朝木春彦の同棲 ―クソ彦からの脱却―

花絵 ユウキ

◆第一任務 朝木春彦の創造

◉泣きムシ春彦 編

第1彦 『泣きムシの春』 (薫)

 ――あの春彦はるひこが、泣かなくなる日なんて来るんだろうか。


 頭の片隅。呆れた顔でそう呟いていた先生の声を思い出していた。

 私の二か月後に生まれた妹と肩を並べながら、食堂を目指しているときのことだった。

 


 桜の季節も、もうすぐ終わるね。

 なんて……生まれて七年経ったけれど、未だに本物の桜を見たことがない私が思うのも、おかしな話かな。


 ここ『朝木院あさきいん』の夕方の中庭は、ひと気がなくなると、急に広く感じられる。

 それがちょっぴり怖かったりするの。


『男子棟』と『女子棟』の間に挟まれた長方形の中庭は、庭と呼べるほど管理もされていなく、それはもう、ほとんど空き地みたいなもので。


 その中庭をぐるりと囲む建物。

 外の壁は、白いはずの塗装が風雨でくすみ、ひびが入っている。

 建物の屋上には鉄の柵が伸びていて、その向こうに見える空はこの中庭と同じように、細い四角に切り取られ、茜の色に染まっている。

 夕陽は中庭全体に届かず、壁際は早くも薄暗い。


 朝木院は、外から見れば、とっても古い孤児院にしか見えないと思うの。


 けれど、この場所で暮らす私たちは、知っている。

 朝木院は、きっと『普通』ではないことを。


 ここに暮らしている子供は、二十歳になるまで院外へ出ることを許されない。一歩たりとも。

 ある条件を除いてだけど――。



かおる姉ちゃん。どうしたの」



 中庭の先にあった人影が目に入り、立ち止まる。そんな私を、妹が振り返った。


 朝木院にいるみんなは、カゾクとして育っていく。

 血のつながりはないけれど、年上ならお兄さん、お姉さん。年下なら弟、妹。

 相手より誕生日が一日でも早ければ、お姉ちゃんとして私は扱われる。


 日常の形は整っていて、自分たちで洗濯物を干し、掃除をして。朝昼晩、女子棟の食堂に集まり、女子のみんなで食事をとっていた。そんな時間が、私は結構好きだったりする。

 赤ん坊のときからこの場所で暮らし、毎日を織りなして、もうちょっとで八年目を迎えそうになっていた。



「薫姉ちゃんってば。夕飯の支度しないと、そろそろ先生きちゃうよ」


「うん。でも、ほら、そこ」



 石畳の奥、壁際の暗がりに、小さな背中が見えた。


 ――春だ。



「えー、もう相手にするのやめようって言ったじゃん、泣きムシ春彦。おなかすけば自分で動くでしょ?」


「そう言わないの。ね? 先行ってて」


「ほんと姉ちゃんは面倒見よすぎ。だから調子のるんだって、男子棟のおバカどもが」



 ぼやきながら先に進んでいく妹のその背を見送って、私は中庭の隅へ進んでいく。

 壁の影に隠れるようにして泣いている春を見下ろした。


 春は、五歳の弟。生まれたときからここにいる。

 私は三歳の頃から、赤ん坊だった春を何度も抱き上げてきた。


 春の柔らかい色味の茶髪は、生まれつき質が良くて、それはもう羨ましくなるくらい、女の子よりもさらさらしていて。散髪が怖いらしくて、今は肩の下まで伸びている。

 朝木院の中では珍しい明るさの髪の毛だけど、瞳の色は吸い込まれるように真っ黒で、造りもののように整った顔立ちは、幼いながらはっきりと形になり始めていた。


 ……けれどその目は、昔から泣き腫らしていることのほうが、ずっと多い。

 


