第11話 劉備の訪問と婚約
凍てつくような冬の空気が、黄家の庭を満たしていた。乾いた土を踏むかすかな音、風に揺れる木々のざわめき、そして遠くから聞こえる鶏の鳴き声が、張り詰めた静けさの中に響く。私は、孔明と一緒に、客間で劉備殿の到着を待っていた。扉の向こうから聞こえる僅かな足音と、従者の低い声が近づくにつれ、私の心臓は鼓動を速めた。
やがて、客間の重い木戸がゆっくりと開かれた。
外の冷たい空気が一瞬流れ込み、私の頬をかすめる。そこに立っていたのは、想像していたよりもずっと温かく、威厳の中に慈悲深さを湛えた人物だった。飾り気のない質素な装束にも関わらず、その存在感は周囲を圧倒する。
「…劉備殿」
孔明が恭しく頭を下げると、劉備殿は、皺の刻まれた目尻を細め、にこやかに微笑んだ。
「いやいや、孔明殿。堅苦しい挨拶は不要だ。それよりも…」
劉備殿の視線が、私のいる場所へとゆっくりと向けられた。その温かい眼差しは、私の中にあった僅かな不安を和らげてくれるようだった。
「…そちらが、噂の黄月英殿でございますか」
私は、息を潜めて深々と頭を下げ、丁寧な言葉で自己紹介をした。
「黄月英と申します」
劉備殿は、私の手を両手で優しく包み込み、その温もりに、思わず緊張がほぐれるのを感じた。
(うわぁぁぁ、劉備だぁぁぁ! 本物の劉備だぁぁぁ! 教科書で見たあの人じゃん! いや、なんか肖像画とかイラストで見てたイメージと全然違う! もっと強欲そうな顔してるのかと思ったら、めっちゃ穏やかでイケオジじゃない? こりゃ、関羽や張飛がついてくるわけだ。人心掌握術、半端ないって! それにしても、なんでこんなに手が温かいんだろう。冬なのに、まるで春の陽だまりみたい……。ああ、感動でちょっと泣きそう……。いやいや、待って、ここで泣いたら変な奴だと思われる! ここは冷静に、東大生らしく、彼の人間性を分析しなきゃ!)
劉備殿の視線は、客間に置かれた、私の作った納豆を盛った器、丁寧に織られた綿の布へと移った。その顔には、驚きと興味の色がはっきりと浮かんでいる。
「これが、噂の…その、糸を引く不思議な豆、『納豆』と申すものでございます」
私が少し補足すると、劉備殿は興味深そうに箸を取り、一口含んだ。
「む…これは…尋常ならざる味だが、滋味深いな。体の奥から力が湧いてくるようだ」
劉備殿はそう言いながら、もう一口、納豆を味わった。その様子に、私は内心で小さくガッツポーズをした。
(よし!最初の印象は悪くないはず!この尋常ならざる味が、記憶に残るのよ!)(いや、劉備殿って納豆食べられるんだ。食わず嫌いじゃなかったんだ。さすが英雄。何でも受け入れる心が違うわ。よしよし、これで納豆の外交ルートも拓けるわね。いや、待って、今考えるべきはそこじゃない! 彼の表情から、この納豆が単なる珍味じゃないってことを悟ってるはず。この納豆が持つ、食糧危機を救う可能性に気づいている……。やっぱりこの人、ただの慈悲深いリーダーじゃない。ちゃんと先を見ている!)
次に、劉備殿は、私が織ったばかりの綿の布に手を触れた。
「そして、これは?驚くほどに柔らかいな…これほどの温かさを持つ布は、初めて見たぞ」
「はい、綿という植物の繊維から織り上げたものでございます。軽くて暖かく、冬の寒さから人々を守ることができます」
私が説明すると、劉備殿は深く頷いた。
「なるほど…寒さに苦しむ民にとって、これはまさに天の恵みであろうな」
劉備殿は、しみじみとした口調でそう語り、その言葉に、彼の民を思う深い心が感じられた。
(劉備殿…噂には聞いていたけれど、本当に民のことを考えている方なのね。この方に私の知恵を役立ててもらうことができれば…)
劉備殿は、私の作ったものすべてに深く感銘を受け、満足そうに頷き、隣に控える孔明に向き直った。
「孔明。お前がなぜ、数多の申し出を退け、このような才知溢れる女性を妻に選んだのか、今、初めてわかった気がする」
劉備殿の言葉に、孔明は、静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。
「彼女の知恵は、一時の戦の勝利のためだけではなく、この国全体の未来を豊かさへと導くためのものです」
劉備殿は、私と孔明を交互に温かく見つめ、以前のにこやかな微笑みを浮かべた。
「良い。このような才女が、我が陣営に加わるならば、鬼に金棒であろう。孔明、黄月英殿。私は、お前たちの婚約を正式に承認する」
その言葉が、静かな客室に響いた瞬間、私の心臓はさらに高く鼓動し、全身に温かい血が流れ込むのを感じた。承認の言葉が、単純な言葉以上の重みを持って、私の胸に深く刻まれた。横目で見た孔明の細い口元には、僅かながらも柔らかな笑みが浮かんでいた。
劉備殿が黄家を辞した後、庭には夕暮れの冷たい空気が再び満ちていた。
「……本当に、これで良かったのでしょうか」
私は、承認の温かさが残る胸に手を当てながら、隣を歩く孔明に、まだ少しばかりの不安を打ち明けた。
「私の知恵は、この国を、大きく変えてしまうかもしれない」
孔明は、私の手を取り、その温もりを私の手のひらに伝えた。そして、私の瞳をまっすぐに見つめ、静かな、しかし確信に満ちた声で言った。
「良いのです。この国に必要なのは、以前の形に留まることではなく、進歩し、変わることなのです」
彼は、以前より一層優しく微笑み、その瞳の奥には、揺るぎない信頼の色が宿っていた。
「私と一緒に、この国を、未来に導いてください」
彼の温かい言葉は、私の心に光を灯し、以前の不安を優しく包み込んだ。
その夜、私は、孔明と一緒に、たたら製鉄の詳細な設計図を完成させた。以前の大まかな図面から、水を利用したより効率的な送風装置の仕組み、木炭の供給調節の詳細な構造、そして完成した鉄の純度を高めるための工夫が、細い線でそこに描き込まれている。私たちは、互いに頭を寄せ合い、灯りの柔らかな光の下で、図面の一つ一つを注意深く見つめた。
「この水車…絶えず強力な風を炉に送り込むことができるのですね」
孔明は、図面の中の水車の構造を指差し、その戦略的な目が輝いた。
「ええ。以前の人間の力だけでは不可能だった高温を維持することで、より純度の高い鉄を生産することができるようになります」
私の説明に、孔明は深く頷き、それから、図面全体を見渡しながら、速やかにその考えを言葉にした。
「この高品質な鉄を基盤として、より頑丈な武具を生産すれば、我が軍の戦闘能力は著しく向上するでしょう。また、より精密な農具を製造すれば、農業生産量の増加にも繋がる…あなたのこのたたら製鉄は、まさにこの国の土台を固めるための鍵となるでしょう」
孔明がその思索を語る横顔を、私は静かに見つめていた。灯りの光が、彼の細い横顔を温かく照らし出し、その知的な瞳の奥には、この国の未来への光が宿っているようだった。私たちの頬は自然に近づき、互いの温かい息吹をかすかに感じることができた。
私たちは、完成した設計図を前に、未来への希望を静かに語り合った。冷たい冬の夜空の下、私たちの心には、温かい光が確かに灯っていた。
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