第2話 パーツの洗浄

「じゃ、じゃあ、綺麗にするね……」

「…………」


 当たり前だが、彼女から返事はない。校舎のグラウンドの隅にある水飲み場で、私は彼女を洗おうとしていたのだったが、


「…………」

「…………」


 な、なんか気まずい……。アカネやミサキやシホと違って、動かない子というのはコミュニケーションをとるのが難しい。私も動いたり話したりしてくれる子ならちゃんとコミュニケーションがとれるんだけど、彼女のように動かない子だと途端にコミュニケーションが取れなくなってしまう。


 他の子は動かない子とも上手くやれているというのに、どうして私はこう不器用なのだろうか?


 だからこそ動かない子とはあまり関わらないようにしていたというのに、よりにもよって、隣の席になってしまうなんて……。


「はぁ……」


 かすかにだけど、ため息が漏れてしまった。彼女には聴こえなかっただろうか? 嫌な思いをさせなかっただろうか? いや、そもそも彼女には不快という感情があるのだろうか?


 気にはなったものの上手くフォローできそうもなかったので、何もなかったことにして彼女を洗うことに集中するしかなかった。血で汚れないように腕まくりをして、彼女の腕にそっと手を伸ばす。


 初めて触れた彼女の腕は、温かくて冷たかった。動かなくなってからまだ余り時間が経っていないのか、ほのかに人のぬくもりを感じる。


 でも、しばらくじっと握っていると、ぬくもりが手の平から零れ落ちていくように徐々に冷たくなっていき、背中がゾクッとした。


 手の平が赤くぬるぬるとしたもので染まっていく。怖いようなどこかおもしもいような不思議な感覚だった。彼女の腕を籠から取り出して、両手で持ってみる。人の腕だと思うと、この重さを重いといっていいのか軽いといっていいのかよくわからない。それは付け根のところで千切れていて、そこから白く太い骨が見えた。あまり肉付きはよくないが、二の腕はぷにぷにしていた。


「洗うね」


 彼女に一声かけてから、水道の蛇口をひねる。銀に赤が混じって、錆びたような色になる。勢いよく流れる水に彼女の腕をさらし、手で軽く擦っていくと紅かった彼女の腕が紫に変わっていった。


「うっ……」


 つい変なうめき声が出てしまう。血の紅が気味悪くも怪しい綺麗さもあったのに比べると、紫のまだら模様になった腕はただただ気持ち悪く感じた。嫌悪感にふたをするように、腕の付け根をたこ糸できつく縛り上げる。薄く濁った紅い水がアスファルトにぽたりと落ちた。


「よし」


 血は完全には止まっていないが、さっきまでに比べたらだいぶましだろう。少なくとも新聞紙を突き破って血が滴り落ちてくることはないはずだ。


「ちょっと待っててね」


 彼女に断りを入れて、縛った腕をなるべくきれいなアスファルトの上に置く。今のは左腕だったから、次は右腕。きっと正確にいえばいろいろと細かいところは違っているのだろうけれど、パッと見それらは左右対称のようにも見えて、人間の一部というよりは工業製品のパーツのように思えた。


 右腕も置いてお次は脚。


「おぉ……」


 さすがに腕に比べると脚は重い。血が制服に付かないようゆっくりと慎重に、けれど力は入れて籠から引きずり出し、排水溝のふたの上に置いた。


 重かった。脚は重かった。もちろん重さによって人間かどうかが決まるわけではないけれど、重い方がより人間の一部だという感じがした。血に染まった細い脚がよりいっそう生々しいものに見えて、何か嫌な気持ちになった。勢いよく水をかけると少しは気持ちが治まった。


 洗い終えると、脚の付け根もたこ糸でぐるぐる巻きにする。まだら模様の紫にはもう慣れたけれど、この脚の重さというか質量というか、この実体のある感じ、この人間臭さにはなかなか慣れなかった。


 腕に比べて重い、たこ糸を巻くスパンも長い、付け根からのぞく骨も太い。そんな当たり前のことがどこか現実感のなかった腕とは違い、これが人間なんだということがより強く意識され間近に迫ってくるように感じられて、なんだか息苦しくなった。まるで、あまり親しくない人たちの中に一人取り残された時のようだった。


「はぁ……」


 再びため息が漏れる。やっぱり駄目だ。私はコミュ障だ。


 彼女みたいに動かない子とどうやって向き合えばいいのかわからない。失礼なことにどこか彼女のように動かない子に対して同じ人間ではないかのような、変な偏見を持ってしまっている。


 生きているのに動かないというところにどうしても違和感があって、それを拭うことができない。話しかけても触れても反応がないし、そうなるともう私にはどうすればいいのかわからない。なんとかしゃべろうとしてもまるで一人しゃべりをしているかのようで、ぜんぜん相手と会話をしている気がしない。みんなのように自然に接することができない。


「あ……」


 何か話そうとしてみたけれど、上手く言葉が出てこなかった。何も言わない彼女の右脚に威圧されているような気がして、つい口をつぐんでしまう。こうなったらもう話すことはあきらめて、とにかく彼女を洗うことに専念することにしよう……。


「よし」


 左脚も洗い終えアスファルトに横たえる。人間の両手両脚が並んでいるさまはなんともシュールだった。籠から血まみれの新聞紙を取り出し、水で濡らした新しい新聞紙で籠の中の血を拭う。綺麗になったところで新しい新聞紙を敷けば、とりあえずはこれで完成だ。


 あまり気持ちのいい作業ではなかったけれど、いざやり遂げるとなかなかいい感じの達成感があった。


 一息ついたところで、彼女の手脚を籠の中に戻していく。籠の大きさの都合上どうしても手脚を重ねることになってしまうけど、配慮してなるべく丁寧に入れてあげた。


「できたよ、えーっと……」


 ○○さんと彼女の名前を呼ぼうとして、彼女の名前を知らないことに気が付いた。確か朝のホームルームで聞いたはずだけれど、ショックのあまりにぜんぜん頭に入ってこなかった。彼女の入っている籠をごそごそと漁ってみるが、名札のような彼女の名前を知ることができるものは入っていなかった。


「ね、ねぇ、あなたのお名前ってなんだったかしら……?」


 聞いたばかりなのに少し失礼かもしれないが、彼女に恐る恐る尋ねてみる。


「…………」


 当たり前だが、答えが返ってくるわけもない。動いている子相手ならとても簡単なやり取りなのに……。だけど、それは彼女が生きていない、死んでしまっているということではないのだ。それが難しい。


「戻りましょう」


 誤魔化すように、場を取り繕うように、カートを押して早足で歩き出す。血で汚れた新聞紙とたこ糸を持っているから片手運転。少しやりづらい。


「帰って誰かに聞けばいいか……」


 一人ぼそっと呟く。気まずく誰かと話した後の独り言は、なんだかとても落ち着いた。

 その時、ふとした疑問が頭をよぎった。


「この子いったい、どんな顔してたんだろう……?」

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