僕の中には違う何かがいる

たけ

第1章

 朝の光が、薄く雲を透かして部屋に差し込んでいた。

 カーテンの隙間から伸びる淡い筋が、机の上のマグカップや散らかった原稿用紙の端を静かに照らしている。空気はひんやりしているのに、どこか湿っていて、秋の終わり特有の寂しさが漂っていた。


 如月玲央は、ノートパソコンの画面に開いたままのニュースサイトを眺めていた。

 視線は記事の見出しを追っているが、文字の意味が頭に入ってこない。タイトルには、赤いフォントでこうあった。


 ――フリーライター、小池美月さん(26)死亡。自宅アパートで発見。


 その名前を見た瞬間、時間の流れが一度止まったような感覚があった。喉がかすかにひりつき、呼吸が浅くなる。

 美月。あの、飄々として、何を考えているのか掴みづらい笑顔をする女。少し前まで、深夜のカフェでコーヒーを飲みながら、どうでもいい会話をしていた相手。


 ニュースによれば、発見されたのは昨夜。首を絞められた痕があり、室内には争った形跡も残っているという。

 そんな文字列を目で追いながら、玲央の脳裏には断片的な光景が浮かんでは消える。


 ――「玲央って、人の心の奥を覗くの、好きそうだよね」

 カフェの窓際、曇った窓ガラスに映る彼女の笑みは、冗談のようでいて、どこか核心を突くような鋭さを帯びていた。

 自分は何と答えたのだったか。曖昧だ。あの夜の会話の半分は、ぼんやりと霞がかかっている。


 スマートフォンが震えた。画面を見ると「非通知」の文字。嫌な予感が、心臓を軽く締めつける。

 通話ボタンを押すと、低く冷静な声が耳に届いた。


 「如月玲央さんですね。警察です。小池美月さんについて、いくつかお話を伺いたいのですが……」


 やはり来たか。

 胸の奥がざわつくのを押し隠しながら、玲央は「はい」と短く答えた。


 警察官の声は淡々としているのに、そこに潜む探るような響きが、耳の奥に残る。美月と自分の関係を、どう説明するべきなのか。

 ただの知り合い、仕事仲間、それとも……?


 電話を切った後、部屋の静けさがやけに重く感じられた。

 机の隅には、美月から借りたままの本が置かれている。返すタイミングを逃し、そのままになっていた。表紙を撫でると、かすかに指先にざらつきが伝わる。その感触さえも、もう彼女には渡せないのだと思うと、息が詰まりそうになった。


 外では、雲間から差す陽光が路地を照らし、どこかの家の洗濯物が風に揺れている。

 その何気ない光景が、妙に遠い世界の出来事のように感じられた。現実と自分との間に、透明な壁ができたみたいに。


 「……美月」


 名前を口にした途端、胸の奥で何かが疼いた。

 それが悲しみなのか、罪悪感なのか、自分でも分からない。だが確かに、何かがざらりと音を立てて動き出した感覚があった。

 電話を切ったあと、玲央はしばらくソファに沈み込み、両手で顔を覆った。部屋の中の空気が、急に重くなったように感じる。換気扇の回る低い音と、窓の外の車の走行音だけが遠くで混ざり合っている。

 目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶのは、数か月前に会った美月の笑顔だ。

 ──あのとき、彼女は珍しく酔っていて、やけに饒舌だった。


 場所は、新宿の小さなバー。木製カウンターに肘をつきながら、美月はグラスの氷をかちゃかちゃと鳴らしていた。

「玲央くんって、ほんと人に興味なさそうだよね」

「褒めてるのか、それ」

「うーん、たぶん褒めてる。だって、そういう人の方が、本音を言いやすい気がするもん」

 そう言って、彼女は赤いルージュを塗った唇で微笑んだ。


 あの夜のことを、玲央はなぜか鮮明に覚えている。酒場の照明が彼女の髪にオレンジ色の輪郭を与えていたこと。指先でグラスの縁をなぞる癖。

 それらが今、胸の奥を鋭く刺す。

 ──もう二度と、会えないのか。


 気づけば、リビングの机の上に置いてあったスマホが震えていた。着信画面には、九条刑事の名前。

「……はい」

『如月玲央さんですね。改めてご連絡しました。小池美月さんの件で、事情をお聞きしたい』

「……僕に話せることなんて、ありますかね」

『友人として面識があったと伺ってます。些細なことでも構いません。明日の午後、署まで来られますか』


九条刑事とは知り合いみたいなものだが、やけに形式がかっている喋り方だった


「……わかりました」


 通話を終えると、玲央は無意識に部屋の照明を落とした。暗闇の中、外灯の光がレースカーテン越しに揺れている。

 胸の奥に、形容しがたい不快感が広がっていく。悲しみでも、怒りでもない。もっと鈍く、重い感覚。

 ──何か、大事なことを思い出せない。

 そんなもどかしさだけが、頭の奥にまとわりつく。


 スマホのニュースアプリを開くと、トップに「フリーライター小池美月さん、自宅マンションで死亡」という見出しが躍っていた。

 記事の本文には、彼女の活動経歴や過去の取材テーマが並んでいるが、死因や状況については「警視庁は捜査中」とだけ記されている。

 それを何度も読み返すうちに、玲央の中で現実感がますます失われていった。


 ふと、机の引き出しを開ける。中から出てきたのは、一冊の小さなノート。以前、美月が取材のネタ帳として使っていたものだ。なぜそれが自分の部屋にあるのか、はっきりとは覚えていない。

