 |
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| S62 | 10 | 21 | 水 | 1(438) | 36(270) |
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| | | 22 | 木 | 3(412) | 34(268) |
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| | | 23 | 金 | 6(390) | 31(256) |
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| | | 24 | 土 | 13(363) | 24(260) |
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| | | 25 | 日 | 休食日 |
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| | | 26 | 月 | 21(310) | 16(262) |
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| | | 27 | 火 | 31(285) | 6(251) |
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| | | 28 | 水 | 29(281) | 8(259) |
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表中()内に示した数字はそれぞれの盛られた飯の量の平均値をグラム単位で示したものである。この表から、大盛りを頼む人は一日でほぼ倍の数で増えていくことがわかる。しかしここで見落としてはいけないのは、大盛りを頼んだ時に盛られる飯の量の変化であって()内の数字に着目すると、日に日に大盛りの飯の量が減っていることがわかる。これは、勿論その日炊かれている飯の量は決まっているため、大盛りの人に同じように盛っていたのでは後で飯が足らなくなるという致命的な事態に陥ることを寮監が避けたためであると考えられる。そしてこの山室が大盛り飯を最初に頼んだ日、つまり昭和六二年十月二一日をもって、小研寮史上空前の「大盛り飯の乱」と呼ばれる壮絶な戦いが始まることになるのである。
先ずこのことで面白くなかったのが最初に大盛り飯を頼み438グラムもの量を得ることができた当の山室である。彼は他の人が真似をして大盛りを頼むせいで自分の飯の量が少なくなっていることに不満を抱いていた。だが、これに対してさすがの彼にもどうする事もできなかった。せいぜい「大盛り」と発する時の声を大きくすることくらいしか山室にはできなかったのだ。後の方ではその体の大きさを利用して、ほとんど叫ぶような大声を出したりもしたが、盛られるご飯は他の人と殆ど変わらることはなかった。
この後睨み合いにも似た降着状態がしばらく続くのだが、この事態の打開を図ったのが部品計量部特殊計測課ジオメトリー計測班に属する田長正勝だった。彼は「痩せの大食い派」に属しており、山室らが属する「巨漢大食派」とは厳しい対立関係にあった。勿論対立関係といってもそれはあからさまにいがみ合うというものではなく、又逆に同じ派に属するものどうしといっても互いに話したことのない人もおり、むしろ潜在的な心理の部分での同胞感というものであって、これが直接その体格などに影響する食事という時間では特に強く働く一つの仲間意識であった。山室が大盛りを頼む時、それは自他共に認める大きな体からしてそれも当然という一種の説得力があり、それにつられて次々と大盛りを頼んだ寮生達もどちらかというと体重の重い方に属する人が多かった。そしてそれを涙を飲んで、指をくわえて見ていた者こそが「痩せの大食い派」であった。彼らは元々いくら食べても自分が太らない体質であるということをよく知っているので、食べたい放題食べたいものを好きなだけ食べてき、その結果として胃袋が大きくなっているのだが、外見上は痩せているため、飯などはむしろ少ない目に盛られることが多く、潜在的な飢餓感が最も高かったのがこの「痩せの大食い派」であった。大盛りが乱立しはじめたときも、自分の体格のせいで大盛りを頼むことに抵抗を感じており、同時に何の遠慮もなく大盛りを頼む「巨漢大食派」に対して最も敵意を抱いていた。その「痩せの大食い派」から、それまでの沈黙を打ち破って急遽浮上したのが田長であったのだ。彼は飯を盛ってもらう時にこう言った。
