星の息吹は我が血潮

鴻 黑挐(おおとり くろな)

第1話

――さて、イエスは御霊みたまによって荒野あらのに導かれた。悪魔に試みられるためである。

そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。――

――『マタイによる福音書』4.1-4.2より――


 どれほどの時間が経ったのだろうか。


「ハァ……ハァ……」


剣のような山の合間。岩と土との荒野に土砂降りの雨が降る。髪をらし顔に伝う雨水が、乾いたのどうるおしてくれる。


しゅよ、何ゆえですか!オレに『生きよ』と言うのですか!」


オレは叫んだ。未だ聖霊せいれいの声は聞こえない。


―――――――――――――――――――


 復活祭イースターが終わった頃。オレは修道院の院長室に呼び出されていた。


「よく来てくれましたね、ブラザー・パウロ」

「シスター・ジュリアーニ。何かご用でしょうか」


シスター・ジュリアーニはオレのいる修道院を取り仕切るおばあちゃんシスターだ。100歳を超えるらしいというウワサを聞くが、そこんじょそこらの若者よりも元気な人だ。


「お呼びしたのは他でもありません。先日の進路希望調査の件です」

「……なにか不備が?」


シスター・ジュリアーニが首を横に振る。


「いいえ」


デカくて重そうな修道院長の机の引き出しからシスターが取り出したのは、この前オレが書いた進路希望表。

 他の修道院ではどうかは知らないけど、オレのいる修道院では進路希望調査がある。ここが修道士なりたてホヤホヤの新人ばかりの集まる修道院だからかもしれないけど。


「第一希望に『悪魔狩り』、第二希望に『エクソシスト』と書いてありますが……。書き間違いではないですか?」

「いいえ、書き間違いではありませんシスター・ジュリアーニ。オレは『悪魔狩り』になりたいんです。……ブラザー・ミカエラみたいな『悪魔狩り』に」

「わかっているのですか?ブラザー・パウロ。『悪魔狩り』とは……」

「『聖霊の力によって悪魔を狩る、バチカンから認定された特別なエクソシスト』……ですよね。わかっています」


シスターが眉間を押さえる。


「ブラザー・パウロ。聖霊の姿を見た事は?」

「いいえ」

「では、聖霊の声を聞いた事は?」

「……いいえ。ありません」


シスターの深いため息が天井の高い院長室に響く。


「そうであれば。あなたの『悪魔狩り』への道のりはとても険しいものとなるでしょうね」

「……マジっすか」


―――――――――――――――――――


 雨が晴れた。さえぎるものの無い日差しが体を焼く。


(うう……。水を飲んだら腹が減ってきた……)


もはや腹の虫も鳴かない。極度の空腹は痛みとなって胃を刺す。


(『聖霊に満たされれば空腹はえ、聖霊と言葉を交わせるようになります』ってシスター・ジュリアーニは言ってたけど……。これ、聖霊に会う前に死ぬんじゃ……?)


握りしめた手の甲をぼんやりと見つめていると、ふとよこしまな考えが頭をよぎる。


(っ、ダメだダメだ!『主なるあなたの神を試みてはならない』!主の御業みわざを疑っている者には聖霊は語りかけちゃくれねえぞ!主を信じろ!ウヅの地のヨブのごとく、だ!)


首を振って、頭の中に居座る邪な考えを振り払う。


(神経を研ぎ澄ませ!聖霊の声を聞き逃すな!……オレならできる!必ず!)


声に出さずに心の中で己を叱咤しったする。心を強く持たなければ。


―――――――――――――――――――


 しわくちゃのおじいちゃん職人マエストロがオレの手の甲を針でなぞる。


「はい、終わりましたぜ」


いつも通りのオレの手だ。なんの傷もない。


「シスター・ジュリアーニ……。本当に入ってるんですか?『聖刻印』ってやつが、オレの手に」

「ええ。とても綺麗きれいに描かれていますよ」


しげしげと手の甲を見つめる。……なんか騙されてるような気分だ。


「これでオレも『悪魔狩り』になれるんですか?」

「いいえ。まだ不充分です」


そんなあ。


「その『聖刻印』は聖霊の世界への扉を開くための、いわば鍵のようなもの。まずは、あなた自身の力で扉を見つけなければなりません」

「わかりました、シスター。……それで、その『扉』ってどうやって見つければいいんですか?」


シスター・ジュリアーニが背筋を伸ばす。


「……修道院の裏から山に向かいなさい。開けた荒野に出たら、そこで断食をし座して聖霊を待つのです」


シスターの瞳がオレをまっすぐ見つめる。


「聖霊の世界への入門は過酷かこくなものです。挑んでいった者のほとんどが命を落としていきました。……無事を祈っていますよ、ブラザー・パウロ」


―――――――――――――――――――


 切り立つ山の乾いた空気は、夜になると体温を奪う冷気に変わる。止まらないふるえと強烈きょうれつな眠気が徒党ととうを組んでおそいかかってくる。


『修道士さま。わたしは今まで百人ちょっとにこの刻印をほどこしましたがね。……気が触れて帰ってきたのが三人、あとはみんな……』


聖刻印を入れてくれた職人さんがポロッとこぼした言葉がフラッシュバックする。


(死ぬのか?オレも……)


オレには、まだやらなきゃいけない事がある。オレは、ここで、死ぬわけには……。


―――――――――――――――――――


 目を開く。いつの間に目を閉じていたんだろうか。


(なんだ?これは……)


光があった。草の一本ずつの、虫の一匹ずつの、空気中をただよう微生物の一匹ずつの、オレを取り巻く全ての命がオレに流れ込んでくる。重く垂れ込めた雲を突き抜けて、空の星がどこまでもどこまでもオレに向かって降ってくる。

 全ての命が語りかけてくる。全ての光がオレを通り抜けていく。


(無限だ)


光はどこまでも、どこまでも広がっている。


(これは、本当にオレの生きてきた世界か?どうしてこんなに美しい世界が見えていなかったんだ?オレの目は今まで開いていなかったとでもいうのか?)


