神の果実1

 その人の顔を見たら、もっと、憎しみを覚えるかと思っていた。

 

 三年間、私を、雇われの者たちを、奥様を、旦那様を絶望させた葡萄の枯死。その原因を作った人物を見たら、殺してやりたい、とまでは行かぬまでも、徹底的に傷つけてやりたいという攻撃的な感情を抱くのでは、と。もし、醜い感情が暴走して、自分に人として最低の行いをさせたらどうしよう、と、一瞬不安になったほとだ。


 けれど、実際にその人を見たとき、胸に去来したのは、拍子抜けするような脱力感だった。


「……なんだ」


 こんな人が。


 神馬に驚き尻もちをつき、なおも威張り続けようとしている、情けない男が、すべての原因だったのか。


 自分だけが良ければいいという利己性。そのためならば他者の人生を台無しにする攻撃性。


(知って、いた。人間にこういう側面があるって)


 だって、私の故郷を台無しにしたのも、そういう人たちだった。

 そして、世界はそれだけではないと、教えてくれたのが、奥様であり、旦那様だった。


(人が善性で築いたものは……魔法すら使わず築いたものは、こんなにも、悪意に脆い)


 シルヴィオと男がなにか言い合っている。バーゲストがどうとか、魔力がどうとか、霊地がどうとか、聞こえてくる。口汚くシルヴィオを罵る、自称・特別な魔法家系出身の男は、とてもじゃないがそんな身分には見えない。酒場の前でたむろする酔っぱらいのほうが、よほど品性がある。


 誰かより特別でいたい、特別になるための道具がほしかった、男が言っているのは要するに、それだけのことだ。


(こんな)


 こんな、ただの。


「……くだらないことで」


 ふっと口をついた言葉は、紛れもなく私の本音だった。けれど、シルヴィオにけちょんけちょんにされた男には、許せない響きのものだったのだろう。


「この、女……!」


 ぎり、と歯を食いしばる音がする。血走った目が、私を捉える。彼を中心に集まるまがまがしい気配は、彼の魔力のものなのか。

 男は、叫んだ。


「いでよ、バーゲスト!」


 シルヴィオが看過した、精霊の名。この男が召喚し、葡萄の生気を吸い続けた元凶だ。


 地面を割って、禍々しい黒い影が現れる。それは狼とも犬ともつかぬ、いびつなシルエットをしていた。本来は、日のもとに現れるようなモノではないのだろう。太陽の光に焼かれ、しゅうしゅうと焦げながら、咆哮を上げる。


 その前脚が、高く振り上げられる。それを私は、スローモーションで見ている。長い鉤爪、よだれの臭気。見るからに恐ろしいそれは。


 男の馬車を引く精霊馬たちと同様に、その場に凍りついた。


「……な、なんなんだよこれ……ぐっ、……!?」


 男がじたばたともがく。

 その腹を踏みつけて、シルヴィオが言った。


「おまえの喉を、おまえの命から切り離した。おまえの精霊たちが受けてるのと同じことだよ」

「……!? ……!?」


 言ってることが分からない、と、男の目が言う。シルヴィオはそれには答えず、代わりに凍てつくような声で言った。


「おまえ、アヤを殺そうとしたな?」

「……っ!」


 睨まれた男の顔から、血の気が引いていく。シルヴィオは息を吐くと、こちらを振り向いた。


「ごめん、アヤさん。怪我はない?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、シルヴィオ。……貴方の魔法は多芸ですね」

「そうかな? おれ、ほぼ『コレ』一辺倒だけど」


 嘯くシルヴィオの碧眼は、淡い光を放っている。


「おれの目には、命は書物のように見える。意図的に誤謬を書き加えればこういうふうにできるんだ……魔力消費が激しいから、あんまりやりたくないんだけど。ずーっとアストラホルンの魔力を浴びてたぶん、まだまだ余裕」


 言葉の通り、穏やかな笑みまで浮かべるシルヴィオに、ほっと息を吐く。シルヴィオはくるりと振り返ると、停止したままのバーゲストを、じっと覗き込んだ。その命を読んでいるのだろう。


「へえ、結構な森から引っ張り出してきたんだ。これは、東のほう? あれ、でも、このへんの形質って……もしかして」

「あの、シルヴィオ? そこの人が、なんだか芋虫みたいになってますが?」

「放っておいても大丈夫、何にもできないようにしたから。……ちょっと面白いことが書いてある気がする」

「……あの、ここは実験室じゃないんですけれど」


 先ほどまでの氷のような迫力はどこへやら、子どもみたいに目を輝かせるシルヴィオに、顔を引きつらせる。彼はバーゲストになにかが「書いてある」というが、私の目にはまったく見えない。


 というか、だ。


(本人は頑張って常識的であろうとしてるみたいだけど……根本のところが、決定的にズレてるような!)


 そういうところも素敵だなぁとは思うのだけども、だけども、さすがに時と場合というものがある。恐らしい化け物に出会ったかのような様子でシルヴィオを見上げる魔法学府の男に、はじめて同情を覚えた。


 意気揚々とバーゲストを調べ始めるシルヴィオの手前、手持ち無沙汰に立ち尽くしていると、後ろから大きな声が響く。


「アヤ! その化け物から逃げなさい!」


 声の元は邸宅の方角、声の主は、ワイナリーの旦那様だった。おそらく、反射的な行動だったのだろう、松葉杖を放り捨てて駆け出そうとしては、奥様に支えられている。


「誰か、あの子を助けてくれ!」


 旦那様の位置からは、こちらの詳細は見えないようで、絶体絶命の状況と勘違いして、一生懸命叫んでいた。


「シルヴィオ、私、いったん旦那様たちに説明してきますね?」


 このままでは可哀想だ、と口にすると、シルヴィオが「待って」と言った。


「待って、もう終わるから」

「終わるって、なにが……」

「……バーゲストの再構成」

「へ?」

 

 私が聞き返した瞬間、凍りついていたはずの獣が動いた。停止していた鉤爪が、地面に振り下ろされ。


「アヤ!」


旦那様の叫び声を、背中に聞きながら。


「え?」


 ……私は黒い魔犬に、ほっぺをぺろぺろと舐められていたのだ。


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