第5話 気づかれない糸、気づかせる糸

冬の日の午後、黄家の庭は、静寂に包まれていた。

白く薄い息が陽光に溶け、枯れた庭木の枝に積もった雪が、時折ぱらりと音を立てて落ちる。遠くで鶏が鳴き、竹垣越しに子どもの笑い声が聞こえてくる。

私は、陽だまりの中で、孔明の古い上着を補修していた。先日、山道で借りた際、小さなほつれを見つけてしまったからだ。あの夜、彼の体温が残る上着に包まれて眠ったことを思い出し、私の胸は、知らず知らずのうちに温かくなっていた。


「見事な手つきですね。まるで、この世のすべての糸を紡ぐ仙女のようです」


振り返ると、孔明がそこに立っていた。柔らかな光が、彼の艶やかな黒髪と、上品な衣を淡く照らしている。

私は、思わず作業の手を止め、少し照れたように笑った。

「そんな大げさな…ただの、ほつれを直しているだけです」

すると孔明は、私の隣に静かに腰を下ろした。

「しかし、そのほつれは、やがて大きな破れになる。それを未然に防ぐのは、仙女の技と変わりません」

孔明は、そう言って、私の手元を覗き込んだ。


私が縫い針を進めていると、不意に、手に持っていた糸が切れてしまった。

「あら…」

困っていると、孔明が私の手から針と糸をそっと受け取った。

「お貸しください。私も、糸を紡ぐくらいは…」

彼は、細い指先で糸を針に通そうとする。しかし、何度か試しても上手くいかない。

その時、針先が彼の指をかすめ、一筋の赤い血が滲んだ。

「っ…!」

「だ、大丈夫ですか!?」

私は、思わず彼の指を掴んだ。彼の指先は、想像していたよりも少し硬く、温かかった。私は、反射的に、自分の唇でその傷口をそっと吸い上げた。

ほんのり温かい血の味がした。

二人の間に、甘く、しかし張り詰めた空気が流れる。孔明は、驚いたように私を見つめ、何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。その視線は、一瞬だけ庭の隅に向けられ、そしてまた、私の瞳に戻ってきた。

私の心臓は、激しく鼓動していた。この沈黙を破りたくない、しかし、このままでは胸が張り裂けそうだった。


その時、近くの村から、男たちの話し声が聞こえてきた。風に乗って、その声が、はっきりと耳に届く。

「今年は、種籾が足りんらしい…」

「冬が長引けば、来年の収穫はどうなることやら…」

私は、その言葉に、はっとした。

(種籾が足りない…?それはつまり、来年の米が穫れないということ。現代では考えられないことだけど、この時代では…飢饉に繋がる大問題じゃない!)

私の心に、激しい危機感が芽生えた。

私は、思わず孔明に視線を向けた。

しかし、彼の表情は、先ほどの甘い雰囲気とは打って変わって、全く変化がない。

彼は、ただ静かに、庭の隅の土壌に、視線を落としていた。


「…春になれば、何とかなるでしょう」


孔明は、そう言って、私に背を向け、庭を歩き始めた。

私は、彼の無関心に見える態度に、少しだけ不満を覚えた。

…あんなに深刻な話なのに。

しかし、その日の夕方。

私は、補修を終えた上着を手に取って、はっと息をのんだ。

縫い糸の結び目が、完璧な形で補強されている。

そして、その結び目には、私の使った糸とは違う、細く丈夫な糸が、密かに編み込まれていた。

私は、それを指先で確かめる。細い糸が、私の不確かな縫い目に沿って、守ってくれているような気がした。

「やっぱり…」

私は、彼の無言の優しさに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

彼は、何も言わない。しかし、すべてに気づいている。

この人は、私が気づかなくても、いつも私を守ってくれる。

小さな安堵と同時に、彼の本心にいつか触れたい、という強い欲求が、私の胸に湧き上がってきた。


その日の夕暮れ。

私は、庭の隅で遊ぶ子どもたちの声に、顔を上げた。

「お姉ちゃん、これ見て!」

一人の女の子が、私のところに駆け寄ってきた。

彼女の手には、芽吹いたばかりの、小さな植物が握られている。

それは、先日私が、畑の土壌改良の実験のために、米のもみ殻を混ぜて埋めた場所から、芽を出したものだった。

芽吹いたばかりの緑が、雪の白に映えて、まるで小さな春の色を宿しているようだった。

女の子の瞳も、その芽と同じくらい輝いている。

「これ、食べられるの?」

女の子の純粋な問いかけに、私は微笑んだ。

「これは、まだ食べられないわ。でも…」

私は、孔明が遠くから、一瞬だけこちらをちらりと見ていることに気づいた。しかし、孔明は、何事もなかったかのように、すぐに視線を戻してしまった。

「これは、春になったら、きっと役に立つかもね」

その言葉に、女の子は不思議そうな顔で首を傾げた。

私も、まだ確信はない。

しかし、この小さな芽が、やがて来る春に、この世界を、大きく変えることになる。

そんな予感が、私の胸の中で、ゆっくりと膨らんでいくのだった。

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