オレは、死の間際まぎわに幻を見ているのだろうか。それとも……。


「これが、聖霊……?」


声が出ている。のどが震えていないのに。


「……ケン。熊手くまでけん


呼んでいる。誰かがオレの頭の上から、オレの名前を呼んでいる。


「なぜ、この世界に足を踏み入れる。なぜ、自ら苦しみと戦いの道を選ぶ」

「なぜ……?」


そんなの、決まってる。


「救いたいからだ!オレみたいなヤツを!……ブラザー・ミカエラみたいに!」


―――――――――――――――――――


 両親の仕事の都合で、オレは五歳の時に日本からアメリカに引っ越した。

 そして七歳の時、両親と離れ離れになった。

 その夜はお父さんもお母さんも仕事で忙しくて、オレは一人で留守番していた。窓を割って強盗が入ってきて、お金になりそうなものを全部持っていって、オレも連れて行かれた。


『悔い改めな!コソ泥どもが!』


 その時オレを助けてくれたのがミカエラさん――オレの養父ようふだった。後で聞いたけど、オレはあの時ギャングに引き渡されて売られるところだったらしい。


N.YニューヨークからL.Aロサンゼルスとは、ずいぶんな長旅だったな。行くアテがないなら、うちの教会でパパとママを待つといい』


オレは待った。三年待って、悲しみに暮れて、五年待って、神を呪って、七年待って、生きていく意味がわからなくなった。それでも、お父さんとお母さんは迎えに来てくれなかった。……きっと、オレは、死んだことになっているんだろう。


 そんなある日、ミカエラさんはオレにこう言ってくれた。


『ケン。洗礼パプテスマを受けるつもりはないか?』


オレはそれを受け入れた。それはつまり、ミカエラさんの家族になるということだった。


『お前の洗礼名の「パウロ」というのはな。「サウロ」とも記されるんだが……。この方は元々異教徒で、イエス様やそのお弟子様たちを迫害はくがいし、そして殺そうとさえしていたんだ。しかし主はそんなパウロにも奇蹟きせきをお示しになられた。それでパウロは回心かいしんしてイエス様のお弟子に加わられたんだよ』

『……どうして、そんな人の名前を、ぼくに?』

『たとえお前が何度神を呪ったとしても、主はお前に奇蹟をお示しになられると。オレ様は、そう信じているからさ』


オレは知っていた。ミカエラさんが時々、夜遅くに血をたくさん流しながら帰ってきていることを。


『ありがとうございます。……ブラザー・ミカエラ』


だから、ブラザー・ミカエラの痛みを、オレも背負いたいと思ったんだ。


―――――――――――――――――――


 オレは空を見上げて、声に向かって叫んだ。


「そうか。キミは、それほどまでの思いで……」


声は人型の光だった。着物を着た人にも見えたし、天使にも見えた。


「……お父さんとお母さんには、会いたくないのか?」

「それは……」


お父さんと、お母さん。オレを探しに来てくれなかった、オレの両親。


「……会いたい!」


会いたくないワケがない。


「お父さんとお母さんも探したい!ブラザー・ミカエラみたいな立派な大人になりたい!オレみたいにひとりぼっちになった子たちを一人残らず助けたい!」

「……それは、無間ムゲンの旅だぞ。救っても救っても終わりのない、ながい巡礼の旅路だぞ」

「そんなことはわかってる!わかってて……それでも、オレは全部救いたいんだ!」


拳を天に突き上げる。


「だから……!オレに、力を、貸しやがれーっ‼︎」


―――――――――――――――――――


 目を開くと、そこは元いた荒野だった。来た時とは違い、あたりにかすかな光が流れているのが見えた。自分の中の今まで閉じていた部分がしっかりと開いたような感覚だ。


「見えた。聖霊と、話せた……」


お腹はペコペコでノドもカラカラだけど、不思議と活力に満ちている。


「なるほど。これが『聖霊に満たされる』ってことか」


 オレは歩いて山を降り、修道院の扉を叩いた。


「パウロです。ただいま戻りました」

「お帰りなさい、ブラザー・パウロ。三日ぶりですね」


シスター・ジュリアーニは優しく笑っていた。まるでオレが帰ってくるのをわかっていたような顔だった。

 シスターがオレにハンカチを差し出す。


「血が出ていますよ」

「オレはどこもケガしてませんけど……?」

「鼻と目と、耳からもです」

「えっ⁉︎すいませんシスター!」


オレはハンカチを受け取って血をぬぐった。


「さて。ここからですよ、ケン・クマデ。貴方はまだ、聖霊の世界の入り口に立ったのに過ぎないのですからね」

「……はいっ、シスター!」


シスター・ジュリアーニの手の甲にオレと同じ刻印がある。オレは、その時初めてそれが見えたのだった。


――するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってパプテスマ洗礼を受け、また食事をとって元気を取り戻した。――

――使徒行伝9.18-9.19より――


出典:『新約聖書』(日本聖書協会・1978年)

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