第31話 曹操の苦悩
魏の都、許昌。曹操の執務室は、以前の覇気を失い、まるで冷え切った墓標のようだった。卓の上には、兵糧不足の報告書、疫病の患者数、そして、重臣たちが蜀の製品を求めて内部分裂を起こしているという報告書が、山のように積まれていた。その紙の山は、彼の胸を圧迫する重荷となっていた。
彼は、その報告書を読みながら、深い苦悩に顔を歪ませる。
(戦……戦場では、この手で、天下を掴むことができた……!血を流し、汗を流して、敵を打ち破り、城を落とし、天下を統一することができたはず……!しかし、この見えぬ戦場では……!美と温かさと、そして食という、たかが日用品が、天下を動かすとは……!いや、待てよ……もしかして、我が妻や子まで、蜀の品を求めているのでは……?)
曹操は、卓の上に積まれた報告書を、忌々しげに睨みつける。その報告書を一枚、また一枚と、苛立ちに任せて破り捨てる。夜が更け、静まり返った執務室に、紙の破れる乾いた音、湿った空気、そして、灯火の揺らぎが彼の焦燥感を助長する。彼が築き上げてきた武力による支配を、根底から覆すような、不可視の敵だった。
その日の午後、曹操は、郭嘉と荀彧を呼び出した。
「郭嘉、荀彧。軍内の疫病、重臣たちの内部分裂、そして兵糧不足……。この現状を、どう思う」
曹操の言葉に、郭嘉は、静かに、しかし複雑な表情で頭を下げた。
「は、曹操様。蜀は、戦うことなく、我らを内側から蝕んでおります。美と温かさ、そして食という、三つの知恵で……」
郭嘉の言葉に、荀彧は眉をひそめた。
「蜀との交渉を……」
荀彧が、そう進言すると、曹操は、激怒した。
「断じてならぬ!このままでは、我らは戦うこともできぬ!なぜ、この見えぬ戦場で、我らは敗北しているのだ!」
曹操の言葉に、二人は言葉を失う。曹操は、月英の知恵が、単なる技術ではなく、人の命を左右する力を持つことを痛感していた。そして、その怒りは、やがて、深い恐怖へと変わっていく。
(あの女……我らを内側から、静かに、しかし確実に滅ぼそうとしている……!我らが武力で天下を統一しようとしてきた我が志は、この女の知恵の前では、無力だったというのか……!武力では決して辿り着けぬ、恐るべき『必然性』の連鎖が、そこにある……!)
曹操は、月英の知略に、深い恐怖を感じた。それは、物理的な力を持たない、しかし抗うことのできない「必然性」の連鎖だった。
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一方、蜀の宰相府は、穏やかな春の陽光に包まれていた。まるで、魏の都の重苦しい空気とは対照的な、異なる世界のように。
私は、孔明と一緒に温かいお茶を飲んでいた。商人ネットワークを通じて入手した、曹操の苦悩を記した報告書を、私は孔明に手渡す。
「孔明様……本当に、曹操様が……」
私の声は、不安と、そして、少しの罪悪感を含んでいた。この勝利は、私の知恵によるものだ。それなのに、曹操が苦しんでいることを思うと、心の奥がちくりと痛んだ。しかし、孔明は、私の言葉の裏に隠された感情をすべて見透かすように、静かに、しかし優しく微笑んだ。
「曹操は、もはや戦うことを望んでいません。彼が求めているのは、平和的な解決の道です」
孔明の言葉は、私の心を解き放つ。胸の奥から、温かい熱がこみ上げてきた。
(やばい、曹操がマジギレしてる!いや、待って、これって孔明の戦略そのものじゃない?戦わずして勝つ、それが孔明のやり方……私もその片棒を担いでる……いや、私も孔明と一緒に、歴史を変えようとしてるんだ!孔明と私は、二人で世界地図に恋文を書いているのね!孔明のために、曹操をギャフンと言わせるなんて、なんて壮大な話なの!でも、この気持ちって、ただの恋なのかな?いや、違う……これは、もはや孔明の戦略、そのものへの信仰……!孔明のためなら、どこまでも頑張れちゃう私って、もしかして、最強の奥さん?やだ、最高!)
私の思考は、孔明の愛に触れ、さらに暴走していく。その様子に、孔明は微笑みながらも、そっと扇で口元を隠した。しかしその瞳は、一瞬だけ、私を冷徹に見つめていた。 私の頬が赤くなる。興奮のあまり、持っていた茶器が手から滑り落ちそうになる。
それは、ただの妄想ではない。私の行動すべてに「必然性」を与える、新たな価値観の再構築だった。
私は、孔明に目配せを交わし、小さな声で呟いた。
「この平和な世界が……もうすぐ、そこまで来ている……」
孔明は、私の言葉に、静かに頷いた。
「ええ。あなたの知恵が、血を流すことなく、天下を統一するのです」
孔明はそう言いながら、心の奥では冷徹に分析していた。(平和的な解決……そう、それが私の戦略。敵を苦しめることこそ、最も平和的な解決に繋がるのだ。武力で倒すよりも、飢えさせ、凍えさせ、欲望で内部分裂させる……これほど効率的な『戦い』は、他にない。彼(曹操)が滅びることは、彼の民が救われることなのだ……)
孔明の言葉に、私は、平和な勝利への道が見えてきたことに、安堵の表情を浮かべた。曹操が苦しんでいることは確かだ。しかし、彼の苦しみは、平和な世界の到来への、小さな代償なのだ。私は、そう自分に言い聞かせた。それは、私自身の罪悪感を打ち消し、この勝利に「意味」を与えるための、私にとっての「必然性」だった。
夕焼けに染まる空は、まるで、平和な未来を象徴しているかのようだった。その光は、私の心を照らし、前に進む勇気をくれた。
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