「山盛り!」
あたりの寮生達は一瞬はっとし、寮監龍田の目がキラリと輝いた。この時、田長の鉢に盛られた飯は422グラム。ひさしぶりの快挙といって良かった。大盛りという言葉が、量の判断において人の主観によるところが大きいという決定的な欠点を持ち合わせている事に対し、山盛はその言葉が意味する通り山の形に盛るという具体的な形状を指定できるという点で優れていたのだった。
それ以降「痩せの大食い派」が天下を取るまでにそう長い時間はかからなかった。それは「巨漢大食派」がまさにこの世の天下を取り、よもや他からの反撃など考えていない時、突如としてあらわれた「痩せの大食い派」に、まさに不意を突かれたという状態であった。そしてしばらくの間は「痩せの大食い派」が幅を効かせる事になるがのだが、これとてそう長続きはせずに、新兵器であった「山盛り」もすぐに実力を失っていく事になる。
「巨漢大食派」はこの「痩せの大食い派」の勃興を黙って見守っている訳ではなく、彼等は彼等なりに次の作戦を練っていた。そしてそれは、「巨漢大食派」に属し、その中でも秀でた体格を持った部品製造部コンデンサー製造課の座村大祐によって打ち出された。彼は休食日などの昼食では、その安価な値段と量の多さから全国規模の牛丼店に世話になることが多かった。この牛丼店では通常の大きさの「並」、それに飯が多く盛られた「大盛り」、さらにそれらに加えて「特盛り」と呼ばれる飯だけではなく飯の量に比例して牛肉の量も増やされた牛丼がメニューに加えられており、座村がもっぱら注文するのも、この「特盛り」に生卵と味噌汁であった。さらに彼はそれに加え、無料であるということを良いことに牛丼の鉢には紅ショウガを山と盛る。
「特盛り」はその言葉の響きから、自分だけは他とは違って特権階級であるということを意味し、それが「巨漢大食派」のなかでも抜きんでて巨漢の座村によって発せられたのにはインパクトは大きかった。寮監の顔はむっつりしたままであったが、それでも今までにない440グラムもの飯を盛った。そして「巨漢大食派」は無事、従来通りの天下を取り戻する事になったのである。
しかしここで「大盛り飯の乱」は新局面を向かえることになる。これまでの争いは「巨漢大食派」と「痩せの大食い派」の二派を中心として繰り広げられてきたのであるが、ここで今までの沈黙を破って、なんと「虚弱小食派」までもが台頭してきたのである。勿論、彼等は決して大食ではなかった。ほとんどの人達が青白い顔をし、銀縁眼鏡をかけ、七三に髪を分け、痩せ形でそれ程の食欲を有していなかった。よってそれほど生存競争に勝ち抜いていくという本能的な争いにも無頓着であった。しかし彼等は主に製造部門ではなく設計部門に配属されており、それゆえ創作意欲は高かった。だが実際の職場では設計部でありながらその業務のほとんどが事務的な仕事あるいはルーティン・ワークになっており、そのはけ口を求めていた彼等にとってこの「大盛り飯の乱」に参画しない理由はなかった。「虚弱小食派」がこの争いに首を突っ込んだのも、その創作意欲ゆえの興味本意であり、決して本当に差し迫った食欲があったわけではなかった。その口火をきったのは第三設計部主制御回路設計課の諸口伸也であった。彼は「二倍盛り」という技をあみ出したのだ。いかにも設計者らしく、諸口は定量的にその量を指定することで効果を発揮するに違いないと睨んでいた。諸口がこれを口にした時、寮監は少々動作を止め、吟味する様子であったが、しぶしぶ彼の差し出した椀に390グラムの飯を盛った。しかしこれは通常盛られる飯の2倍にまでは至っていなかった。
それからというもの、「大盛り」「山盛り」「特盛り」「二倍盛り」の乱戦が続いたが、それらの言葉も時間と共にそれ程効力を持たなくなってきた。いくら大声でそう言おうとも、又逆に何もいわなくとも、飯の量はそれ程変わらなくなってきたのである。それは一概に寮監の責任という訳でもなく、むしろ「大盛り」などの飯を頻繁に頼む寮生側にあった。あまりにも乱立し過ぎたのである。そして日に日に「大盛り」「山盛り」など要求するのが無駄であることがわかってきた寮生達はそれを口にする回数も少なくなってきた。
そうこうしているうちに寮移転の日が近づいてきた。工場は着々と利益を伸ばし、工場敷地外部に大型の寮の建設が進められていたのだ。小研寮の寮生は新しい寮ができしだい、全員そこに移転することが決定されていたため、それとともに他の最新工場施設の中、ポツリと老朽化した建物の外壁をさらしていたこの小研寮も取り壊され、後には工場倉庫が建設される予定になっていた。