 殺し屋の、たまごなのにね。



 吹き抜けた風が、私ごとどこかへ連れ去っていくかのように、強く感じた。



 ここ、朝木院では、昔から男子は『人の殺め方』を習っている。


 私たちが子供のうちに唯一外出できるのは、男子の場合は『殺し屋の補佐』『スパイの実習』などの裏稼業の訓練。


 それ以外は、この朝木院の中で勉強をして、訓練をして、二十歳になるまで育て上げられることになっている。


 どんなに泣いたって、それは変えることができない私たちに課せられた約束なの。



 春はしゃがみ込み、背を丸めていた。

 声は出していないが、肩が小刻みに上下している。

 顔を覗き込まなくとも、泣き声を必死に飲み込んでいるのが手に取るように分かってしまう。


 春の体からはレモンの香料のようなにおいがして、良く見れば不自然に髪やシャツまで濡れている。

 涙かと思っていたけれど、嗅いだことのあるそのにおいにピンときた。

 ……洗剤だ。朝木院で、洗濯を回すときの。

 誰かにかけられて、きっと言い返せなくて、それで――。


 かわいそうに。どうせ今日も、男子棟の年長あたりにからかわれたのだろうね。

 だれが考えたのか分からないけれど『泣きムシ春彦』という呼び名は、からかい半分、愛称半分だ。


 慰めたところで、また泣くのは目に見えている。

 むしろ、慰めれば慰めるほど泣いてしまうのが、この朝木春彦という男の子だ。

 だから私は、少し考えていた。


 いつもなら、声はかけずに落ち着くまで隣に座っているくらいしか、しないのだけれど。

 でも、なんとなく今日は違った。いつも以上に、その姿が小さく、頼りなく見えてしまってね。



「――さて、春殿。顔あげて?」



 わざと軽く呼びかけると、春は小さく首を振った。



「……僕、むりだよ」



 掠れた声。影に溶けてしまいそうな弱さ。もう半分溶けていたりして……なんてね。春の足元を確認してみたけど、そこにはただ影が落ちているだけだった。


 私はため息をつき、膝を折って目線を合わせた。

 けれど春は、赤くなった目を上げようとしない。



「じゃあー、今度から、泣くのはここだけ。ね?」



 自分の胸を、指先で軽く叩く。



「堂々としてた方がいいって。春みたいな顔、イケメンって言うんだって。お姉さんが言ってた。だから涙は簡単に見せないの」



 その言葉に、春が顔を上げた。

 びっくりするくらい、涙で顔がびっしょびしょ。せっかくの整った顔立ちも、これでは明らかに台無しだよ。


 春はまだ泣き足りないような顔で、鼻をすすり、私が差し出したハンカチを受け取る。

 白い布が、小さな手の中でくしゃっと握られた。


 この子は確かに泣き虫だけど、ちゃんと芯を持っていると私は思っている。先生や、周りのカゾクが思うより、ずっとね。

 ――それに、春は……ほかの子とは、やっぱりなにかが違う。

 どこがどう違うのか、うまく説明はできないけれど。

 涙を拭いた春の目は、子供らしさを感じないときがあったのだ。



「薫さん……ありがと」


「ん。よし、じゃ、またね? ちゃんとごはん食べなきゃだめだぞ? あと、まず着替えなさい」



 春は黙って立ち上がった。

 まだ瞼は赤いが、その身体はさっきより強く見えた。


 きっと、春はもう大丈夫だろう。


 私は食事の支度へ向かおうと中庭から慌てて飛び出していた。先生がくる前に用意ができてないと、ひどい目に合わされるのが分かっているから。


 背中に視線を感じて振り返ると、夕陽の中で、春が立っていた。

 肩までの髪が光を透かし、茜と金色が混ざり合って揺れている。

 僅かに覗く春の瞳。黒い輪郭が濁っているようで、茜の空にひどく浮いて見えた。


 その目がたたえた暗がりに、はっと息を飲む。

 鼓動が一つ、胸の内側を叩いた。


 春の小さな影は、石畳の上にまっすぐ長く伸びていた。



 ――あの子は、この朝木院で変わっていくのだろう。泣き虫のままでは、いられないのだから。どんな形であれ、ね。



 胸の奥にちくりと疼いた違和感に、そっと手をあてがう。

 どうしてだろう。息苦しいようなこの感覚から逃げるように、私はその場を後にした。

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