 ──もしかしたら、あの日、酔った勢いで置いていったのかもしれない。

 ページをめくると、雑多なメモや取材先の名前、そして意味のわからない数字の羅列が続いていた。

 見覚えのない単語が目に入り、玲央の呼吸が少しだけ乱れる。

 その単語は、妙に胸の奥に引っかかった。だが、それがなぜなのか、説明できない。


 窓の外からサイレンの音が近づいてくる。青い光が部屋の壁を一瞬だけ照らし、また遠ざかっていった。

 ──この街のどこかで、また何かが起きているのかもしれない。

 そう思った瞬間、玲央の背筋を冷たいものが這い上がった。

冬の空は重く、低く垂れこめていた。

玲央は駅のプラットフォームで、煙を吐きながら九条の到着を待っていた。

冷たい風が頬を刺す。

街のざわめきが遠く感じられ、自分だけが時間の流れから取り残されたような錯覚に襲われる。


やがて、背の高い男がこちらに歩み寄ってきた。九条一真。

スーツの襟が乱れており、数日前の疲労が顔に滲んでいたが、その目は変わらず鋭かった。


「遅いじゃねぇか、玲央」

九条は軽くからかうように声をかけた。


玲央は一瞬だけ眉をひそめたが、自然と頷く。

「ごめん、朝から頭が冴えなくて」


九条は煙草をくわえ、笑みをこぼす。

「まあ、そんな時もあるさ。昔からお前はそんなやつだったからな」


玲央は少し驚いたように九条を見る。

呼び捨てにされたことが、妙に懐かしく感じられた。


九条は肩をすくめ、軽く笑う。

「お前とは昔からそうだっただろ?もう、敬語とかいらねぇよ」


二人の距離が、ほんの少し縮まった気がした。

玲央はその言葉に、心のどこかが温かくなるのを感じた。


「さあ、行こうか。これからが本番だ」


玲央はゆっくりと息を吐き、九条の背中を追った。

彼の胸に、今まで感じたことのない決意が宿り始めていた。

玲央は九条の後をゆっくりと歩きながら、胸の奥に重いものを感じていた。

外の冬の冷気とは違う、心の内側でざわつく不安と疑念。

事件のニュースを知ったときから、頭の中がざわつき続けている。

それが何なのか、まだはっきりつかめない。


「お前、最近ずっと元気なさそうだったな」

九条がぽつりと呟いた。

「…いや、事件のことだけじゃねぇ。なんていうか、何か抱えてるんじゃないかと思ってな」


玲央は目を伏せた。

誰にも言えない、言いたくない感情が胸を締めつける。

「…そんなことない。大丈夫だよ」


しかし声は震えていた。

それを見透かされたのか、九条は少し顔をしかめ、言葉を選ぶように続けた。


「玲央、お前…本当に大丈夫か?話せるなら聞くぜ」


玲央は立ち止まり、冷たい冬の空を見上げた。

薄く曇った空の向こうに、何か答えがあるような気がした。

「…正直、わからない。夢のことも、最近の感覚も。全部、俺の中で何かが壊れていくみたいで」


九条は静かに頷いた。

「そうか。俺はお前のこと、知ってるつもりだったけど、まだまだだな」


玲央はふと、九条の真剣な表情に胸が熱くなった。

「ありがとう、九条さん」


「名前で呼べよ、玲央」

九条が真顔で返す。

「お前、昔から人に隠し事する癖があったよな。でももう隠すな。俺はお前の味方だ」


玲央はわずかに笑みを浮かべ、心の奥底で何かがほどけていくのを感じた。


「わかった。これからは、ちゃんと話すよ」


二人は重い空気のまま警察署の自動ドアをくぐった。

鋭い視線とざわめきが二人を迎え入れ、玲央は覚悟を決めた。


「さあ。小池美月のこと、全部話してもらうぞ」


玲央は深呼吸し、足を踏み出した。

刑事課の一室。薄暗い蛍光灯の下、机の上には数枚の捜査資料が整然と並んでいる。

玲央は椅子に浅く腰かけ、手を組みながら九条刑事の目をじっと見つめていた。


「如月玲央さん、事件のことについて改めて聞かせてほしい」

九条の声は穏やかだが、まっすぐに響く。


玲央は軽く息を吐く。

「はい。ニュースで事件のことは知りました。小池美月さん…彼女とは面識がありましたが、そんなに深い関係ではありませんでした」


九条はうなずきながらも視線を外さない。

「編集会議で一度だけ顔を合わせた、と聞いている」


玲央は目を細め、思い出すように言った。

「ええ。彼女はいつも明るくて、笑うと肩が揺れる癖がありました。けれど、話した記憶はほとんどありません。あまり接点はなかったんです」


「事件を知って、どんな気持ちだった?」

静かな質問に、玲央は一瞬言葉を詰まらせた。


「正直、動揺しました。こんなことが起きるなんて信じられなくて…。でも、自分には何もできない無力さも感じました」


九条はゆっくり頷く。

「事件現場には行かなかったのか?」


「ええ、九条さんからの連絡を受けたのは事件後でした。現場には行っていません」


九条が少し間を置いてから尋ねる。

「他に気になることや、覚えていることは?」


玲央は目を伏せ、言葉を選ぶ。

「夢を見ました。はっきりしないけれど、誰かの叫び声。名前を呼ばれた気もします。でも、それが誰かは分からなくて」


九条は鋭く見つめる。

『玲央は予知でもしているんじゃないか・・・。』

九条は少し考えをながら玲央に質問をした


「それは何度も続いているのか?」


玲央は小さく頷いた。

「ええ。目が覚めても、忘れられないんです。怖いし、不安です」


九条は深く息をつき、言葉を継ぐ。

「君が思うよりも、事件は複雑かもしれない。だが協力してくれるのはありがたい。もし何か思い出したり、不安なことがあったらすぐ教えてくれ」


玲央は力なく微笑みながら答えた。

「はい、お願いします」


沈黙の中、二人はしばらく目を合わせたままだった。

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