そしてこの小研寮での最後の夕食時、その事件は起こった。それは品質管理部、変圧機器管理課に属している金満均の口から発せられた。彼はここ十数日間というもの無断欠勤を続けていた。元々それ程体が強くなかった彼は欠勤が多く、最初のうちは主任からとがめられることも多かった。金満の上司である東代成也はそれ程厳しい主任ではなく、むしろ、絶えず部下の様子を窺いながら、恐る恐る指示を降すような気弱さがあった。金満に対しても入社直後は何も知らないことが当然なのだからと、丁寧に指導したり、注意したりしていた。しかし数ヶ月経つと大抵の新入社員はある程度仕事の要領をつかんでいくものなのだが、金満に関してだけはまったく進歩がなかった。東代主任はこの事に加え、欠勤が多いということで金満を要注意人物として注目し始めた。
欠勤理由も、
「ちょっと体がすぐれない」
「お腹が痛い」
「風邪気味である」
「頭痛がする」
「喉が痛い」
「微熱がある」
などはっきりしないものが多かった。しかしさらに時間が経つにしたがって、主任はいかに金満の仕事が杜撰であるかということがよくわかってきたのである。彼のチェックした製品の中には多くの不良品が含まれており、言い換えれば実際問題それはほとんどノーチェックといって良いくらいであり、その後の不良品の回収や取引先に対するおわびの電話などの手間を考えるといっそ彼が出勤してきてくれない方が都合が良いということがわかってきたのだ。だが東代主任にしても、このような部下を持ったことがなく、日々その対処に苦しんでいた。また金満のせいで、東代の部署の品質がよくないと部長クラスからも注意を受けるようになり、金満に対する東代の対応も厳しものになっていった。
この頃になると欠勤理由も
「昨夜深爪をした指が痛い」
「口内炎になった」
「鼻水が出る」
「視力が落ちた」
「腕がだるい」
「足に魚の目ができた」
「腓返りを起こした」
「靴擦れができた」
「便秘になった」
などと、普通ではなくなり始め、東代のいらだちをさらに増幅させた。しかし東代がいくら厳しく注意しても、その注意に対してのらりくらりとしか反応せず、その後も一切仕事に対する態度の変わらない金満を見て東代主任は、ついに彼を見捨てるという状態にまで至ったのであった。彼に対して指導したり注意したり腹を立てたりするのは、自分自身のエネルギーの浪費以外の何者にもならない事を悟ったのである。さらに、神経が図太いのか、もとが馬鹿なのか東代には判じかねていたが、このどのように厳しいことを言っても全く態度を変えず、いつもボッとした表情でいる金満に対して、東代主任は一種の得体の知れない恐怖さえ感じていたのである。
このように東代主任がほとんど金満のことを諦めはじめた頃になってくると、その欠勤理由はもはや常人のものではなく
「背中がかゆい」
「鼻毛が伸びた」
「悪夢を見た」
「虫に刺された」
「親が心配だ」
「悪口を言われた」
「目脂が取れない」
「幽霊を見た」
「髪の毛が抜けた」
「十円玉を拾った」
「前歯に食べ物が挟まった」
「ゲップが出た」
などというわけのわからないことを言い出すようになった。このような欠勤の電話を受け取ると東代主任は、いとも簡単に「はいはい、ではおだいじに」といって電話を切ってしまうようになった。金満が出勤して来ない方がはるかにスムーズに仕事が進むからであり、東代主任もイライラから開放されるからである。
寮内でも、まったく友人のいない彼はほとんど誰とも会話を交わすことがなく、他の寮生達は金満のことを完全に無視していた。その金満が、小研寮最後の夕食時、特に他の人達もこれが小研寮最後の夕食であるといった感慨があるようすもなくいつものように飯を盛ってもらっている中、突然発した言葉は「超盛り」であった。周囲の寮生はその言葉を聞いて、あるものは息を飲み、あるものは目をまるくし、あるものは茫然と金満を眺め、あるものは笑いをこらえ、中にはどういうわけだか目に涙を浮べる者さえいた。また、この寮の解体と共に老齢のため退職となる寮監は、その時ばかりはさすがにいつもの固い顔を維持しきれず、思わず口元に嬉しそうな笑みを浮かべてしまったかのように見て取れた。金満の差し出した椀には、優に530グラムもの飯が盛られた。この記録は小研工業関連の寮での最大大盛り記録としていまだに健在である。
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